
ゆっくりとしたリズムでオールが動き、小舟は闇の上を滑るように動き始めた。バックルパーは船乗りのように手慣れた、無駄のない動作でオールを使い、舟を漕ぎ始めたのだ。
小舟が岸を離れると、老婆の姿は訳もなく闇に飲み込まれてしまった。発光する小舟の上で、二人の姿はぼんやりとホタルの色に染まっていた。他には、闇があるばかりだった。
オールのリズムに合わせて、滑るように湖面を進んでいた小舟が急にスピードを増した。同時に舟は右に傾き、旋回を始めた。渦巻きに巻き込まれたようだった。
そう思う間もなく、舟は回転をやめ、あらぬ方向に流れ始めた。
バックルパーはオールを引き上げ、毛布を取り上げた。
「寒くはないか、エミー。」バックルパーが声をかけた。
「大丈夫。」エミーが答えた。
「そうか。これからはお前一人でやるのだ。お前しか出来ないんだ、分かるね。」
「うん。」自信なげなエミーの声だった。
「心細いだろうが、父さんはずっとここにいる。だから怖がらずに頑張るんだ。」
「分かった。」
多くを語れば、そこから張り詰めた心が崩れ落ち、恐れが全身に流れ込んで来そうで、エミーは胸に詰まった思いを口にすることが出来なかった。
そんなエミーの気持はバックルパーの心に痛いほど響いていた。
バックルパーは黙ったままエミーを見つめ、やがて毛布を身にまとい、船底に身を横たえた。
「バック、」エミーは思わずバックルパーに呼びかけた。
「どうした、」バックルパーは片肘を突いてエミーを見た。
「本当に、母さんに会えるかな。」
「会えるとも。」
「母さんは許してくれるかな。」
「お前の母さんだ。そんなことは当たり前さ。」
「でも、」
「母さんもエミーにあいたがっているんだよ。何も心配は要らないさ。」
「本当?」
「本当さ。さあ、父さんはもう隠れていなければならないんだ。話しも終わりだよ。」
バックルパーはそう言うと、毛布を頭から被った。ホタル火のように発光する小舟の上には、女の子が一人寂しそうに座っているように見えた。
「バック、」
エミーは小さな声でバックルパーに呼びかけた。しかしもうバックルパーからは返事が返ってこなかった。
「バック、お願いがあるの。」エミーは泣きそうに続けた。
「エミーの手をずっと握っていて欲しいの。」
「お願い、バック。」
ゆっくりと、船底に横たわる毛布が動いた。バックルパーは毛布の中でエミーの柔らかな手を握りしめた。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます