惜別の句 ~母の満中陰法要に寄せて ①
母は生活に追われながらも多趣味な人でしたが、最後まで残った趣味は ”俳句” でした。
また、床に臥せてからも、ずっと気にかけていたのは永年、所属していた俳句会のことでした。
言葉を紡いで、言葉を彫り、言霊を吹き入れる。
それこそが、俳人の皆さんの希求する処ではないでしょうか。
母も、そんな作業をいつも、心中で描いていたに違いありません。
しかし、残念ながら、最後の一年は霞ゆく意識に苛まれ、創作もままならなかったようです。
私はこのたび、母の残した句を初めて、目の当たりにして、私の写真とコラボしようと思いついたのです。
最初にして、最後のコラボです。
生きているうちに、実践していたら、きっと、喜んでくれただろうにと少し悔いが残ります。
満中陰法要を迎えるにあたって、今回の作品をご臨席いただいた皆様にお渡ししたいと思っています。
そして、いつまでも、母を憶えていていただけたらと心から願う次第です。
「藤袴の香りに酔うて秋蝶来」
旅する蝶、アサギマダラが藤袴畑に飛来していると聞き、曽爾村に連れていったことがある。
「白馬岳映す代田の水光る」
白馬は母にとって、青春の忘れ形見である。4年前に白馬山麓に連れていったときは娘に戻ったかのようにウキウキしていた。
「華やかに咲けど儚し白木蓮」
春到来を告げるかのように咲く白木蓮と青空のコントラストの妙はあまりに華やかだ。
その光陰を捉えてみたが、鮮やかなだけに散り際の哀れさは見たくない花である。
「手水舎に浮かべ紫陽花溢るごと」
近頃、手水鉢に花を浮かべる魅せ方がお寺で流行しているが、魁となったのは、2017年、長岡京市の楊谷寺ではないかと思っている。
この写真と句はそのときのもの。
「名月や采女に手向く花扇」
中秋の名月の宵、采女神社では采女の霊を鎮め人々の幸せを祈る例祭が催される。
猿沢の池にリフレクションする管弦船と名月が神秘的だ。
「濡れて咲く雨の牡丹に傘ささな」
百花の王に例えられる牡丹の花は母も大好きだったようで、たびたび、登場する。
珍しい雨の牡丹の描写。「傘ささな」も母にしては珍しい大阪弁表現で斬新だ。
「伊吹嶺 風又風の花野なる」
夏の伊吹山山頂付近は高山植物が咲き乱れ、色鮮やかなお花畑になる。
シモツケソウ、イブキトラノオ、イブキフウロ、オオバギボウシ、キリンソウ、クガイソウ、コオニユリ、メタカラコウ、ルリトラノオ、シシウドなど、まさに百花繚乱の世界だ。
吹きわたる風だけが、花を揺らして通り過ぎてゆく。
「馥郁と光集めて福寿草」
「馥郁」(ふくいく)を辞書で引くと、”よい香りが漂っているさま”とあり、私、今回初めて知った単語となる。
母はアナログ人間だが、電子辞書だけはいつも、手元に置いて言霊には気を使っていた。
冬の寒さのなか、僅かな光を集めて、暖を取る春待ち人のよう。
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