(CGによる心のデッサン 宝)
身体的「快・不快」から、精神的「快・不快」が生まれる過程とはどんなものなのでしょうか。
それを知るために、認識に焦点を当てて、その風景を見ていくことにしましょう。
① ここにコップがある。
これを見て、私たちはここにコップがあると言います。
つまりこの物体を、コップと認識している訳ですね。
この、コップという認識について考えてみましょうか。
私たちはどうしてコップという認識が出来るようになったのでしょうか?
何もしないで、コップという認識が自然に生まれるということはあり得ませんね。
「ここにコップがある」という認識は、「コップ」という言葉を知らなければできませんよね。
では「コップ」という言葉はどこから来たのか。
自分の中から勝手にやってくることはけっしてありませんから、答えは明白です。それは必ず他者からやってきますね。これを「教えと育み」と言いましょう。
つまり私たちは他者の「教え・育み」を受けて、初めてこの物がコップという名であることを知るのですね。つまり学習するということですね。
そこで初めて、私たちはこの物をコップと認識する知識を得るわけです。
では、コップという言葉を知らない者が、このコップを見ると、どんな認識を示すのでしょうか。
② ここに丸い筒のようなものがある
コップという言葉を知らない者が、示す認識は、名前がわからないために、形状を見たまま認識して、ここに丸い筒のようなものがあると言うでしょう。
この認識には、「丸い」「筒」という言葉を知識として持っていることを示しています。
形状を表す抽象言語。これもまた、学習によって得た知識であることは明白ですね。コップという言葉を知らないために、知っている言葉で言い表した訳です。
つまり認識は知識の度合いによって変わってくるわけですね。
では、さらにこの認識から抽象言語を抜き取ったら、丸や筒という言葉も知らない者が認識したらどうなるでしょう。
③ ここに何かがある
「コップ」も「抽象言語」も知らないに者は、それを言い表す言葉がないのは分かりますよね。
同じコップを見ている。しかしそれが何なのかわからない。そこにあることばが「何?」なのですね。
私はこの「何?」が知性(知識)の始まりではないかと思うのです。
つまり人は、「何?」という知性が芽生えることによって、他者から膨大な知識を習得するようになる。それが下の図です。
さらに遡って、「何?」という問いかけもない者がコップを見たらどうでしょう。
④ 「有る」
「何?」という問いかけのない者にとっては、言葉自体が知識としてあるわけではありませんね。
しかし、そこにものが有ることは認識できるわけです。コップがどんな役に立つのかそれは経験上理解するかもしれませんが、認識はそれ以上膨らむことはないでしょう。
しかし、見落としてならないのは、そこに有無の認識があるということです。この者にとっては、コップとその背景の区分が出来ているということです。
背景から、コップを認識して見ることが出来る。つまりコップを手に取ろうとすることも出来る訳ですね。
ではさらに、この者から、「有る」という知識も取り去ったらどうなるでしょうか。
⑤ 「これ」
「有無」を知らない者が、コップを見た場合どうなるか。この場合、コップさえ見ることは出来ません。
この者にとって、眼に映る風景は、見えるものすべてに対して「これ」という認識しかありません。
なぜなら、この者にとっての風景は、すべてが未分化のまま一つのものとして認識するしかないからです。コップとその背景は、つながった一つのもの、見たままの光景をただ「これ」という認識で見ているだけの状態だと考えられるのです。
「これ」を認識と呼べるかどうかは別っとして、
この者が体験している風景は、厳密に言えば、網膜に映った光の映像を、自己意識が「快・不快」に色付けしながら眺めているということです。
つまり、コップ(外界)を見ているというより、自分の内側にある身体的「快・不快」を見ているに過ぎない存在ということになるわけです。
言うまでもなく、この者とは、生まれたばかりの赤ん坊ということです。
この①~⑤の流れを逆から見れば、人が物質から心を生み出していく道筋が見えてくるのではないでしょうか。
曇り空ですが、それはそれで春らしいですね。
赤ん坊の認識から人間の認識になった瞬間の記憶。
まるで水底から泡がポカンと浮かんだように、こう思ったような気がします。
『私、なんでここにおるんやろ?』
幼稚園に上がる前、多分、3~4歳の記憶です。
ここにいるのがイヤなのではないし、『ここ』にいる前のもっと幼い頃の記憶(当時はそういう言葉で考えてませんけど)もある。その続きとしてここにいるのもわかっている。でも……。
『私、なんでここにおるんやろ?』
母にそうきいてみましたが、当然無視されました(笑)。答えようがないっつの。
古い、でもイカニモ私、な記憶です。
数学のトポロジーによると、コーヒーカップとドーナッツは、同じものだそうです。コップも皿も毬も同じ認識となるとか。
難しい話を我々にも解る様にフランスの学者がテレビで言っていました。
しかし、私には理解できず、数学者は、ミスドへ行ってそんな事を考えるんだなあと変な所を関心してしまいました。
「オイラーやリーマンには解っても、普通のサラリーマンのオイラにはサー?ストーンと解るはずが無い!」と言ったら数学者に完全に馬鹿にされましたが(笑)
宇宙の形を数式で考える連中ですから。
又お邪魔します。
とても興味深い記憶ですね。
私の持っている宇宙からヒトが生まれるイメージそのままですよ。
その、泡ポカンというの。
記憶のもっとも古い、つまり生まれたその瞬間の記憶と想像してもいいような気がしますね。
私は小学校の頃だったと思いますが、
なぜ自分なんだろうとしきりに思ったことがあります。なぜあの人じゃなく自分なんだろう。どうして自分の中にしかいられないのだろう・・・なんて^ね^
それにしても、貴重な体験ですよ。
心に残りました。
これ、ときどきやって来てくれる
だじゃれ伯爵が聞いたら
垂涎ものです^よ^
数学がわかる人をうらやましく思いますが、案外数学も、人間にの都合に合わせて理論を組むのかなあと思うことがあります。
それがたとえば飛矢飛ばず問題です。
的に向かって飛んでいる矢は、必ず的と矢の中間点を通る。しかしその中間点から的までの距離がありますから。また中間点が現れてくる。この繰り返しでいつまでたっても矢は的に届かないというゼノンの逆説というものです。
そんなこといても矢は的に当たるんだからええじゃないのというのが数学の人間らしいところなんです^が^。
それが五次元(スケール軸)を考えるだけで簡単に説明出来るんですよ。
面白いです^ね^
私は『なんでここにおるんやろ?』と思った頃の前後、不思議な悪夢をよく見ました。
頭の辺りは普通なのですが、足にかけてだんだんと、空間ごと細くなる、というか、締め付けられるような感じでとても苦しい……という。
上手く表現出来ないのですが、紙屑をねじるような感じで足先に向かって収束していく……というか。気持ち悪い夢で、苦しかったです。
多分、産道を抜ける体感の記憶…かな?と思うようになってから、見なくなりました。
正解かどうかは別にして、それで私の無意識は納得したのでしょうか?
人は狭い産道を通過する圧迫で、それまでの記憶を失うだとか。
闇への恐れなどもその時の経験からだとか、
確かに大変な経験をしているはずですよね。
正しく理解すると、トラウマは消えるようですから、きっとそれは正しい記憶だったのかもしれませんね。
『のんびり眠っていたところ、いきなり叩き起こされ、引きずり出された』とでも言うトラウマ……なのでしょうか?
イヤ、彼からそんな話、聞いたことナイですけど。
でも、私もあの不思議な夢、気持ち悪いと思いつつも特に誰にも言わずにきましたから、そんなモンかな?と。
自分を知ろうとするのは、自分にブレーキをかけているのと同じことで、マイナス効果しかありません。
結局分からないし、考えている時間、止まったままですからね。
見て、受け入れて、それで充分。
だから、そんなモンなんです^よ^きっと。
息子さんはその分、おおらかなのかもしれません^ね^