
ギャラリー暁展示作品「写実空間」F10号×4枚組
「身体」が実在であるように「空体」も実在だ
空体は身体の反語である
つまり明と暗の関係の様に、私は身体と空体の表裏一体の存在だったのである。
心は肉体に宿るのではない
心は空体という立派な体を持っているのだ
それが空なのである。
ではその二つの接点は現実に確かめられるのか。
服の様にリバーシブルに使いこなせるのか。
誰もがそう思うに違いない
「身体」と「空体」の実際的な接点は確かにある。
それが呼吸なのだ
この気付きは、自然に生まれた
あるとき心に苦悩がやって来た
私はある達観があって
いつもと違う方法をとった
開き直ったのだ
逃げも隠れもしないで
第三者のようにやってくる苦悩を眺めたのである
すると
苦悩はエネルギーの波だとはっきり分かった
その波を赤ん坊のようにあるがまま、そのエネルギーを選別しないで見つめ続けた
すると波のうねりの背景に
空が見えた
その瞬間私は
アインシュタインの法則を思い出した
分かったのだ!
やって来た苦悩の波はそれだけでは存在できないと!
その波が成り立っのは
その背景に更なる空が存在するからだと!
波線を描くには紙が必要なように
心に波が描かれるためには
キャンバスがいるのだ
波の現れる空間
E=mc×c
すなわち
E=身体のC✕空体のC
・
すると自然に分かった
心のキャンバスこそ空であると、
その空こそ!
空体なのだ
そしてそれは私の隠された半身なのだと。
※
※
E=mc2に関する記事に興味がある方は
長文ですがこちらでもご覧ください。
空体は霊体とは近似値の関係に在るのではないか?
空体と霊体・・
① 空体は空を自由に飛ぶ ー 霊体は怖がる人の周りを浮遊する
② 空体の動きには” 同時 ”が存在する ー イタコは霊体を呼ぶのに時間がかかる
③ 空体は心と共にある ー 霊体には心が無い時がある(と、言われてる)
④ 空体には「愛しみの心」がある ー 霊体には「身内しか愛せない」宿命がある
⑤ 空体は喜怒哀楽を共にする ー 霊体には俯瞰する化学反応が存在する(かどうか知らん)
遠く離れて故郷を思ふとき、空体は自分の代わりに故郷へ飛んで迷子にならないかを考えると、夜の眠れません・・。
空体と霊体、のしてんてんバージョンもございます。
①空体は飛ぶ場所がないー霊体は人の周りを飛び回る
②空体は同時にどこにでもあるー霊体はイタコのお世話になる。イタコのいたろうとはちょっと違う
③空体は心のすみかー霊体は身内のドロドロが好き
④空体には万物の愛がー霊体には己の影の溺愛が
⑤空体は喜怒哀楽を分け隔てなくー霊体は俯瞰して恨みと妬みを探す(だって良いことには一向に姿を見せない。知らんけど。)
つい地下鉄のことを考えてしまう春日三球・照代ではないですが、眠れないのは身体に悪い。
ご安心ください。
迷子になっているのは自分の方ですから。
今回の絵画も、以前の龍も、それ以前の卵や箱も…
「空間や波、力や感覚を…見て感じる事が出来る形:絵として顕現させる才能」
これにおいて、のしてんてん様以上に秀でた方をこの人生で見た事が無い。
目を開けてみて、空間の姿や流れを感じ…
目を閉じてみて、その残像と脳のキャンバスで感じ…
目を閉じて頭の中で見て、思考から動画のような動く世界を感じ…
「この空(空間)に浮かぶ全てをキャンバスに、五感の全てを観賞対象に」
…が、ふと浮かんだ言葉です。
この絵画を銀座で見た時も想い、この記事を見て…本当に改めて想うのです。
『…一般的な評価で、のしてんてん様より上手く絵を書ける方はいるとしても………
”のしてんてん様より「空間と思考」を上手く描ける方は、この人生で未だに見た事が無い。”』と。
「思考から動画のような動く世界を感じる」
瞑想したとき、まさにその思考空間はダイナミックに動いていますね。
折師さんのダークドラゴンの設計図もきっとそうだったと思います。
その思考の風景を現実に目の前に現わせたらこの上ない充足感がありますよね。
勝手に想像していますが、きっとそうだと思います。折師さんの折り紙も私の描く世界も、全く同じ場所から来ているのです。
だから互いに共感できるものがあるのではないかと思います。
互いの心は知り得ないという常識は、芸術や武道芸道を特別なものの様に思い込んでいますが、この特殊な世界から得られる共感は、実は最も日常的で根源的なすべての人に共通の空間から来ているのですね。
それは至ってありふれたことなのでしょうね。
五次元の概念が一般的になって皆のものになったら、身体とそれを取り巻く空間が自分だという自覚が常識になる。
それが新しい人類の形なのだと本気で思うようになりました。
精神疾患がそれを証明しているわけです。
私には何も見えませんでした。
レベルが違い過ぎるのかも知れなせんね。もう少し誘導して頂ければ幸いです。
私には、
空体との一体感は穏やかな感性にあると思うのですが・・・
感性重視か悟性重視かという違いに過ぎないのではありませんか。
「空体は言葉である」と。
こんな理解でいいのでしょうか。しかしそんな表面的なことではないでしょうね。
「言葉」「精神疾患」「感性」「悟性」「心」「空体」
これらの言葉が一本の線でつながった世界を私は思い浮かべることが出来ません。
ですから「空体」をどんなレベルでとらえた話なのか私の中で想像出来ないので反応できないのです。
空体は言葉を越えた存在で、吾の半身という話とZIP様の世界がどう接するのか知りたいのですが・・・
そこまで下りてきてもらえませんか。
それと同じ様に、関係するから見えるのであり
関係しなければ見ることは出来ないわけです。
それが実際にものとしてあるわけではないけれど、感性や悟性は関係や間において身体化するわけです。
それを私流に理解すると、(空体あるいは心)というものは、たとえば画家ならば道具を手にして描く意志を持ってはじめて見えるもの。その他の者にとっても空体と関係を持つことで見えて来る。
つまり空体とは感性や悟性の身体化したものである。
そう受け止めましたが、それでよろしいでしょうか。