のしてんてん絵画(真我の旅) キャンバスに鉛筆
般若心経は宗教ではない。あえて言うならそれは仏教を生みだす基となった哲学であり真理を追究する科学書だと言えるだろうか。
その考え方は、演繹でつなぐ科学そのものであり、伝えている内容は宇宙と人間の哲学。人間探究の極致ではないかと驚嘆するばかりだ。
下の写真は、私の鉛筆による写経です。その上から分かりやすいように同じ文意ごとに色分けしてみたものです。探求・悟り・救い・宇宙と言う具合にです。
これを見ると、まず最初に経文の大意が一行で示されているのが分かります。般若心経はこの一行で言い尽くされていいるのです。
つまり、人とは何かという探求の末、真理を知り、その真理を理解すれば人は苦悩から救われると言う形ですね。以下経文に沿って見て行きましょう。(マーカーの色は経文のマーカーとの対応を示している)
観自在菩薩が。「深く真実を究めた(行深般若羅蜜多)時、五蘊は皆な空だと悟った。それはつまり一切の苦厄を解決し、みな救われるという事なんだよ。」と弟子の舎利子に語りかけます。
この五蘊皆空の五蘊とは、
①「色」=身体(物質)
②「受」=感覚
③「想」=思考
④「行」=行い
⑤「識」=意識・知識 の五つのことです。
つまり人間をその形と働きから見ると、この五つに分けることが出来るという訳です。まずこの見事な分類に驚かされます。
自分を顧みてみると、確かに自分はこの五蘊からできていると確認できます。他に漏れている要素は考えられません。よくここまで人の存在を分析できたものです。そしてその一つ一つを探求した結果,どこを見てもみな空であるというのです。そうであるなら、自然に一切の苦厄もまた空であって、現実に苦悩は存在しないという事になるのだ。
これが般若心経が伝えるすべてと言えるでしょう。
そのあと、この悟りの内容を細かく舎利子に説明していく体裁をとっているのが般若心経なのです。
「色即是空」という行はあまりにも有名ですね。この色=物質は空であるという説明は宇宙全体を視野に入れたもので、現在の宇宙物理学や量子力学にも匹敵しますし、その洞察は現代科学を越えているとさえ私には思えます。
法話は宇宙の摂理を(是諸法空想)と説いて、そこからさらに詳細で具体的な話になっていきます。
眼・耳・鼻・舌・身・意(頭脳)のような感覚器(身体)と、その感覚器が受け取る感覚(色・声・香・味・触・法)もまた無である。目に見える世界(物質)も、意識の世界も無である。さらに知識の世界も老死さえも無い。あげくにお釈迦様の教え(苦集滅道)さえ無いと言い切ります。知識も、ものごとを得ると思うことも幻想であって実体は無なのである。
つまりこの、人間に対する徹底的な「無」と言う宣言は、最初に掲げた五蘊皆空の中身を丁寧に検証していった結果得られた人間の実態なのですね。
私が感動するのは、師であるお釈迦様の教え(苦集滅道)さえ無と言い切る精神です。そこに探求者の妥協しない真の姿がありますし、その姿をみてお釈迦様は歓喜を上げて弟子の手を取り祝福したのでしょう。そんな風景が見えて来るのです。この探求者の心の触れ合いが胸をあつくするのは私だけでしょうか。
しかし大事なことは、この「五蘊」に対する「無」、あるいは「空」と言う声明が、五蘊の否定ではないという事です。
無あるいは空は五蘊(人間そのもの)を否定しているのではない。無あるいは空こそが(人間の)真実だと言っているのです。
私達人間は、この身をもって自分だと想い、苦悩を背負って生きている。しかしこの有ると思っている自我は、実のところ無いのだ。つまりその正体は空なのだというのです。自分を細部にわたって分解し、五蘊(色・受・想・行・識)に分け入ってみても、そこにはどんな実体も存在しない。つまり五蘊というものは、空だとしか言いようがないのです。
この把握は徹底的に科学的だと思いませんか。この空を神という言葉でごまかすことをしないで、「分からない」と言う正直な到達点を指し示す。これこそ探求者の真の姿でしょう。宗教色はありません。
ともあれ、私達はこの自我を否定されたのではないのです。そうではなく私達人間は皆空なのだと教えてくれているのです。
しかし残念ながら般若心経には、この空が何なのかと云う事までは言及しませんでした。探求の結果「自我とは実体の無い空」だ。そこで止まっているのです。そう言われても私達にはつかみどころがありませんね。なぜそれ以上の探求をしなかったのでしょうか。
私が思うに、この「空」を言葉にしてイメージを与えるとすれば、「神」と言う言葉がもっとも近かったのでしょう。しかしこの言葉には菩薩があえて使わなかったであろう弊害があったのです。
それは「神」という言葉が持っている崇高なイメージなのです。人を寄せ付けない崇高さ。孤高ですね。つまりそのことが教えの中に「神」と「自分」と言う二極を生み出し、その結果、人は神と自分との間に深い溝を作りだす。菩薩はそれを避けようとしたのだと思うのです。
宇宙は全一の存在であり、神と人間と言う二つの存在は無い。般若心経の確固とした理念がそこに見えて来るのです。一神教的な概念は微塵もありません。あるのは真理の探究それだけなのです。この精神が結果、吾は空なりと言う導入で般若心経を終えていると言っていいのです。
この地点に立って、はじめて私は五次元と言う考え方を持ち出すことが出来ます。しかしここでは五次元思考の存在する位置を示すだけにしておきます。
ただ話の流れで私は、菩薩が具体的な言葉として示さなかった「自我は実体の無い空」と言う真実を、より具体的なイメージで描きたいと思うのです。
そこで私は、この「空」を「真我(しんが)」と呼ぶことにしました。自我に対する真我です。自我が虚像であるなら実像は何なのか。その実像を真我と呼ぶ訳ですね。真我は五次元思考から簡単に描きだせるイメージです。そしてこれは人間の側に重心を置きながら神につながって行く言葉となるのです。(後日述べます)
経文に戻りましょう。
このように「五蘊皆空」を悟ると、「心無罣礙」心にこだわりが無くなる。
心にこだわりが無くなると、恐怖も意味を失い、誤った認識や妄想からも遠く離れることが出来る。「遠離一切顛倒夢想」なのである。
修行を究め、人生を、誤った考えで成り立っている事(顛倒夢想)から遠ざけること。これがすなわち悟り(涅槃)であり、阿耨多羅三藐三菩提(サンスクリット語の発音・完全なる悟りをえて苦から解放される)を得るのである。
と、五蘊皆空の悟りがもたらす救いの実態を語ります。そして般若心経の伝えようとしている内容はここまでです。
これ以降の経文は、いわば経文(般若羅蜜多)そのものに対する自画自賛です。そこには特にくみ取る意味はないでしょう。
しいて書いておけば、この呪文(呪は経文を唱えるという意味が込められているのではないか)は、大神呪であり、大明呪であり、この上無いものであり、これに匹敵するものは無いのだというのです。
これは間違いなく苦を取り除く呪文であり、真実にして偽りはない。
そして菩薩はこれを説いてこのように唱えられた。
羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶
と締めくくります。
この「羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶」は翻訳時に、漢文で翻訳しないで元のサンスクリット語の発音を漢字に当てはめたと言います。
英語を日本語で訳す時、「私はしあわせ」と訳さず「アイアムハッピー」としたようなもので、原文の発音を残すという事は、経文を呪文と考えた一つの証拠でもあるのでしょう。
ちなみにその意味は、「往けるものよ、往けるものよ、彼岸に往けるものよ、彼岸に全き往けるものよ、悟りよ、幸あれ」だそうです。
「ぎゃーていぎゃーていはーらーぎゃーていはらそーぎゃーていほじそわか」
この発声から2500年前の心の世界に旅する扉が開かれるならば、訳者のよき工夫と言えるでしょう。感謝。
般若心経
銀座での展示会に行った時、
私はその鉛筆の力加減に着目して絵を見つめたことがありました。
すべての鉛筆の痕跡に手を抜いた、軽くあしらったようなような誤魔化しが無く、
すべての鉛筆の後に苦悩の痕跡がありました。
今回の鉛筆写経にも一字一字真の誠意の痕跡がくっきり表れていますね。
常に全力で絵を描いていることが表れていますね。
ゴーギャンが自らの絵に書き残した言葉ですが、これは私にとっても最大の関心事です。
私の絵はそこに至り、われわれは何ものなのかを探すための手段なのですね。鉛筆は触覚で^す^言い方を変えれば龍かもしれませんね。
ある日ある偶然が私に般若心経と引き合わせてくれました。
鉛筆絵画と五次元思考の間に般若心経がやって来て、今私はこの三つが一つになっていく様子を楽しんでいるところです。
常に自己検証していますが、今回の達観は般若心経の智慧に助けられて、いよいよ本物と出会えるかもしれない
そんな予感がしています。
今回の記事で「真我」と言う言葉が思い浮かびました。自我を押しのけ真我が私の中心にやってきたと言う感じです。
理解は千差万別あっていいのですが、この体感だけは桂蓮様にも伝わればいいなと願っております。
ある時点で『これでいい』と思えた(分かったような)ので、
それ以上は進んでいなかったですが、
のしてんてんさんの見方や解釈を読んで
また、新鮮さを感じました。
私は人様の考えや見方を比べたり、測ったりして議論するのは時間の無駄だと思う派です。
ただ、人の解釈を読んで、それでOKで、NGならそれ以上は関わらないようにしているだけで単純極まるモットですかね。
なので、あまり出された(書かれた)お膳に私の箸でかき混ぜないようにしています。
出されたお膳に拝見して
感謝の気持ちで頂く、
それでもなお感謝に溢れたら、お膳に関わった思い出を共有する、それだけですかね。
追伸:わたくしのブログに無意識の段階についてコメント残してくださってからちっと考えています。思いつきや社交辞令で返事はしたくないので、思いが定まるまで、そのままにしていますので了承お願いしますね。
場合によってはそのまま放置しておくのもあります(そうするとずっと心に残るから)
普通なら画用紙に何か描いたりするでしょう。
画用紙を丸めて、その丸めた画用紙を鉛筆で弾いたり、細かくバラバラ画用紙を千切って鉛筆に串刺ししたりはしないでしょう。
画用紙や鉛筆は、人に描くという動作を与えるものとして作用するわけですから、画用紙や鉛筆は「意味」を持った情報になるわけです。
即ち言葉は情報として意味を持ち、人に作用し行為を促すわけです。
言葉が意味を持たない、情報として作用しない
その状態を「空」というわけです。
空の状態で渡された画用紙や鉛筆は意味を持たないわけですから、渡された画用紙と鉛筆は、情報の欠けた、ありのままの見たまんまの画用紙であり、鉛筆になるわけです。
互いに共有できるものがあればさらに良いことですね。
コメントの件了解しました。
気を遣っていただいて感謝いたします。
その次には、
画用紙を丸めて、その丸めた画用紙を鉛筆で弾いたり、細かくバラバラ画用紙を千切って鉛筆に串刺しするかもしれません。
言葉を覚え人間としての学習をして初めて画用紙に何か描いたりするようになる。
言い換えれば人となった者は与えられたものの9割以上の可能性を捨てて、画用紙と鉛筆という夢を見始める訳ですね。
言葉とはそういうものですよね。
「空」もまた言葉ですから、
空の状態で渡された画用紙や鉛筆は意味を持たないわけですから、渡された画用紙と鉛筆は、情報の欠けた、ありのままの見たまんまの画用紙であり、鉛筆になるわけです。と言うZIP様のお話は言葉として分かりますが、
空のままの画用紙や鉛筆は存在しませんね。
ましてや自我でさえ空です。
空となって初めて、画用紙や鉛筆という縛りから解放されて、失った9割以上の可能性を回復するものとなる。そう理解しておりますが、いかがでしょうか?
空の状態で渡された画用紙や鉛筆を、画用紙や鉛筆と判断することさえ出来ないでしょう。
書かれている文字が文字として意味を持つのは
読まれることで情報として伝わるから文字として意味があるわけです。
あくまで私にとっては、情報とは受け取ることで、空の状態から限定されることで取り除かれる不確かさということです。
そのものに名前を付ける。それが言葉や文字でなくても、ZIP様の言われる情報の本質だと思います。そしてその本質そのものが人間だという訳ですね。そう私には伝わるのですが、いかがでしょうか。
もしそうなら私達人間が完全に理解しあえることは本質上不可能なわけです。そしてそれは正しいと私は思います。
要はその不可能を知り理解しなさいと般若心経は教えているのです。「情報」と思うだけで与えようとしたり得ようとする。そこに喜怒哀楽がついてくる。しかしそんなものは無いのですね。
言葉はあくまでも自分自身がその無いという事、「空」を知るためにあると言ってもいいでしょうね。その言葉が外からやってくる情報であれ、自分の頭から生まれてくるものであれ、同じです。
たとえば私の記事のどのひと言であっても、私からやっていく(伝わる)ものは何一つ無いでしょう。すべての言葉は触れた人の心の中で「空」を知るためにのみ機能するだけなのだと思うのです。
絵を描くのに画用紙や鉛筆を判断する必要はないとも言えますね。