扉を入ってすぐが『舞台』という感じなのだろう。覗くと、『舞台』を囲むように観客席風に木製のテーブルと椅子が並べられていた。飴色っぽい光沢の、年代物のテーブルセットだった。
中にいた観客は十数人ばかり。一瞥で年配者が多いのがわかったが、こちらへ愛想良く笑みを向ける顔色は明るく、それぞれ洒落っ気のありそうな年配者だった。
六四から七三で男性だったが、女性陣も皆、一筋縄ではいかない面構えの淑女達だった。
(ふええ)
場違いなところにまぎれ込んだ後悔が早くもきざしたが、逃げる機会はすでに逸している。おばさんウエイトレスに手招きされ、僕はおずおずと窓際の隅の席に座った。
水とおしぼりが用意され、A4ほどの厚紙と、同じくA4ほどのチラシが渡された。厚紙の方はメニュー表らしい。あまり上手とはいえない字の、手書きのメニュー表だった。
『どれでも三百円』と大書きされた下に、ブレンドコーヒー(ホット・アイス)、紅茶(ホット・アイス)……などと記されている。
尻が落ち着かない感じで僕は、メニューに目を当てていた。
『ティーソーダ』という品名を下の方に見つけ、気になった。紅茶味のソーダなのだろうが、あまりなじみがない。でもこういうちょっと変わった飲み物、みくが好きそうだよなとちらりと思い、慌ててその考えを胸の奥へと押し込める。
僕はゆうべ、彼女に捨てられたのだ。
彼女は今、僕のことを他人以上に他人だと思っているだろう。彼女が好きそうだなどと僕が考えること自体、彼女は嫌がりそうな気がした。
だがさすがにこの陽気だ、ずっと歩いてきたせいもあって軽く汗ばんでいる。炭酸系の飲み物が急に恋しくなってきた。目を上げて僕は、おばさんウエイトレスへ『ティーソーダ』を指で指して注文した。
『舞台』の方では次の出し物(演目?)の準備が進んでいた。スツールが片付けられ、レジスターのそばにあるアップライトの古いピアノの前に、座面の丸い低い椅子が置かれた。鍵盤を覆う蓋が、バンダナをした男性の手で開けられる。
そこへ座ると彼は、気まぐれのように鍵盤を叩き始めた。
上手いのか下手なのかさっぱりわからない感じの音だった。うーん……多分、下手、なんだろうなあ。素人の耳にもばらついた印象の音が、それでも楽しげに響く。
鼻の下に古風なカイゼル髭を蓄えた、彫りの深い老紳士がピアノのそばへ寄る。
彼は、ごわっとした感じの白いドレスシャツを身に着け、ネクタイ代わりに渋い銀色の留め具がついたループタイをしている。袖を調節する、クリップタイプの赤いアームバンドがクラシカルで粋だ。スラックスは深い黒で、やはり黒の、ピカピカに磨かれた革靴。
緩やかに後ろへ流し、軽くジェルで整えた白いものの多い髪。『ロマンスグレー』などという死語がふと浮かぶ。
彼は手に、鈍く金色に輝くサクソフォンを持っている。ピアノに合わせ、手の中の楽器へ息を吹き込んだ。飛び上がるほど大きな音がして、僕は一瞬硬直した。楽器の音は騒音トラブルになるという話を、なるほどなと僕は改めて実感した。
二人は暫く音合わせらしいことをしていたが、やがてうなずきあい、一緒にこちらを見る。
「それでは始めさせていただきます。マスター&バロンさんによります、気まぐれセッションとサックスの吹き語り」
ピアノの前に、かしこまった感じに座ったバンダナにエプロンのマスターがそう挨拶をする。
(サックスの吹き語り?)
ヘンな演目だなと僕は思ったが、当然のように拍手は響く。バロンさーん、という、年配のお嬢さん方の黄色い声も響く。それに応え、彼は片手を上げてウインクした。
僕の前へティーソーダが運ばれてきた。思った通り紅茶色のソーダだ。細かい氷がグラスの上の方に浮いていて、底には小さく角切りにされたリンゴらしいものが沈んでいた。添えられているガムシロップを少し入れ、かき混ぜて飲む。
よく冷えていて美味しかった。柔らかめの炭酸の刺激がのどに心地いい。
リンゴの香りがふっと鼻に抜けた。底にあるリンゴのかけらからも香りは出ているのだろうが、どことなく香りの質が香料っぽい。使っている紅茶は市販のアップルティーではないだろうか。
みくが一時期フレーバーティーに凝っていたのでそれに付き合わされ、僕も知らないうちにある程度以上、こういうことが詳しくなった。
(いや、みくのことは……)
考えるな。軽く頭を振り、自身をごまかすように僕は、手元にあるメニュー表でない方の紙へ目を落とした。
紙には『喫茶・のしてんてんのお楽しみ会 VOL 3』というタイトルが書かれていた。
その下には演目らしいものが並んでいる。
① モモさんの詩とスキャット
② ジンさんのオカリナ
③ マスター&バロンさんの気まぐれセッションとサックスの吹き語り
④ レイちゃんのオリジナル紙芝居
など。この喫茶店にはどうやら、一種のサークルとか同好会みたいなものがあり、その発表会を定期的にやっている、そういうことのようだ。
『マスター&バロンさんの気まぐれセッションとサックスの吹き語り』が始まった。
まずは僕ですら知っているジャズの定番『茶色の小ビン』、そして『ルパン三世のテーマ』。
弾むようなメロディー。そこへピアノの音が闖入する。
(う……うーん。微妙)
楽しそうな演奏だが、二人ともなんとなく危うい。油断すると取り散らかりそうなゆらぎが音にあり、聴き手の方がはらはらする。
(な、なるほど。『迷』か)
『ルパン三世のテーマ』の後、水を一口飲んでバロン氏は再びサックスをかまえた。
ソロらしく、ピアノの前のマスターはこちらを向いてかしこまって座っている。
バロン氏の顔が変わった。今まで楽し気に緩んでいた頬がふと引き締まる。
奏でられるブレのないワンフレーズ。劇的な吸引力。思わずやや前のめりになる。
『ゴッドファーザー・愛のテーマ』だ。
やや思い入れ過剰だが今までで一番いい。ほうっと息を吐きながら、僕は背もたれに身を預ける。
前世紀の伊達男が奏でるサックスの調べが、初夏の午後をセピア色に変えてゆく。
2コーラスほど奏でた後、バロン氏は静かに楽器を離した。
「ららら、らららら、らららららぁー……」
響きのいい声が曲を『ららら』で歌い始めた。ビブラートというのだろうか、芸術的なゆらぎがところどころにある。なるほど『吹き語り』とはこういうことなのかと僕は思った。
オペラ歌手を思わせるような声だ、サックスより上手いかもしれない。
(つづく) 次を読む
ブログ拝見してます
素敵な作品ですね
つい足を止めました
はじめまして。
のしてんてん喫茶室(『ハッピーアート』のコメント欄をそう呼んでおります🍀)の雇われママ・むっちゃんでございます。
『喫茶・のしてんてんへようこそ』の作者で、のしてんてんマスターのご厚意で作品を時々、公開させていただいております。
ぶらっと立ち寄り、気に入っていただける。
とても嬉しく思います。作者冥利につきます。
ありがとうございました☺。
よろしければまた覗いて下さいませ。
折師さまの「 折り紙芝居 」が演目にあったら、ちょっと楽しそうだなぁと。
いつか、喫茶・のしてんてん さんで検討して頂けるとうれしいなぁ ♪
お客さんの半分位は「 お楽しみ会 」の出演者とその同伴者達だったんですね多分、和やかそうで良いですね。
でも、「 取り散らかりそうなゆらぎ~はらはら 」には笑わせてもらいました ♪
むっちゃんマスターさん、その爽やかそうなティーソーダひとつ、頂けますか?
ティーソーダでございますね、かしこまりました☺️。
日によっては暖かすぎる昨今、冷たいものもおいしくなってきました。
折り紙芝居、良いですね🎵
あの凛々しい折り紙の射手が、那須与一を演じる、とか。
船とか扇とか騎馬武者とか、折師さまならきっと折れるでしょうね✨
わ、私には想像つきませんけど…。
ではごゆっくり。
え?これからお仕事ですか?
新年度、頑張って下さい。いってらっしゃいませ❗
…素人ながら
「切れのある…”おおっ!!”と思わせる表現」
…こういう技法はやはり凄いと想います。そう簡単にこういった表現につなげる流れも。
そしていつのまにか後ろで見ていただけのはずが”檀上に上がりそうな流れに!?”…え!折り紙芝居!?
「折師さまならきっと折れるでしょうね✨」
「…はぅ!はふはふ!!はわわわわわぁぁ!!!(※声にならない叫び)」
…とりあえず落ち着くためにティーソーダを!ひとつ!!
ティーソーダでございますね、かしこまりました☺。
いつもありがとうございます。
もちろん今すぐではないです。
と言いますか、今の私の頭・知識では、スゴい折り紙を想像できませんし、描写もアヤシイです(苦笑)。
でもsure_kusaさまのおっしゃるように、面白い案だな~と思いましたね🍀
というか、折師さまご本人がすでにそういうジオラマ?風のもの、作ってらっしゃるかも。
『福もの』なんか、そういうのに近いかな?とも。
ならば、私ごときの出る幕ではナイでしょうね。
アップル風味のティーソーダ、お待たせ致しました🍀。
ごゆっくり。
ティーソーダ
今日の暑さに
私も飲んでみたくなりました^よ^
それにしても折師さん、折り紙芝居いいですね。
シナリオ、むっちゃんマスターがやれば、面白いコラボが出来るかも^よ^
たとえば小学校低学年向け、5枚くらいの紙芝居。
あるいは「ないないばー」みたいな幼児向け折り紙芝居なんて、面白いよ^ね^
そぞろ気になる、業の深さよ。
『己れのない龍』の境地など見えないほど遥か先…(遠い目)。
幼年向け低学年向けってのは、非常~にキツいんですけど(笑)。
使う筋肉が違う、と言いましょうか?
折師さまの気持ちや都合もあります。
でも私は面白そうだな~と思います✨。
ア、地雷踏んだ?
爆発🔥😭💣
ちゅどーん❗
若い?時の苦労は買うてでもするもんや(笑)。
ティーソーダ、お待たせいたしました🍀(←誤魔化そうとしてるな、コイツ)
ここのツッコミが硬いんだよ、むっちゃん。
もっと馬鹿な自分を演出する。すると自分はエラクなくてもいいんだ感が創作意欲の中に浸透していくんです。
そうなったらどうですか、世界が変わりませんか?
「幼年向け低学年向けってのは、非常~にキツいんですけど(笑)。
使う筋肉が違う、と言いましょうか?」
私が思うに、この筋肉が邪魔をしているんです。「誤魔化そうとしてるな、コイツ」になるんです。
馬鹿におなりなさい^な^
小学生にだって幼児にだって、むっちゃんの心がスーッと入っていきますよ。
大丈夫、大丈^夫^(感じでやったのはじめて)