般若心経と量子力学 究極の心
三回にわたって量子力学が見出した自然現象と宇宙の成り立ちについて考えてきました。そこで私は、量子力学が発見した不思議な光の振る舞いは、般若心経の世界を証明するものだという思いを持ったのです。
そこで今回は、もう一度般若心経に立ち帰り、量子力学の考え方を重ねあわせて解釈してみたいと思います。
般若心経と量子力学という対極にある思考方法ですが、その根っこにあるのは「心」に他なりません。この二つの合流は心を宇宙と結びつて視覚化する思考方法を生み出すのではないかという期待があるのです。
般若心経をベースにして量子力学を見て行くうちに、まず重大な新しい発見がありました。
それは、
「心は自分の体内で生まれている量子レベルの現象である」ということです。
その根拠は空(般若心経)。
そして空とは波(量子力学)。
波は空間そのもの。
空とはエネルギーの充満した空間であって、その正体は波であると科学者は言います。
何より波は一つのスケールに固定されないで存在できる唯一の媒体です。それはこういうことです。
無限に小さなものから無限に大きなものまで一つの空間の中に同時に存在できるのは波だけだということなのです。
波は無限に合成して巨大な波となったり、無限に分割してミクロの波になったり出来るということです。1つのスケールに固定して空間を観ると、そのスケールに適合した、たとえばAという波が見えて来る。私達はその周波数を合わせるだけで、その周波数の持っているAという波のエネルギーを利用することが出来ます。
しかし大事なことは、空間にこのAという波が独立して存在しているのではない(色即是空)ということです。それよりもっとスケールの大きな世界ではAの波は他の波と合成してより巨大なBという波の姿を現します。逆にミクロの世界ではAという波は分割されて無数のa~b~cの波として観ることが出来る。
つまり波とは空間の媒体、あるいは空間そのものとして存在するたった一つのエネルギー体だと考えられるのです。
その考え方から言えば、物質は人間のスケールでは塊りにしか見えない波の姿だと考えられるのです。可視光線がとらえた固まった波、それが物質ということにになります。この肉体を素粒子のスケールで見れば、身体は素粒子の宇宙空間にしか見えませんね。あるいは太陽のスケールで見れば、私の身体は地球にへばりついたウイルスのようなものです。重要なことは、そのいずれのスケールで見ても私は規格外のスケールであり、その存在は認められないでしょう。にもかかわらず、私がそこにいないということではないということです。私をつくっている波はどんなスケールで眺めていても、私をつくる波として存在しているのです。たとえ無に等しいものだとしても、存在することを保証してくれる唯一のものが波なのです。
その波が固まって個体に見えるのは、無数の波が一定の形を保っているからであって、目に見えないところでは無数の素粒子が離合集散を繰り返しています。エネルギー波が揺らぎ続けているのです。全体的にその規模が無視できるほど小さいために、私達は自分の肉体を物質と認識しているにすぎないのです。
あるいは巨大なスケールで見た場合には、巨大な波は空間としか認識できないゆえに。あたかもその空間の中に私の身体が浮かんでいるようにしか見えない。私は空間に孤立したように見えているのでしょう。
これは「色即是空」の教えそのものです。般若心経は光子の観測の代わりに、心の在り様を深く掘り下げて観察した結果得た結論だということです。
扉の写真に付けた最初の緑マーカーの般若波羅蜜多を見てください。
般若波羅蜜多とは宇宙の真理を追究する熱意・智慧と解釈できますが、この般若波羅蜜多と名付けられた探求心によって、菩薩はこの世が「色即是空」だと気付くのです。
この身は結局「空」だというのです。物質が生まれているのは「縁」だと言います。
その「縁」とは何かという答えを、量子力学は四つの力(電磁気力、弱い力、強い力、重力)だと解き明かしました。双方の考えに矛盾はありませんね。
自分を含めた宇宙は(縁=四つの力)で満たされている。そう考えると私達は深い統一感を持つことが出来る。私はそう思うのです。
全宇宙=彼岸=空=波=縁=四つの力=エネルギー=E=mc2=自分自身
この連鎖する等式は量子力学と般若心経の融合した姿を現しているのです。
写真の二番目の緑マーカーにある般若波羅蜜多は、発見した宇宙の真理に満足せず菩薩をさらに高い場所に誘います。
それが前回書きました量子力学が直面した観測問題との見事な合致を果たしたのです。
ミクロの世界では、光を観測すると観測する光が観測される光を弾き飛ばす。スケールをミクロに変えると、素粒子はまるでビリヤードのように、ふるまっている。知ろうとする行為自体が自然を変えている。つまり自然のままの動きを私達は観測できないという量子力学の世界は、
実はそのまま般若心経の教えを立証したのです。
心に生まれる苦とは顚倒した夢想である、その夢想は罣礙(こだわり)が生み出した幻想なのだと般若心経は言います。
こだわりとは、量子力学でいう観測に他なりません。人から良く思われたいというこだわりそのものが、まっすぐな心の流れにゆがみを生じさせているのです。その歪みが苦悩となり、本末が顚倒した結果を生み出す。
これは心がミクロの世界の波動であるからだと考えることが出来ます。つまり、こだわりとは観測する側の光の働きをしていて、そのエネルギーが自然で無垢な心の波動を弾き飛ばして妄想を生み出している。そう考えることが出来るのです。
こだわりを持たなければ、心に恐怖は生まれず、心に歪んだ妄想も生まれない。
この自然な心の動きをそのまま受け入れて存在出来たら人は菩薩から成長して仏に成ることが出来るというのです。
そこに至ろうと思う強い意志が写真の三番目の緑マーカーに示した般若波羅蜜多なのです。この般若波羅蜜多は、すでに成長して彼岸に移る喜びを菩薩に与えてくれます。それが「得阿耨多羅三藐三菩提(トクアーノクタラーサンミャクサンボダイ)」ですね。
「この上なく正しい目覚め」を意味する原典サンスクリット語の音訳だと言います。訳した玄奘三蔵法師が、言葉でなく意味を重視した一節なのでしょう。いわゆる完全なる悟りの境地の表現なのですね。
ここまで来ると、今の量子力学ではさすがについてこれません。自ずと「学」が落ちて消えてしまう境地ですから。「学」は枯葉のように散ってしまいます。そして観測者のいない真っ直ぐな心だけが残るのです。
心は残るのか?それは分かりません。
しかし間違いなく私達は意識を残して宇宙と同化する至福感を味わうことが出来る。これは食べたものだけが知る「得阿耨多羅三藐三菩提(トクアーノクタラーサンミャクサンボダイ)」の味なのです。重ねて言いますが、食べる行為は誰に変ってもらうことも出来ません。代行の出来ない純粋な意識だけが残っている状態なのです。
般若心経はさらに、この般若波羅蜜多の力を強調します。それが写真の四番目の緑マーカーなのです。
つまり般若波羅蜜多(彼岸に至る智慧・その修行)は是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪 だというのです。
実は私はここで過ちをおかしていました。この一連の考察の中で、この部分を
{これ以降の経文は、いわば経文(般若羅蜜多)そのものに対する自画自賛です。そこには特にくみ取る意味はないでしょう。}と書いたのです。今、この 般若心経を読み解く? (五次元的解釈)5 の誤りを頭を下げて訂正いたします。
言い訳ですが、その時の私のレベルでは気付けなかった。ここにきて私はここに深い意味があったのを知ったのです。
それはここから先に進むためにどうしても必要なものでした。それは体験でしか理解できないことだったのですが、意味はないと書いた手前、これは修正しなければなりなせんので、ここで書いておきます。
つまり、般若波羅蜜多(彼岸に至る智慧・その修行)をそれ以上進めるためには、心に一点の曇りもあってはならないということです。
一片の慢心も不安もそれは障害になる。その心を保証するものを般若心経は示してくれていたのです。それは自画自賛の言葉では決してなかった。
是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪とは、般若波羅蜜多を信じて進む者のための支えだったのです。般若波羅蜜多を疑わず、是無上呪という完全な姿を心に思い浮かべることが出来れば、「能除一切苦 真実不虚」だと言い切る強さがここにあったのです。 揺るがない信念の象徴といえばいいでしょうか。
私がこの言葉の意味に気付いたのは、自分の妄想に潰されそうになって追いつめられたその時でした。その気付きが突然妄想から私を守る障壁となったのです。心に浮かんだ障壁に刻まれた「是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪」の文字が金色に輝いたのです。嘘のようですが、それは私に現われた「良し」という妄想だったと思います。すると私の心に勇気が湧いてきました。そして自分の慢心に気付いたのです。この慢心を恥じながらここに訂正いたします。
しかし元記事は消さないでそのままにしておきます。これも進んできた道のりです。愚かさは大切にしなければならない私の原動力ですから。
彼岸に至る道の最後にどうしても残ってくる疑いを般若心経の作者は知っていたのです。その深さは感動的でもありますね。
その彼岸に至ろうとする心を支援してその喜びを伝える言葉が、最後の緑マーカーにある般若波羅蜜多を通して語られます。
彼岸に至る道は苦難に満ちている。何度も何度も登った坂道を滑り落ちる。妄想は魔性のように襲いかかってくる。何度も繰り返すダメだと思う幻想が真実に至ろうとするものの心に現われて迷わせるのです。正確に言えば迷う己を捨てきれないのです。
その時般若波羅蜜多を呪としなさいと言っているのです。そう言って、襲ってくる己の妄想と闘う呪文を最後に示して般若心経は終わります。
すなわち
羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶
(ギャーテイ ギャーテイ ハラーギャーテイ ハラソーギャーテイ ホジソワカ)
往けるものよ、往けるものよ、彼岸に往けるものよ、彼岸に全き往けるものよ、この悟りよ、幸あれ。(中村元先生の和訳参照)
このように般若心経は自ら悟りを得たいと願い、歩もうとする者のために書かれた、全く無駄のない指導書だと私は実践の中で思うのです。
その記述された内容は、量子力学を丸ごと包み込んでしまう科学的要素と、心の真実を知りぬいた体験に基づく理解が盛り込まれている。
それが般若心経なのです。
(以下参考記事)
(現在連載中 量子力学を考える)
般若心経を読み解く?(五次元的解釈)11 量子力学との合流3
般若心経を読み解く?(五次元的解釈)10 量子力学との合流2
般若心経を読み解く?(五次元的解釈)9 量子力学との合流1
(般若心経をどう理解するか)
般若心経を読み解く?(五次元的解釈)1
般若心経を読み解く?(五次元的解釈)2
般若心経を読み解く?(五次元的解釈)3
般若心経を読み解く?(五次元的解釈)4
般若心経を読み解く? (五次元的解釈)5
般若心経を読み解く? 五次元的解釈)6
般若心経を読み解く? (五次元的解釈)7 一部加筆
般若心経を読み解く? (五次元的解釈)8 追補
(以下は数回分をまとめた長文です)
凡人の語る宇宙論(アインシュタイン讃歌E=mc2)1
凡人の語る宇宙論( アインシュタイン讃歌E=mc2)2
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