(CGによる心のデッサン)
心とは何か、
それをあれこれ考えてしまうと収拾がつかなくなるかもしれませんので、
とりあえず、私たちは次のように考えて話を進めましょう。
つまり、心とは、身体から生まれる感覚と感性、および体験と知識の総体だと。
喜怒哀楽は感性に属し、様々な社会認識は知識に属する。
物質に対する概念として、心を考えてみたいのです。
ところで、心の根幹にあるもの、それは認識ですね。
どんなものであれ、それを心の中に出現させるものは認識です。
ですから、逆に言えば、認識しないもの、出来ないものは、たとえそこに何かが存在していても私たちの心には現れてこない。つまり「ない」のですね。
また一方で、実在しないもの、想像によって生み出されたものであっても、意識に昇るすべてのものは、私たちの認識である訳です。
得体の知れない不安や恐れもまた、認識ですし、予感や、予兆といった心理的な要素、感情にたるまで、私たちのなかに生まれる一切のものは認識の対象となるのです。
そしてその認識が私たちの心を色付けていく。
喜怒哀楽の現れは、まさにその認識に基づいていますね。
喜怒哀楽には原因がある。その原因となるのが認識に他ならないわけです。
誰かに服を破られたという事実があったとしましょう。
この時、
これで新しいものを買ってもらえるという認識に至れば 「喜」となり、
無理やり破られたと認識すれば 「弩」
古くなっていたからと思えば 「哀」
こんな服にこだわらなくてもと思い至れば 「楽」
というように、認識はその根幹にあって心を決定付けているのです。ものごとはすべて考え様という訳です。
では、この認識はどのようにして生まれるのか、下の図を見てください。
最も単純な、心の構造は、自・他の二つから成り立っているということですね。
そして自分に対する認識は、意識に照らし出されたものに向けられますし、
他分に対しては、光に照らし出されたものが認識の対象となっているという説明がこの図で示している意味なのです。
この図で示した意識とは、言うまでもなく、自分の体内を照らし出す意識、つまり自己意識に他なりません。
この自己意識に照らし出された、身体的「快・不快」を私たちは自分の体感として認識するわけですね。
眠い、速い、暗い、眩しい、重い、暑い・・・・
私たちの日常に起こるすべての感覚は、身体的「快・不快」を照らし出す自己意識が働いて認識しているのです。
この内面に起こるドラマは、自己意識という閉ざされた空間の中で認識される、まさに個人的体験というほかはありません。
このシルエットを自分だと思えば内面が見え、自己意識を認識しますが、
シルエットを他人と思えば、私たちはその外面を照らす光を使って認識するほかはありませんね。その内面はただ推し量るほかないことになります。
認識とはこの意味で、完全に閉ざされた自己空間の中から出ることはありませんし、他から誰かの認識が直接やってくることもない訳ですから、認識は永遠に孤独であるということをまず知らなければならないわけですね。
これは万人に等しく与えられた現実であり、私たちが物質存在であるということの宿命と言わざるをえません。
余談ですが、自分は孤独だと嘆いている諸子に一言、
孤独は当たり前で、万人のもの。だから孤独を嘆くあなたは全くの一人前です。立派な私たちの仲間。
有意義な孤独との付き合い方を
一緒に学ぼうではありません^か^。^
さて、このように、認識は心の根幹にあるわけですが、その認識の特性は何か分かりますか?
認識には、評価がついてくるということです。
「よい」「わるい」「普通」「わからない」・・・この評価が認識によって心の色が変わる原因なのですね。
冒頭で紹介した、服破られ事件で生まれる様々な心の色は、認識した事実を評価している現れです。
このことは、あとでゆっくり話すこともありますので、これ以上いいませんが、
いいたいのは、この認識の生み出す評価の最も原初的なものが、身体的「快・不快」だという訳なのです。
この部分で認識は物質とつながっているということを強調したいのですね。
やがて人は成長して、この身体的「快・不快」から精神的「快・不快」を生み出し、物質とは縁の切れた世界をつくりあげますが、
そこに生まれる苦悩に対して、私たちは回帰して癒される場を見失ってはならないということを真っ先に示したかったわけです。
心は認識を通して、物質=実在から、様々な偶像を生み出します。
その必要性を認めながら、しかしその反作用で生まれる苦悩を、私たちは時間の概念がつくる四次元の世界に見ないわけにはいかないのです。
次回、この精神的「快・不不快」が生み出す認識の世界に旅立つことにしましょう。
どんな風景が見えてくるのでしょうか。
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