堺市 龍興山南宗寺 仏殿天井画
龍を描く。
それは己の心と宇宙との接点を探る旅と位置付けて制作中ですが、自分の欠点が少しずつ見えてきます。
このマイナス面をプラスに変えようと思いながらも行き詰っておりました。
ちょうどその時大家氏の個展案内が届き、出かけたギャラリーで、オーナー様から堺にも龍がいますよと紹介してもらったのが、龍興山南宗寺でした。
私は何か予感めいたものをかんじて 、その場ですぐに行きたいと申しましたら、地図を渡してくれ、親切に寺の様子なども教えてくれました。
道は迷いようもなく、この通り直線の道路。自転車を使いますかというオーナーの親切を断って歩きましたが、なぜ自転車を勧めてくれたのか途中でよく分かりました。
訳1キロの直線を歩いてようやくついたのが
龍興山 南宗寺
建立400年を越える千利休一門の墓もある臨済宗の寺。
その仏殿にある天井画、八方睨みの龍。残念ながら撮影禁止のため、掲示板の写真を転載します。
仏殿の天井を見て私は一瞬で心奪われました。
この心のインパクトが私の絵にはないのです!!なぜ??
言葉より先に心が没入する絵。
もちろんそんな思いはずっと後からわいてきたもので、その一瞬から私は完全に八方睨み龍の世界の中にいました。
参拝者がまばらでしたので仏殿の土間に坐り込み、やがて寝転がって龍と向かいあいました。
私の絵はせいぜいこんな程度↑で、小さくまとまったおもちゃのような龍。そこから抜け出せないでいた私に、八方睨みの龍(狩野信政)が誘ってくれた気がいたしました。
写真では分かりませんが、筆遣いの細部にわたってはっきりと観ることが出来ます。
小一時間、ただ眺めるだけでした。そのうち心の中で狩野信政の筆遣いをなぞり始めたのです。信政の心を想像しながら龍を描いてゆくと自然に見えてくるものがありました。そして決定的な違いを見つけたのです。
いえ、これは教えていただいたというべきかもしれません。
筆の線と、0.5ミリの鉛筆ではおのずと線の力は違いますが、そんな物理的なものではなく、私は狩野信政の筆の意味がようやく見えてきたのです。
それはこういうことです。
龍を描いた筆の線、それは実は龍を描いたというのではないということなのです。
それは境界線ではないのです。こちらから向こうは龍、反対側は雲というそんな線ではないということが見えてきました。
それは龍であると同時に、龍を包む空間を表していたのです。線の濃淡が鱗と身体を空間と混然一体に描写する力となっているのです。
中動態の絵、私の頭にそんな言葉が浮かびました。
空間から龍をとりだそうとしているのではない。空間に龍を見出そうとしている絵なんだと分かったのです。
私の絵のことを言えば、鉛筆の線は細い変化のない線です。私はその線をいつの間にか境界という意識しか持っていませんでした。龍を描く線は龍であって、そこに空間の意識がなかった。
線に目的が課せられ、この線は龍なのか空間なのかという思考が働いていて、つまりそれが私の絵の弱さだと気付かされたのです、
龍でも空間でもない、あるいはどちらでもあるというような線。普段私がいい続けている心の線が私の絵にはなかったというべきかもしれません。
一本の線に意味を考える受動態、意味に向って線を引こうとする能動態。私の絵はそんなものから成り立っていた訳です。
頭が思い描く意味など小さなものであることは自分でよく分かっているはずなのに、そのことに気付かずにいた私に、八方睨みの龍は実に温かく教えてくれたのです。
能動態・受動態では絵は原寸大の己をさらすしかないのです。(恥ずかしい限り)
絵を描こうという意志が、中動態とつながって初めて、龍は空間の中で生き始める。これ以上の教えは無いように思えました。絵に向かって合掌するばかりです。
土間に寝転がったままいつまでも立てませんでしたが、そのうち参拝者の足音がして我に返って起き上がりました。
参拝者とガイドさんがやって来て、絵の説明をしています。八方睨みの意味を話す声が耳に届きました。
一団が過ぎて一人になってから私はあらためて、龍を眺めながらお堂を一周して見ました。龍の目が私についてくる。どこまで行っても私を睨んでいるのです。
さて、そんな絵が描けるのか。
あとはお前さん次第。龍にそう言われている気がして仏殿を後にしました。
合掌
確かに私はそう考えていますし、
Unknownさんの解釈もその通りだと思います。「気」は「生命の素」なのです^ね^
そして宇宙の本質は空間だという考えから見ると、死は単に認識の問題であって、実はそんなものは存在しないということになります。
私はどこから始まり、どこで終わるのか、そう考えるだけでそれは納得できるのですね。
けれど、思考が「何故?」を繰り返す限り答えは「分からない」というしかないのです。
もし「何故?」に対して答えが他者からやってきたとしましょう。そしてその答えになんとなく納得して(完全に納得したら別ですが)従ったら、それは宗教になってしまいます。それでは面白くないですよ^ね^
Unknownさん、「分からない」というしかないのですね。それを受け入れた上で己の答えを見つけるしかないということなのです。みな勝手に考えるしかないしそれ以外に方法は多分ないでしょう。
ですからどうぞ、その解釈に自信を持って下さい。自分に生まれた解釈だけが正しいし、納得いかなければ納得いくまで己の中を探すしかありません。
私が発信していることは、少しでもその手助けが出来ればという思いと同時に、自分自身の発見のためなのです。
私も長くなりすぎましたね。
でも、こうして出来る心の交流は嬉しいのです。
喜びは進めの合図です^か^ら^ね^
「気」の流れを作り出すものが、すなわち、「一定の期間」「周期」「拍」「リズム」なのではないでしょうか?
天体の周期に合わせて、人にサーカディアンリズムがあるということは、「気」は「生命の素」であると解釈できます。
「リズム」と同調することで「気」が「命」になる。
飾り結びについて、私が勝手に思ったことです。
長居をしてしまいましたね。
すみませんでした。
Unkouwnさんの疑問。
一方でむっちゃんさんの理解。
みな思考の中で成り立っているのですから、不思議は私たちの360度に存在しているように思えます。
生きるものは必ず死ぬ。
その死(無)から生命が生まれる。
星がある。空間がある。
今ここに私がいる。呼吸をする。
この私の始まりはどこなのか
そして終わりはどこと言えるのか。
コーヒーを飲んだらなぜなくなるのか。
なぜものや人を好きになったり嫌いになったりするのか。
「なぜ死ぬのか」と全く同質の疑問が無数にある。死ぬことだけが特殊でも何でも無いのですね。
考え付くすべてのことに何故?をつけることが出来る。それが思考の特性だと思います。
そして答えはでない。
そのことでたった一つだけわかる真実があります。
それは私たちの思考に対して、真実ははるかに大きく同時にはるかに小さいということです。決して原寸大ではない。そしてその真実のど真ん中に私たちがいるということ。私たちは真実のど真ん中にいるのです。
思考から見ると世界は分からない。だから体感するしかないのだと思います。喜びや悲しみを体感して受け入れる。受け入れるというのは、他人に添うという意味ではなく自分を受け入れるということですね。
命が善なのか悪なのかも分からない。出来ることは自分の中から生まれてくるものに従い見守るだけ。
そして一番大事なことは、喜びに向かうこと。
苦悩は進入禁止
喜びは進め
それが私たちにはワカラナイ命の仕組みだと思えます。
考えすぎないことでしょうね。
思うままに進めば、いいのだと私は絵を描きながら今まさに体感しているのです^よ^
久々に晴れましたね🎵(大阪は)
生と死はそれほど隔たりがない、一連の流れ。
基本、不可逆。
だから、生きる時は一生懸命生き、死ぬ時は一生懸命?死ねばよい。
それが拙作のテーマでした(笑)。
何で物質がそういうめんどくさいことするのか、改めて考えたことは正直、ありませんが。
私は底が浅いのか楽天的なのか、こう感じます。
多分、その方が面白い(広い意味で)から。
これが不思議なのです。
何故「死ぬ」のか? すなわち、
何故「生」は一定の期間なのか?
「生とは、それ自身の内部からの働きによって、外部との関係を維持し、この関係の中でそれ自身が再生産する様な行動を示すということ。」
物質の振る舞いとして不思議でならないのです。
ごちそうさまです、マスター。
昔(といっても四、五年前)に書いた、勢いだけの長編ファンタジー小説(大阪弁でファンタジーを書く、私なりに冒険した作品です)のテーマを思い出しました(笑)。
『生きてるモノは必ず死ぬ』
『死んだものは生き返らない』
だけどそれは必ずしも忌むことではないし、生と死はそれほど隔たったものでもない。
死を怯え続け、忌み続けていた主人公は、ラストにそう気付く……私はそう書きました。
その感覚や考え方は今でもあまり変わってませんけど、日々の暮らしでは抜け落ちますね(苦笑)。
さて❗
ボチボチいきまひょか。
コーヒーをたてながらですけど、私も参加させて下さい^ね^
私もベネター先生を知りませんで、むっちゃんさん同様、ネットでさわりだけ調べました。その浅はかな知識での感想で申し訳ないのですが、こう思いました。
これで思考の全体が完成しているということですね。ベネター先生の学説がなかったら思考は片側だけが強調されることになりますからね。
スターウォーズで言えば暗黒面、黄泉の国より(我田引水ですが)ではヴォウヅンクロウゾ。
生命は善か悪か。
生命は善である。
生命は悪である。
これが思考の全体像ですね。
思考が健全であれば、その葛藤の中で必ず一つの結論を見出します。
「分からない」と。
つまり全体の思考の中心に「分からない」がまるでマグマのように存在するのですね。
Unknownさんに教えていただいた中動態は、まさにこの思考の中心にある「分からない」を素直に引き受けた思考方法なのだと私は理解したのです。
「生命は善」は思考の片側。そこで喜びを得るものもいれば疲れるものもいる。それは当然ですよね。なぜってそれは単に思考なのですから。
「生命は善」の思考に疲れたら、「生命は悪」の思考はゆりかごのように思える。一方でそれはおぞましいと感じるものもいる。これもまた当然のこと。単に思考なのですから。
だからどちらも受けれたらいいのですね。非難したら戦争ですが、受け入れたら私たちは思考の中心に進むことが出来るのです。
「分からない」
そして中動態に再び巡り会う。
受動態・能動態思考から対立を捨て融和を見つけることは、善と悪をどちらも尊く受け入れことであり、中動態への昇華となるのですね。
さあ、コーヒー出来上がりました^よ^
甘いミルクチョコを付けておきましょう^ね^
死にたいと思わないむっちゃんです。
ベネター先生のこと、まったく知りませんでしたのでネットでかるーく検索しました。
重い、考え方ですね。
私が生きてるの、ヤになるのは、単に自己評価が低い、辺りが根っこでしょうか?
私が生きていてもこの世界に良いことをもたらさない。
でも今生きてるから死にたくない。
死にたくないのなら……私が生きて、活動している事で、この世界(周りの人)に、ひとつでいいから『コイツがいて良かった』と思ってもらえたら……的感覚があります。
でも、ただ生きて、息をしてそこにいるだけで『コイツがいて良かった』と思ってもらえる存在が、世界(コミュニティ)にはある。
でも私は、自分がそんな存在である自信がない。そこまで自明に存在意義がある自信が持てない。
だから時々疲れて、生きてるのヤになるのでしょう、多分。
生まれてこなかった方が良かった、とは、不思議と思ったことないです。
そこはすごく、ポジティブですね。
生きて、息をしているだけの自分を素直に受け入れ、罪悪感を感じなくなる状態が『生きてるのも忘れた』状態かな、と、感じました。
同感といういうよりは、もはやそれは私自身のことです。
何でこんなに面倒なの!
ちょっと勘弁してもらえませんか!
そんな感じです。
ディヴィッド・べネターという学者のおっしゃる事に共感してしまうのです。
自分は瀬戸際なのかもしれないと思うのです。
突き抜けられるのであれば突き抜けたいです。
生きるとは、生きていることも忘れる状態、というお話に感銘を受けました。
修行の足りない未熟者なりに、アッと思いました。
死にたいと思ったことはナイながら、生きていることがヤになったことはあります。
しかしそれは、『死に囚われている状態』でしょうね(苦笑)。
私の業、私の『突き抜けない』と関わりがある気もします。
静かに珈琲でもいただきながらそっとお話をうかがっていますが、御理解を。
こちらも気が引けてしまいます。
ただの個人的な見解です。
強いて言えば、世相が延命的といいますか、死からの逃避的な方向に傾き過ぎている気がしてならないと思ったものですから。
それでも真摯に対応して下さいましてありがとうございます。
心より感銘を受けました。
特に後段の言葉「生きることは生き延びるこことではなく、死を回避することでもなく、生きることさえ忘れること」は
心を魅了させてくれます。
私の体験から言えばまさに完全に没入して描いている瞬間です。
そしてUnknown様の
「描くことそのものが中動態です。」という言葉に還ってきます。
中動態を呼び起こすもの。
それを人類にひろげることが出来るとしたら、それは宗教と科学を垣根を越えて合体させることという私の思いに、どのような問題があるのかアドバイスいただけたらうれしいです。
それにしましても、素晴らしい声明です。記事の中で皆様と共有させていただきたいと思います。
ありがとうございました。
何と言ったらいいのか、私には分かりません。
ただ、私が勝手に思うに、生きることとは「死んでいない」ことです。
だが、「死んでいないこと」と、生きることは同じではありません。
単に「死んでいない」だけのあり方、あるいは「死んでいない」ということだけに向けられた生き方、死の回避者としての生き方は、むしろ死に囚われた生き方です。
生きることは、生き延びることではなく
死を回避することでもなく、生きることさえも忘れることではないか、ということです。
誘われると言えば、この中動態の意識こそ、Unknown様に誘われて私の中にやってきた思考の形です。
観るものも描くものも、間違いなく内発する何かに出逢う。そこから何かが生まれる。
それは絵の話しにはとどまらず、生活の全般にわたることですよね。
話は飛びますが、中動態から私たちの本質は自我ではなく、この内発する何かだという思いを誘われた気がいたします。
つまり中動態は釈迦の思考だと・・・
私の思いの飛躍は正しいのでしょうか。
思えたのであれば、それは、誘われたということですね。
誘うということは中動態です。
描かれる絵に、何かしら惹かれるもの、あるいは、気になるようなもの、観入ってしまうようなもの、絵を描くことはあくまで内発性であると思います。すなわち、そうせずにはいられない何かです。
描く側も、観る側も、何かが成立することが肝心なのだろうと思います。
そうなんですよね。
描くこと=息をすること
そんなレベルの話しになってくるのでしょうね。
私の経験では、おそらく中動態は描くことそのものと言えますが、描くことそのものには能動態と中動態が存在すると思えます。
能動態で描くのは描くと言えないと言えばそれまでですが、同じ行為に見える描写のほとんどに能動態が潜んでいるというのが私の現実なのですね。
考えすぎでしょうか??
いずれにしましても、実践でつかむしかないのですけれど・・・
これ以上の明解な答えは無いと思います。ありがとうございます。
思えば私の今は、人間(己)とは何かという問いかけから始まりました。
そしておそらく、死ぬまでその旅は続くでしょう。完全な答えを得ることは出来ないのですから。
つまり生きるということそのものが巡礼なのですね。
意識が固定化されると、その巡礼の旅は終わる。
安住の地を見つけるということは、巡礼の旅を終えるということ。それは同時に追求をやめるということ。
つまり、追求こそ真の巡礼ということなのでしょうか。
そう思うと、龍の旅は私の巡礼という意識でいいのですね??
なんとなく痒いところに手が届くような気がいたします。
ありがとうございます。
すなわち、移動空間で起こることは「移行」とういう精神状態、旅の目的は目的地、巡礼の目的地は自分自身。
それがすべてかもしれませんね。
突然新しい何かを思いつく。その時の一瞬雲間から日が差すような気持ちにときめき、作品を書いて行くウキウキ感。
ここまでに何の技術も、思惑もいらないですね。
物語が物語を呼んで、イメージの世界が広がっていく。
ウキウキと ときめくままに言葉のデッサンをする。
自分を苦しめる方向に行かないで無責任に書き散らすみたいなことも、時には役に立つのではないでしょうか。
自分の書いたものにときめきを感じたらラッキー。それが出会いであり財産になる。
そんな考え方も出来ます^ね^
そう言えば巡礼にはどこか悲しみの匂いがある。
私だけかもしれませんが、キラキラした開放的な喜びがないのですね。
たとえば旅の電車の中のウキウキ感は巡礼にはない。
その大きな違いは、求めるものがある旅と、今その時を楽しむ旅というところにあるのでしょうか。
その意味で私の絵はまだまだ巡礼にさまよっているということかもしれません。
北斎などはまさに旅の人だったのだと思ってしまいますね。
うーん、結果を思い煩っている……のでしょうか?
まあ、そうなんでしょうねえ。
書いてみたいテーマやストーリーはありますけど、横からツッコミを入れてくる奴(自分)がウルサクて。
『そんなん書いて意味あるの?』『またそんな暗いネタ?』『代わり映えせんのう』
だー、うるせえ。
ほんなら書かなきゃシアワセかというとそーでもない。
そーでもないのならば黙って書けっつーの(笑)。
昔の自作を読み返し、舌ったらず?な文章や書きすぎ描写に、ウーム…と恥ずかしい反面、勢いは感じますね。
でもそれでさえ、八方破れの面白さ、まではいかない。
それこそ小さくまとまっている、おもちゃ、のような。
硬い描線で描かれた下手くそなイラストのよう。
のびのび描いてりゃまだ見れるものの、キチキチコチコチ、描いてるから見ててしんどい。
一生懸命描いてるのは伝わるから、余計しんどい。
目のやり場に困る(笑)。
学生の頃からそうなんでしょうか?
やれやれ。
悪い意味では疲れない、そんな作品に出会いたいですね🎵
出会うって、自分から会いに行くのですけど。
ああ、やっぱりコーヒーが苦いぜ(笑)。
そして導きは結局自分の中にしかないということに行き着いてしまぅのです。
真実は太陽のように明々と輝いていなくて、それを見るためには闇が必要なのですね。
闇の中でしか北極星は見えないのとよく似ています。
己の不必要な欲望を消さないと見えてこないものなのかもしれません。
狩野政信の絵から学んだものを足場にして制作中ですが、何かに巡り会えたら報告します^ね^
いつもありがとうございます。
己が創り、己が判断する。その心が天まで舞い上がらなければどこかに引っかかりがあるわけです。
「書いても突き抜けない感じ」むっちゃんの感覚はその意味で共有できるものです。
宝くじは買っても当らないかも知れないが買わなければ100%当らない。
それと同じことで、意図し続けるしか方法はありませんね。
意図こそすべてであって、その結果を思い悩むのが煩悩。
結果に心を使わないで、意図の方に心を使ぅことが作家には必要なのです。
買えば当るかも知れない。
意図すれば通じるかも知れない。その時つき抜けるのです。
ぐじゅぐじゅ感は結果に向かう意識が作りだしているのです。
そんなもの何もなかった学生時代の意図を思い出して飲んでみてください。特性のエスブレッドコーヒーです。濃いです^よ^
”悩んだときは心に任せる、どうしても早く解決したい時は紙に書き出して、とにかく煮詰める”…あくまで我流ですが、私の場合はこんな感じです。
それはさておき、若輩者の勘ですが(しかも別畑でド素人)…のしてんてん様の”竜ではなく、竜のいる空間を書いた”は私は賛成です。
…なんとなく、狩野政信様は…”心の中に思い浮かんだもの”を書いた気がしています。八方睨みの龍というタイトルですが…そもそもタイトルなどなく描いた…そんな気がします。
あとは…心が自分の望んだ青写真を描いてくれるのを材料集めもしつつ試行もしつつ待つ…のが楽ではそうですが…時間制限(展覧会)があるのですよね…。
展覧会までに見えてくることを…ささやかながら祈っております…!
コメント欄(喫茶室)、お久しぶりでございます。
お絵描きしたり短編を書いたり、昔の自作を読み直して手直ししたりの今日この頃でございます。
八方にらみの龍から何かをつかみ取られたようですね。
『線が境界でなく空間を描く』がどういうことか私には具体的にわかりませんが、『私の書く(描く)ものは、何も意図しなくても勝手に私の作品になる』という概念が浮かびました。
正確に表現出来ているかどうか、正しいかどうかは、わかりませんが。
自分はそもそも何を書きたかったのか何がしたかったのか、実は昨今、見えにくくなっておりまして。
私事でバタバタしていたのとも相まって余裕がなく、小さな修羅が波状攻撃してきているように感じています。
書いても突き抜けないこの感じ、『こがらしのほこり』を思い出しますね(笑)。
あの時ほど深刻?な心身の状態ではありませんが。多少図太くなったのでしょうか?
いいんだか悪いんだか(笑)。
ブログの写真で拝見する限り、マスターの龍が小さくまとまっているおもちゃのような龍、とは感じられませんが。
作者の感性が『NO』を出すのだから仕方がない。
好き嫌いは別として、すごい作品には力がある。
力がある作品は、好き嫌いを越えた魅力がある。
それは意図して出来るものではない。
でも、書きたい(描きたい)は……意図。その辺でぐじゅぐじゅし勝ちですね、私は。
今日はコーヒーが苦いですね~。カフェオレにしよっかな?