三世諸仏 (三世=過去・現在・未来 の諸仏も)
依般若波羅蜜多故 (お釈迦様が説いた素晴らしい智慧によって)
得阿耨多羅三藐三菩提 (完全なる悟りを得て苦しみから解放される)
お釈迦様の説いた智慧は、時間軸の上にいるすべての者に対しても有効だというのである。
過去にいる悔恨の心も、未来にいる恐れの心も、人はみな今にいる者と同じように救われる。
過去も未来も、あまつさえ現在も、受想行識=心 の作りだしたもの、すなわち無であるからだと言うのがお釈迦様の教えのように思えるのである。
これは明らかに四次元の考え方であり、人の心が時間軸によって動いていることを見通した救いの智慧であろう。
しかし、お釈迦様が五次元の世界観を持っていたなら、救いはさらに一歩階段を上ったところにあっただろう。私にはそう思えるのである。
もしお釈迦様が五次元=スケールの概念を持っていたら、
三世諸仏 は時間軸ではなく、スケール軸の上にいる仏であったはずだ。
スケール軸の三世諸仏とは、極小仏、現在仏、極大仏のことになる。すなわち垂直に伸びるスケール軸そのものなのである。素ヒト、人、神ヒトのことである。
もしお釈迦様がスケール軸の概念を持っていたら、この三世諸仏に必ず気付いていたはずだろう。
なぜならこの三世諸仏こそ、お釈迦様が探し求めた実在=空そのものを、より具体的に思い描き、実在の在り様を詳細に想像させてくれるからなのだ。
すなわち、五次元の世界観から見ると次のように世界を思いえがくことが出来るのである。
スケール軸の三世諸仏は一直線に実在世界をつないでいるのである。私たちが互いに手を取り合えるのと全く同じように、実際に私達は神ヒトそのものをこの手に触れているのだ。それは以下の理由でも分かる。全き現実なのである。
「現在仏=私たち人」は「地球」にいる。
この「人」も「地球」も実在に他ならない。
スケール軸を眺めていると分かることだが、この地球は「極大仏」を造っているのだ。なぜなら、お釈迦様は自分の身体は小さな粒があつまって出来たもので実体がないと言ったが、それと同じように、極大仏の実体も小さな粒が集まって出来ている。その粒の一つが地球なのである。逆に言えば地球が素粒子となって身体を造っているのが神ヒトなのだ。
その地球と「人」はしっかりと結びついている。一生離れることのない地球と人。地球の重力は、実在をスケールの概念でつないでいく命の接着剤のようなものなのだ。「神ヒト」と「人」は重力でつながっているのである。
地球の地肌に触れ、重力を感じる時、それは「極大仏」の身体に直接触れていることなのだ。大気を感じ、宇宙空間に想いを馳せることは、「極大仏」の心を共有していることなのである。そして宇宙のエネルギー波は「極大仏」の意識だと言えるだろう。
さらに私が己の身体をトータルに感じるなら、その中に「極小仏」の祈りが見えてくる。己の内なる宇宙に漂う素粒子の上に、お釈迦様には見えなかった「素ヒト」がいて、私の心の動きを宇宙の運気と感じ眺めているのだ。これが五次元の世界観なのである。
この三諸仏の連なった存在は、過去でも未来でもない。たった今この瞬間に存在する。大きすぎたり小さすぎて見えない実体。すなわち空なのである。
このスケールの三世諸仏こそ今この瞬間に同時に実在している命そのもである。なに一つかけても成り立たない巨大な命の連鎖、実在としての一なる存在が私達の意識の中に現れるのだ。
おそらくこの実在が意識の中で飽和状態になって、他の一切の思考が周辺に押しやられ、やがて消えた時、人は空そのものになるのであろう。思考が消えた時点で私達は空になっている。お釈迦様の無が誰にも知られず存在しはじめるのだ。
まさにこの一連のスケール存在こそ、お釈迦様が思い描いた「空」を可視化した実体という事が出来るのである。
その可視化した宇宙の具体像を次にあげておこう のしてんてん系宇宙論 より
上の図の螺旋構造がスケール軸であり、もう一枚はスケールの軸の上を、素ヒト・人・神ヒトが、素粒子・地球・大宇宙の上に立っている図である。粒は人の身体を造ったり、人を乗せる天体となってスケールの連鎖を担っているのである。これがスケールのメージであり、おそらく実在する唯一無二の存在と考えることが出来るのである。
般若心経に戻ろう。
(色即是空。空即是色。受想行識。亦複如是。)の理解は、
是故空中 (このようにすべては空なのだから)
無色無受想行識 (私達の身体も心も無いと言えるのだ)
と再確認した上で、より具体的な私達の感覚感性のすべてにわたって無であると続けられる。
無眼界乃至無意識界 (目に見える世界も、心に思い描く世界も無である)
全ては実体のない無なのだ。つまり苦しみも生死も、あるいは無明(心の迷い)さえ、ただ思い描いているだけで、すべては無なのだ。銀幕の映像と同じものなのである。
しかし無は無いのではない。空が存在する。
空の存在する要素が因縁と縁起で結びついて「色」となり「識」となって実体の姿をこの世に結ぶ。真実を見極めたお釈迦様の目が再び人間の心に戻ってくる。
無知亦無得 (真理を知ることも得ることも無い)
以無所得故 (得るものはなにも無い故に以て)
それゆえ
無苦集滅道 (お釈迦様自身の説いた苦集滅道も無い)のである。
このお釈迦様の洞察が、そのままスケール軸の三世諸仏にもあてはまる。
何度でもいう事だが、五次元思考が釈迦様の教えを無に帰するというのでは決してない。むしろ仏の智慧の深さに驚くばかりなのだ。その教えは完全に真実に到達しているというべきであろう。
どんな思考であれ、それは結局真実と言うお釈迦様の手のひらから出ることは出来ない。なぜならそれこそが揺るがない真実だからである。
その上で言えることは、真実の手のひらの中で、五次元思考は最も真実に近い風景を見せてくれるということなのだ。般若心経が伝える無の世界に橋を渡して、論理のまま向こう岸の入り口まで行けるという事なのである。
その意味で 五次元は思考を最大限に広げたと言えるのだ。思考の力によって思いえがけるこれ以上ない大きさが現実の意識に現れるのである。
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次元(思考)を簡単に言えば、認識の大きさのことである。
次元が一つ加わるごとに認識する世界の大きさは倍増していく。
0次元・一次元・二次元・三次元・四次元とその認識が拡がっていく世界の様子を実際に思い浮かべてみたらどうだろう。
すると五次元の認識世界がいかに大きなものか、具体的に体験できるはずである。
オリンピックを避けて開催予定とは昨年画廊の方からお聞きしましたが、昨今の疫癘で何か変更とか有りますでしょうか?
一切空が、卵の中から生まれ出ようとしている。空の摂理と生命の生きると言う営みの相反する5次元の中でとても面白いと生意気にも思いました。
避ける事の出来ない疾患の中でも、多少抵抗しています。取り敢えず神頼みですが。(笑)
愚詠
空即是色の世に生まれいづる我。とりあえず生まれし。生きる
あれからもう1年になるのですね。
オリンピックを文化面から支援するという事で21世紀のメッセージ展は、去年に引き続き東京で開催される予定です・・・が・・・
厄病神のためにそのオリンピックは延期と決まりましたね。私達の展覧会は今年品川区O美術館で5月16日~20日の間開催予定です。大会本部によれば、5月16日には東京グランドホテルで、大々的なオープンセレモニーも着々準備中という事ですが、先行きは不透明ですね。
今こそ、逃げないでやるべきだ。それが作家として社会を元気づける力になるのではないか。
いやいや、今はウイルス感染拡大を抑える意志を社会に示すべきではないのか。
意見は割れているようで、私自身どう考えていいのか、正直揺れております。社会のために何が一番いいのかですね。
ただはっきりしているのは、このパンデミックや世界恐慌の大混乱に陥った世界が本当に現れた時、五次元の考え方はきっと心の救いになるのではないかと思えることです。
空即是色の世に生まれいづる我。とりあえず生まれし。生きる (自閑様)
生まれし我に羯諦羯諦。コロナのえにしに恐怖も無し。(のしてんてん)
そんな心境になりたいという事ですけれど^ネ^
今は、次元の理解や死の恐怖に超然にいられる工夫よりは
マスクに描いた元気になる絵みたいな
身近なことが人の心を照らせると思います。
マスクに愉快になる絵を描く心
死の恐怖をもみ消すことでなく、
不安をただ無視する安易な気休めでなく、
何か、笑えるような
何か、心が熱くなれるような
何か、力になれるような
勉強しなくても、知らなくても、
皆と運命を共にできるような
何かを人は必要にしていると思います。
白いマスク、や黒いマスクがあふれていますが、あの姿はそのままでウイルスを恐れているという思いがあふれていますね。
知らないうちにその姿を、互いに見るだけで気持ちが追い詰められている。確かにそんな気がします。
いいことを教えてくれましたね。今度市内に出る用事があるので早速やってみます。
ウイルスによる暗い気分を逆手にとって楽しむ。これは人間にしかできないコトですからネ。
そちらは今大変なんですね。日本もですが。
やってみましょうよ!!
アメリカでも日本でも、マスク運動。
小さなキャンバスに、楽しい絵を描いて、負けるな人間。元気出せ人間です^ね^
いろいろ描いてみます。面白いの出来たらいいなあ。