(CGによる心のデッサン 知)
前回の記事を、図で示してみましょう。
すべての根底には、宇宙(空間と物質)の世界があります。
そこから人は自分を確立していく。そのドラマのシナリオです。
その概要は上の図のように、宇宙意識を己の身体にとりこんで自己意識の領域が出来ます。この身体のことですね。
宇宙にできた泡のような存在です。
この自己意識は、完全に閉じているのではなく、不完全に外界と交渉を持っている。これが呼吸や食など、いのちの運動を保証しているのですね。
この自己意識の表層に感覚があって、外界と交渉を持ちます。視覚や聴覚のことです。
やがて、この自己意識と感覚が知性「何?」と結びついて大きな認識世界をつくりあげる。そこに精神的「快・不快」があるわけです。
下の図は意識と認識を並立して自己意識から認識が生まれていく過程を図示したものです。
図の下から上に向かって成長していきますが。左下の囲みが自己意識を表しています。
閉じた相関性と書いているのは、身体を造る素粒子同士は互いに関係を持って引きあい、その力で身体を保っているという意味です。
この閉じた相関性のもっとも安定した核意識を中心にして、いのちのリズムが生まれます。そのゆらぎを「快・不快」という色で受け留める認識の種がそこにあるのですね。
この色付けが、認識の最初の風景と言えるでしょう。
「これ」という形で、一切が未分化のまま、存在感だけがある。芽吹く前の認識の姿と考えることが出来るのです。
そこに感覚が形成されていきます。(図の中段にある囲み)
生まれたばかりの自己意識を、満たされた意識と考えると、感覚は外界から刺激を受けて波紋を広げていく破られた意識と考えることが出来ます。
外からの刺激で揺れる意識、これが認識の種に力を与えます。いわば蒔かれた種に与える水のような働きをしてくれるのです。
目が明いた赤ん坊に、柔らかな光があたる。闇の中に現れた光芒に身体的「快・不快」とは違う色を感じますよね。
冷えた体が母親の胸の温かさを体験する。その柔らかさ、まどろみ。
排泄物の不快に、柔らかい布をあてがわれる体験、空腹と授乳。
そんな育みから受ける体験を通して、赤ん坊は「これ」という風景から母親を「有る」という認識で見るようになるのですね。
種が頭をもたげて、地面から顔を出すのです。
「有る」という認識は、未分化の世界を区分しはじめます。手に触れるものを何でも体感しようとします。赤ん坊がなんでも口に入れようとするのは、食べようという意志より、そうして世界を体験しているのではないかと私には思えます。
あるいは、理解するという原型が食べるということなのも知れません。
いずれにしても、未分化の世界を、様々な感覚の刺激が、赤ん坊の「有る」という認識世界をひろげてゆくのです。
ではこの「有る」という認識が、「何?」という問いかけに成長するのはどんなタイミングなのでしょうか。
そこに私は、自我の種が動き出す瞬間を観るのです。
育みを受けて人は「有る」という認識で世界を見始めます。母を認めた赤ん坊は、あるときふと、母を待つ意識を自分と感じるのでしょう。それが何なのかは分からないが、その感じは、母を見つけたときの感情といないときの不安感の落差として知るようになるでしょう。
そのような経験から、赤ん坊は母を待つ意識を定着するようになります。それが自我の種となっていくのではないでしょうか。
その種が、母を通してやってくるもの、たとえば母乳から離乳食に切り替えられるとき、それを「何?」という問いかけとして認識するようになる。
自我の種が双葉になる瞬間ですね。
「何?」が芽を出すと、自我は爆発的に成長します。認識は認識を生み、言葉の世界が赤ん坊を人へと成長させるのです。
表の右上、認識の囲みの中に、私空間と書いていますが、認識の世界は、自我の中に生み出されたまさに私的空間なのですね。
この私空間については、機会があればお話ししますが、一言では言い尽くせません。
要は私たちが今、この瞬間に思い描いているこの自分と世界のことなのです。それはまさにこの認識の力が生み出した世界であって、真実から映し出された映像のような世界なのです。
人はこうして大人になっていくのだと思うのです。
次回は、この認識が知識となって蓄積され、私たちの今をつくり出してきた風景を見ていくことにしましょう。
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