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空体を意識すると
呼吸の概念が変わる
呼吸は
一生繰り返される
空体と身体の共同作業なのである
お坊さんだったかお医者さんだったか
曖昧な記憶なのに
恐ろしいほど鮮烈に内容だけが残っている
こんな話がある
人の臨終を
息を引き取るというが、
人は最後の最後まで生きようとして息を吸い込む。
しかしついに体が動かなくなって
吐くことが出来なくなる
それが
息を引き取るということなのだと。
あるいはこんなことも思う
誕生のその瞬間
始めて外気に触れた瞬間に
赤ん坊は羊水を吐き出す
人として生き始める
最初の一歩が
吐くこと
。
。
吐いて
世に産れて
吐けなくなって
その身体を手放す
つまり 呼吸は
身体と空体 を結ぶ絆。
身体と空体の 命の掛け合い
互いが融合し て一つになる
その証し なのだ。
。
。
。
呼吸
吐いて吸う
これを半身の身体だけで完結していると考えたら
人は孤立した存在になる
孤独感の根源がここにある
ありふれた人間の
感覚だ
吸うのではなく空体が
息を吹き込んでいると考えることが出来る
すると呼吸は 身体と空体が
交互に交わすエネルギーの キャッチボールとなる。
身体と空体は互いに半身なのである。
二つをつなぎ止めている
その要が呼吸の反復運動なのだ。
息をいっぱい吸った時 → 息を止める事が気持ち良い → 安らぎ
つまり、息のサイクルは・・
吐き終える → 不安定 → 未来への模索
吸い終える → 安定 → 幸せを感じる
自分が尺取虫になった気分になりましたよん。
決して「迷」の方ではございませぬ^よ^。
まさにsure_kusa様の分析通りでございます。
「息をいっぱい吐いた時 → 次に息が吸えるのかどうか心配が尽きない → 不安」
これが苦悩の根源なんだと私も思います。
で
、その不安というのは結局煮詰めると、我が半身の存在である(空体)を自分の身体と同じように信じて認めてやることなんですね。
そうすると、吐きすぎて、次吸えるのかと不安になっているときに、あちらさんは
「息をいっぱい吸った時 → 息を止める事が気持ち良い → 安らぎ」
なのでございます。
つまりこういうことなんです。
身体と空体で一つの存在だと本気で信じ信頼出来れば、「安らぎ」をキャッチボール出来るんです。
ところが身体と空体が互いに信頼できなければ、「不安」のキャッチボールになってしまう。相手が信じられない不安ですね。
たわいない二つの生き方ですが、その落差は大きいのです。
これが、迷いと悟りの大きな違いなのですね。
拍は時間
空体と時体
空間と時間
息吹【inspire】
感覚【inspiration】
時間とは空間でもない
時間とは物質の変化を知るための概念、頭の中だけの認識のための道具
時間とはつまり存在しない
ゆえに時体はない
物質と空間は実在
ゆえに身体と空体は実在
呼吸は身体と空体の拍
拍とは波動
リズムはタイミング
タイミングが間
リズムとは波動
波動とは空間
空間とは空体
ゆえに身体と空体の間にあるリズムは
命
よもや新興宗教とは無関係だと思ってはいるのですがね。
対話のキャッチボールをしただけです。
でもやっと言葉でなく心が見えました。
少なくとも新興宗教とは無関係と考えて頂いている事が分かって嬉しいです。
新興であれ古典であれ、正しく命を尽くさなければなりませんね。
命は宗教も科学も言葉も超えるところに拍としてリズムとして存在しているのです。
言葉の羅列だけで対話は出来ないということですね。