色即是空 (色はこれ空なり)
空即是色 (空はこれ色なり)
受想行識 (感じ、想い、行い、知ること)=(心)
亦複如是 (また空のごとし)
般若心経を何度も写経してみて、分かることは上の四行ですべてが言い尽くされているという事だ。
肉体は空である。
そして心もまた空である。それが全てだと。
その後に続く言葉はすべてその真理の説明に費やされている。つまり般若心経はこの空観に尽きると言えるだろう。宇宙と己の存在の真理が、2500年も前の人間によって書き記されているというのは驚きの他にはない。
今の科学を知らなかったお釈迦様が「色即是空」という概念を使って、
この世は「不増不滅」と言い切った。
エネルギー保存の法則などは、二千数百年もかけてようやくその智慧の世界に科学が追いついたというべきであろう。
さらに世の中は「不生不滅」「不垢不浄」だとも説かれる。
この智慧は科学ではまだ難しいかも知れないが、いずれそれを証明する知識が生まれるかも知れない。それだけ深くお釈迦様は真理を見抜いておられたという事なのだ。科学のない時代だからこそ出来たと言えなくもないが。人間の智慧の極みではないだろうか。
自分がいる以上真実はある。しかしそれが「何か」は分からない。分からないけれどもお釈迦様の語る「空なるもの」を丸ごとすくい取れば、間違いなく真実はそこにある。実在はなくとも=「空」はある。さらに「空」=「色」とは、ゆるぎないお釈迦様の認識なのだ。
ところでお釈迦様の時代には分からなかった「何か」であるが、
「色即是空」「空即是色」を現在の科学の知識を使えば、その「何か」をさらに具体的な風景として観ることが出来るのだ。それをスケールの概念で読み解けば以下のようになるのである。
「色即是空」=身体は空間の中にある。その身体の内部には素粒子宇宙がある。素粒子もまたその中に空間があってさらに小さな粒の宇宙が存在するのだ。(スケールの概念)この空間を全て足し算していくと、世界は空間だけになる。物質は限りなく空間に近づいて行く存在なのである。これは数学的に証明されるはずだ。すなわち色即是空である。
「空即是色」=空間にはエネルギーが満ちている。その中でエネルギーの回転が回転軸をうみだし、空間に位置をつくり出す。これが物質である。
(参照:長文です 凡人の語る宇宙論(1) 凡人の語る宇宙論(2) )
つまり空即是色とは空間から物質が生まれていると言っているのだ。空即是色という事なのだ。
色即是空
空即是色
とは、
物質を限りなく分解していけば空間になり
空間のエネルギーは回転運動によって物質になる
そう言っているのと同じことなのである。
そうすると「色即是空」「空即是色」という経文は同じ意味を繰り返しているのではないということが分かる。それはこの世界が、二つの相を見せて回転しているという事を示しているということなのである。
すると、お釈迦様の言う「実体」とは何かという事が見えてくる。
スケールの概念を使えば、それは「空」=「空間」という事になるのだ。
もっとも「空間」とはお釈迦様の言う「空」とは違う。それは科学によって認識される空間のことであり、そこに満たされているエネルギーこそがお釈迦様のいう実体=「空」だという事になるのだろう。
以下は時間軸とスケール軸がつくる心の座標(五次元の世界)であるが、
まさに上の図における0原点だけが、私達が実体と結びついている唯一の場所という事になるのである。そして実体とは図のスケールの軸そのものであると言えるのである。つまり五次元はお釈迦様の言う見ることの出来ない実体(空)をスケール軸の概念で可視化してくれるという事なのだ。
この原点に般若心経の語る彼岸がある。私達はすでにその入り口に立っているのではないかと思えるのだ。つまり五次元を理解すれば、私達は思考の力で彼岸の入り口までは歩いて行けるという事なのだ。一大決心をして無の崖を飛び降りる必要はなくなるのだ。
繰り返しになるが、人生は空であり、空を知ればおのずと苦悩から解放されるとお釈迦様は言われた。しかし般若心経の智慧から実体に至る道程をどうすればいいのかまでは言っていない。そこに至る思考は存在しない(空)だというのである。彼岸に行くにはただ執着を捨てろとしか言われなかった。
つまりこの般若心経の教え自体が実体ではないのだから、教えに執着せず真実(彼岸)に飛び移るしかないというのである。・・と私は勝手に思っている。
もちろんのことだが、五次元思考、すなわちスケールの概念もまた単なる思考方法であって、それ自体が実体である訳ではない。お釈迦様の声明に間違いはないのだ。
しかしお釈迦様の「空」と、五次元思考が描き出す「空間」には大きな違いがあるのだ。それはつまり考え方、思考方法の違いなのである。
端的に言えば、般若心経は四次元思考から描き出された世界観だという事なのである。その証拠が経文の中にある(三世諸仏)の言葉だろう。三世とは過去・現在・未来つまり時間のことなのだ。
すなわち四次元思考によって見える世界観から彼岸を思い浮かべるなら、お釈迦様の思考世界を越えることは難しい。そのために古来「無」を越えて彼岸に至るための様々な修行が般若心経をベースにして行われてきたと言っていいであろう。
しかし五次元は、スケールの概念によって、お釈迦様の言う「空」、つまり実在の姿をはっきり意識の中に描き出すことが出来るのである。思考の次元が違うのだ。ただそれだけのことであるが、思考それ自体は「空」であることに変りはないにもかかわらず、描き出す世界観はその「空」に実体を映し出してくれるのである。
もう一度繰り返そう。
般若心経は、その教えそのものが実体のない思考に過ぎないという決定的な事実の前に、そこに描きだされた彼岸に至るためには厳しい修行しかないという結論になった。教えと彼岸の間には深い崖があって、人は思い切って飛び移るか、修行という橋を渡るしかない。これが四次元思考の限界なのだ。
しかし五次元なら、同じ実体のない思考であるにもかかわらず、誰でも彼岸にたどり着くための架け橋を思いえがくことが出来る。彼岸の実体を思い描くことが出来る。私達は思考によって彼岸の入り口まで行ける可能性を持っているという事なのである。
次元が違うという事はこれだけの違いを人間にもたらす。
四次元が人間と三次元動物の違いをうみだしたように、五次元は神と四次元人間の違いを生み出すのである。
今のところこれは私のメルヘンだと言っておこう。
理解が深まりました。
Neflexに仏陀の生涯を描いた44話のシリーズがありましたね。
インドで撮影されたからインド人風の、日本とは結構異なる見解だったから観るのに違和感を伴う苦労がありましたが、
本土の仏陀像が知りたかったから最後まで観ました。
観終えて、仏陀が辿りついた境界は
原子レベルだったのかなあと自分なりに納得したりしましたね。
ですが、日本で馴染んだ仏陀像とは違ったから
観ていた間、違和感が結構ありました。
今、のしてんてんさんの記事を読んで、
あは、私があの時思ってたことはこれだったのかなあと思ったわけです。
とにかく、一つの概念を誠実に、極明に描けますね。
文でも絵でも。
映画は観たことがありませんので、雰囲気は分からないのですが、なんとなく想像すると、日本の内に入っていくイメージに対して外に向かう意識が強い感じなのかもしれませんね。
本当になんとなくで、単なる想像で申し訳ないのですが、桂蓮さんのその違和感には何かの意味があるような気がするんです。
真理はもしあるとするなら、日本風とその違和感のその中間にあるのではないかという直観が働きます。
真理は内にあり、また外にありですね。
すなわちこれ内=外=今この私。
桂蓮さんの心に響くものがあればうれしいです。
おそらくブッタの理解は、原子レベルというよりもっとトータルな思考(縁起)と自照によるものだったのかもしれませんね。
原子レベルは、何でも細分化して考えてしまう現代人の思考なので、そこから五次元の概念も生まれたと思うのです。
般若心経の世界と五次元の世界は自ずと違うところはあるのですが、その違いの中庸に真理があると思うと、少し体が熱くなります。