のしてんてん絵画 「真我の目覚め」 キャンバスに鉛筆
真我とは何か。
以下それをお伝えするために、出来るだけ正確に私の心の中に起こったことを写実して見ます。
摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空
度一切苦厄 舎利子 色不異空 空不異色 色即是空
空即是色 受想行識亦復如是 舎利子 是諸法空相
不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中
無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法
無眼界 乃至 無意識界 無無明 亦 無無明尽
乃至 無老死 亦 無老死尽 無苦集滅道 無智 亦 無得
以無所得故 菩提薩埵 依般若波羅蜜多故
心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想
究竟涅槃 三世諸仏 依般若波羅蜜多故
得阿耨多羅三藐三菩提 故知般若波羅蜜多
是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪
能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多呪
即説呪日 羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦
菩提薩婆訶
般若心経
上は般若心経の経文ですが、前回書いたように、この教えの中で、伝えようとしている真理が書かれているのは色付けした部分。ご覧のとおりすべて前半に集中しています。後半はその真理を悟ることで得られる効果をうたっている訳です。
この色付けしたの経文の部分を2500年前に書いた人がいる。私はこれを書いたその人の心の様子を追体験する必要を感じ、そのために、経文の言葉のつながりを論理的に追ってみようと思ったのです。その人の考えがどのように移って行ったのかという事です。
なぜそれが必要だったのかを先に書いておきます。
それは般若心経そのものが矛盾の産物だからです。あるいは蛇が自分の尻尾を飲み込んでゆく異形をしているのが般若心経であるとも言えるのです。
それは「空」あるいは「無」と言う言葉の持つ力のためなのです。その力が己をも無化してしまうために起こる自己撞着。これが経文には含まれているのです。何より「空」と「無」の文字だけで経文の10パーセントを占めるという異常な文体をしているのです。
それは例えればこういうことです。
覚者が全ては無だと弟子に言います。「分かりました」→「馬鹿者、その分かりましたも無だ」→「なるほど無なのですね」→「その無も無だと分からんのか」→「はい!それも無だと分かりました」→「その無もまた無じゃ!」・・延々と馬鹿問答が続く。これが般若心経にしかけられた呪文あるいは魔法なのです。
般若心経をとりあえず知ったものはこの呪文にとらえられて、永遠に悟りの階段を登らなければならなくなる。「無」の呪文を打ち破らなければ般若心経の真髄には到達できない。そのためには与えられたものに甘んじるのではなく、自らが作り上げなければならない。作者の心を追体験できなければ、本当に理解したことにならない。逆に言えばそれだけが「無」の呪文を打ち破る方法なのだ。
これが私の心の中で起こった理解への道筋です。そして経文の文字の流れを俯瞰してみることにしました。文字の流れを数式の記号を使って表してみると次のようになったのです。
「自我」=「五蘊」=「色+受想行識」であるなら、経文の流れは次のようになる。
「五蘊皆空」=((色不異空・空不異色・色即是空・空即是色)+(受+想+行+識)亦複如是)=「是諸法空想」=(不生不滅+不垢不浄+不増不減)=「是故空中」=無(色+受想行識)=(無(眼耳鼻舌身意)+無(色声香味触法))=無(眼界~意識界)=(無(無明+無明尽)~無(老死+老死尽))=無(苦集滅道)=無(智+得)・・・「五蘊皆空」=空(色+受+想+行+識)=空(自我)・・自我が空ならその空にこそ意味がある・・・「五蘊皆空」=無(色+受想行識)=無(自我)・・自我=無ならその無にこそ意味がある・・「五蘊皆空」=自我(空・無)・・自我=(空・無)なら(空・無)こそ意味がある・・意味があるものこそ真我と呼ぶにふさわしい。っすなわち、真我=空・無 なのだ。空・無を引き受ける言葉をつくる。それを真我と呼ぶことで「無」の呪文から逃れることが出来るのだ。
よって、「五蘊皆空」=空(色・受・想・行・識)=空(自我)=無(色+受想行識)=無(自我)=無・空(自我)=真我(自我)
真我(自我)、この文字式を観ることで私達は自我がどのように宇宙とかかわっているのかが見えて来る。般若心経の到達した「五蘊皆空」は、「五蘊」すなわち自我を消せと言っているのではない。自我は真我の見ているドラマなのだ。銀幕に映し出された映画と、それを鑑賞する真我がいる。
映画の中の恐怖や痛みは、客席で観ているあなたには届かない。なぜならそれは空(映像)なのだから。
それゆえ心無罣礙であり、 無罣礙 故に 無有恐怖であり、遠離一切顛倒夢想を実現する。それを達して 究竟涅槃に至るのである。
「空」の呪文が解けると、あなたは二つの「空」に気付く。
銀幕で演じている自我の「空」と、何よりそれを観ている真我という「空」だ。この二つの「空」は明らかに違う。自我の空は幻想の意味の空であり、真我の空は実在する空なのである。
これは私の中で起こった小さな悟りではありますが、長いあいだの思い込が消えて大きな鍵の開く音がした瞬間でした。
長いあいだ私は無自我の境地を探し求めてきました。それが絵を深める唯一の道と思い定めたためでした。そのための努力のすべては自我を落とす(消す)ことだったのです。自我を落とす。自我を消す。自我を無にする。瞑想は自我を消すためにあるのだと思ってきました。
つまり「無」とは自我を落とすための目標のようなものだったのです。
しかしそうではなかった。
無(自我)=真我(自我)つまり「無」とは「真我」のことだったのです。
これまでは、無と自我は同時に存在しないと思っていた。無を得るためには自我を消す。消しても消しても自我は動きだす。悟ったと思ったそのすぐ後で自我は何度も復活する。何度も何度も延々とそんなことを繰り返す。
ところが今、無を真我と考えた瞬間、今までの不毛の繰り返しが消えてなくなった。なぜなら、それは両方存在すると分かったからだ。
真我と自我は互いに消しあいをするものではない。それは肩を並べて存在している。無とは悟りの目標ではなく、真我そのものの存在だったのである。
わずか276文字の経文に21回の「無」と7回の「空」を登場させて般若心経は、自我に惑う人々の肩をたたいて回る。真我よ目覚めなさいと声をかるために。
そう思って読み返せば、自我を捨てろとは一行も無い。
ただ、遠離一切顛倒夢想のみである。自我の顛倒夢想を遠ざけなさいと言うにとどまっている。たったそれだけだったのだ。
次回、真我と五次元思考について触れてみたいと思います。
羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶
そもそもどうしてそんなに、自我を消すとか、真我とか、そういう部分にこだわるようになられたのですか?
見当違いの問いかもしれませんが、少し気になりました。
そもそもと、言われると難しいのですが、自分とは何かという思いが強かったのでしょうね。うまく言えませんが、自分は何も知らないし、何も分からないという思いだったのだと思います。そんな時、
苦しいことがあって、絵を描くことで救われたのです。
すると人はもっと救われるはずだと思うようになって絵に没頭するようになって、そのうちにゴーギャンなどの作家が人間とは何かと問いながら絵を描いているのを知って、眠っていたら突然螺旋のような思いが生まれて、急いでメモを取り、それが五次元という考えになってて、宇宙と自分の関係に気付き、般若心経のような経典にも巡り合い。人がみな幸せに生きる道はないのかと自問自答することになったのです。
そもそもは?不登校で苦しんだ自分かな? 心の幸せ=本当の幸せ、そんな世界がどこかにきっとある。と信じているってことかな。
私に自分を断定する力はないと、今更ながら思います。
こんなお答しかできませんが、R.K様、ありがとうございました。