のしてんてん五次元龍「発心」
前回、認識のとらえ方と、認識そのものの実像を可能な限り書いてみた。
これが難しいのは、あまりにも当たり前すぎる問題だからである。
日々刻々と感じているもの、それが認識なのだが、
その認識の大部分に気付かないでいるのが現実であるからである。
そして「私」が意識して描き出した認識世界を観ているのが現実なのであるが、
その時、私達はその見ている(認識している)「あなた」に対して
大いなる誤解と思い込みを持っているのに気づかないでいるのである。
それは考えたら分かることだが、
それが「あなた」の実在のことである。
「私」の認識は「あなた」の実在を感じて思いを膨らませた「あなた」に対する認識である。
この理解に異議を挟むものはまずいないだろう。
しかしそこから先の思い込みが大きな問題となるのだ。
それは何かというと、
「私」の「あなた」に対する認識には「あなたの」実在が当然込められているという誤解なのである。
「私」が意識する「あなた」には二つの真実がある。
この二つの真実とは、互いに相いれないものなのだということが忘れられるのである
一つの真実は 「私」の認識であり
もう一つの真実は「あなた」の実在である。
要するに私達は相手の実在を認識したとたん
その認識した姿の中に相手の実在が込められていると思う。
これが大いなる誤りなのである。
もう少し砕いていえば
私達は相手を認識したとたん、相手の実在を知った気になるのである。
自分の認識にある相手を、実在の相手だと思ってしまう。
自分の作り出した認識なのに、それを実在だと思い込むのである。
認識論的に言えば実在は認識の向こうにある
それは一生かかっても私達にすべてを明かしてはくれないのである。
実在なくしてその認識はないのだが
その認識は相手ではなく、私なのである。
こういうことも出来る。
前を向いたら海があり、
後ろには山が迫っている。
私は高台にいて、左右に続く道を眺めることが出来る
どちらかから電車の姿が見える
アナウンスがスピーカーから聞こえ
人々がホームに整列し始める。
この一連の風景は私の認識である
つまり「私」なのである。
この風景の実在は存在するだろう
しかし私は
「私」の認識から出ることはないのである。
私達は認識以外に知りえない
「私」は実在ではなく実在の持っている認識なのである。
それ故、
私達が実在を知りたくなったら
その道はただ一つしかない。
それは己に深く入っていくしかないということだ。
表題の絵、「発心」は
認識に隠れている実在に入っていこうとする決心でもあるのだが、
実在への思いは
やがて人間の認識そのものへの理解につながっていくだろう。
今回の探索の目的がここにあるのである。
SNS上の相手との会話において、人として違和感を感じなければ、仮に相手がChatだとしてもおそらく気づきはしない。
認識には、思い込みや妄想といった認知バイアスは必ず紛れ込む。
何故なら人は、記憶や想像することが可能だから。
まるで壁越しの会話ですが、私の認識に違和感がありますか?
もしなかったら、私達はこの一点で実在を共有できるかもしれないですね。
記憶や想像は認識が「私」そのものである証だと私も思います。その一方で創造があります。実在の有無を気にかけなければ「私」が存在するよい意味も見えてきます。
私はこの議論を良し悪しを超えたところで展開したいと考えています。
なんだかんだ言っても結局は局所実在性の人。
ZIP
局所とは、私が関わることが可能な狭い意味での世界です。
局所の言葉を使うなら、それは実在ではなく認識の方だと思っています。
ZIPさんのお答えの中にも、認識のにおいを感じます。
ZIP
これを私に示すのはどういう思いがあるのでしょうか。
私はAIchatと話しているのではないことを信じたいです。