ジューンベリーに忘れ物

シンボルツリーはジューンベリー
どこかに沢山の忘れ物をしてきた気がして

『 や ま な し 』  ・ そこには

2015-05-15 22:07:17 | 文 学
 宮沢賢治・作『やまなし』に出会ったのは、
30歳代後半のころだった。
 光村図書出版の6年生国語教科書に、この物語はあった。

 私は、担任としてこの難解な文学的文章の指導に苦慮した。
とにかく、分からないことだらけであった。
いくつかの解説文も読んだ。
教育雑誌にある授業実践の記録も、一通り目を通した。
 しかし、どれもこれも腑に落ちなかった。

 適当に授業を進めようにも、不安ばかりだった。
 きっと原稿用紙に書いたのだろうと、全文を400字詰め用紙に手書きし、
賢治さんの想いを知る手掛かりにしてみたりもした。

 今になって思うのだが、
それだけこの作品は、難解さとともに、
私を惹きつけるものだったのだろう。

 大正12(1923)年4月8日の岩手毎日新聞に、
『やまなし』は掲載された。
 花巻農学校の教員時代であったが、
『雪渡り』同様、数少ない賢治さんの生前発表童話である。

 全文を一読して、最初に抱いた疑問は、この物語の題であった。
仮に『かにの親子』や『かわせみ』なら、
作品を通して登場しており、納得できた。
 しかし、『やまなし』という食べ物は、「12月」にのみ出てくる。
 なのに何故、あえて『やまなし』の題なのか。
大きな疑問であった。

 また、物語の冒頭にある「クラムボン」の正体とは。
授業では、必ず子供たちがこの疑問に飛びついてきた。
 泡のこと、光のこと、小さな生き物のこと、
アメンボ、いや仲間のかになど、様々な意見が飛び交った。

 中には、目が「くらむもん」と言い出したり、
クラムボンをひっくり返すとボンクラに似ているから、
ぼんくらな人間のことだとまで、解釈が飛躍してしまったりもした。

 それはそれで楽しいやり取りなのだが、結局は
「笑ったり、跳ねたり。死んだりするものなんだね。」
と、その実態は煮え切らないもので、いつも終わってしまう。

 「かぷかぷ」と言う笑いの形容も、
作者特有の擬声語・擬態語の類で、
これまた十分な理解は難しいものだった。

 私は、「5月」の最後にある「樺の花びら」について、
白樺の花びらと思い込んでいた。
 ところが、授業の中で
「白樺の花は緑なのに、白い花びらはおかしいよ。」
と、樹木に詳しい子どもから指摘された。
 調べてみると、山桜類の木の皮を使った小物を、樺皮細工と言うなどから、
山桜の花びらを意味していたことが分かった。

 こんな謎解きのようなことは、この物語にはいくつもあり、
きりがないが、作者はそんな謎解きの楽しさのために、
これを創作したのではないだろう。

 岩波書店『銀河鉄道の夜~宮沢賢治童話集Ⅱ』巻末の解説で、
恩田逸夫氏は、
 『賢治はこの作品を、じぶんが名づけた
「花鳥童話」という分類の中に入れています。
文字どおり、花や鳥などを扱っていて、
詩のような感じの漂う作品が多いのですが、
単に詩的情緒だけでなく、
はっきりした主張がふくまれている場合が多いのです。
「やまなし」でも、五月と十二月との対比の中に
一つの意味がふくめられているようです。
ふつうには楽しく明るい五月に「死」があり、
逆に、冷たく寒い十二月にも谷川の底には
親子のかにの楽しい団らんがある、
というように、なにか人生の現実の一面を
暗示しているようにも思われるのです。』
と、記している。

 確かに、恩田氏が説くように、この作品には
「はっきりとした主張が、5月と12月の対比の中に含まれている。」
のであろう。
 谷川の底を写した二枚の幻燈の
1枚目「5月」は、春、陽の光、そして躍動である。
2枚目「12月」は、秋、月明かり、そして静寂である。
まさに、陽と陰、動と静の対比がある。
 そんな対比の素晴らしさがこの物語の根幹をなし、
読み手を魅了しているのは確かなことである。

 5月・『光に網はゆらゆらとのびたりちぢんだり、
花びらの影はしずかに砂をすべりました。』
 12月・『横あるきと、底の黒い三つの影法師があわせて六つ踊るようにして、
やまなしのまるい影を追いました。』

 季節の違う川底のこんな美しい描写に、
心の清らかさを覚えるのは、私だけではないことでしょう。

 しかし、私は、賢治さんがこの作品に託した主張が、
このような対比した美の描写にあるとは、どうしても思えなかった。
 賢治さんの主張は
『おとうさんのかに』の言葉に託されていると、私は読み取った。

 5月、谷川では、魚が下ったり上ったりしながら、
なにやらエサをあさっていた。
 その矢先、かわせみが来襲し、その魚を奪っていった。
その光景を見て、ぶるぶるふるえる兄弟がにに、おとうさんは
「だいじょうぶ、安心しろ。おれたちはかまわないんだから。」
と、言う。
 そして、「いい、いい、だいじょうぶ。」と、くり返した。

 12月、ドブンと、よく熟していいにおいのするやまなしが谷川に落ち、
ぽかぽか流れて行く。
 やがて、横になった木の枝にやまなしはひっかかり止まる。
「おいしそうだね。」と言う兄弟がにに、おとうさんは
「まてまて、もう二日ばかりまつと、こいつは下に沈んでくる。
それからひとりでにおいしいお酒になる。」と。

 「おとうさんのかに」の言葉を借りたこのメッセージは、
まさに食に対する賢治さんの姿勢、そのものではなかろうか。

 食べ物を奪い取る者は、他の者からその命を食料として奪われる。
しかし、かにの親子は、そのようなことには「かまわない」。
 ただただ、かには待つのである。
そして、熟した自然の恵みが、微生物によっておいしく発酵する、
その時まで待つのである。、
それから、かにはおもむろに、それを食す。

 殺生は、殺生の連鎖でしかない。
だから、自然の恵みをとことん待ち、
そして、それを食べて、命をつないでいく。

 この物語では、その自然の恵みの象徴が、『やまなし』だった。
だから賢治さんはそれを題にしたのであろう。

 私は、賢治さんの仏教思想をもとにした「食」への強い信念を、
この『やまなし』から受け取った。
 そこにこそ、この作品の主張がある。





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