王 宮
空に有明の月が出ていた。下弦に弓なりになった折れるような月が大きく西に傾いている。新月が近いことを示していた。
東から太陽が昇り始め、やがて王宮の庭に光が差し込んで来た。もやのような朝霧が光を浴びて、一粒一粒の霧の動きが見えるようだった。その霧に埋もれるようにバラの花園が広がっていた。色とりどりのバラが集められて、心地よく配列されている。中でも深紅のバラのあでやかさは、花園の中央にあって誰の目も引き付けた。
エミーが花園に入ると、すでに人影があった。霧に包まれるように、物腰の美しい后が花の手入れをしているのだった。
「おはようございます、ロゼット様。」
「おはよう、エミー。」
「今日もいいお天気になりそうですね。」
「ええ、城での生活はもう慣れましたか。」
「ありがとうございます。お陰様で少しずつ馴染んで参りました。でも、言葉使いや作法は難しくて、なかなか覚えられません。」
「あせる事はありません。私もここに来たときはそうでした。」
「ロゼット様も?」
「そうです、私はサンパスの出。」
「サンパスというと、港町のサンパスですか。」
「そうです。行ったことはありますか。」
「ええ、父と一度。」
「そうですか。サンパスも変わったでしょうね、もう二十年以上も前の事ですから。」
「一度も帰っておられないのですか。」
「そうですね。」
「お淋しくはありませんか。」
「時にはね。」ロゼットは手を伸ばして盛りの済んだ花びらを摘み取った。
エミーはひしゃくでバラの根元に水をかけていった。城に入って七日目の朝だった。城の迎えは物々しかった。きらびやかな輿が用意され、十人の従者に引き連れられて城門を潜ったのだ。カルパコは終始無言だった。エミーもまた、何を話せばいいのか分からなかった。輿に乗せられたとき、エミーは一瞬カルパコを見た。
「すぐに帰ってくるわ。」エミーはカルパコに言った。
「エミー!」カルパコが叫んだ。
輿のすだれが降ろされ、外が見えなくなった。輿はゆらゆらと居心地悪く揺れた。不安がそのまま現実になったように感じられた。長い単調な時間が過ぎた。次にすだれが上げられた時、目の前に王子が立っていた。
「よく来た。まずはゆっくりするがよい。」
王子はそう言ったきり姿を消した。エミーの想像は完璧に覆された。エミーはロゼット后の元に置かれ、毎日礼儀作法を学ばされた。年老いた従事長の厳しい訓練を受け、召し使いのジーンがエミーの世話をしてくれた。しかしその間、一度も王子は姿を見せなかった。王の前で歌をうたうと思っていたエミーの意気込みはいつの間にかしぼんでいた。一体これから先、どうなるのだろうか。エミーはやる瀬ない思いを募らせていた。
「エミー、水をかけ過ぎないようにね。」后が優しく注意した。
「あっ、申し訳ございません。ロゼット様。」
「日が昇り切らない内に、水をやってしまいましょう。」
「はい、ロゼット様。」
「母上、お早いですね。」
エミーの背中で王子の声がした。
「まあ、ウイズビー、これから王様の部屋に行くの?」
「ええ、朝の挨拶です。」
「じゃあ、これを持って行って下さる?」
「喜んで。」
ロゼットは手際よくバラの花を切り取り、花瓶に差した。王子はそれを受け取り鼻を近づけた。
「いい香りだ。これが味気ないものに感じた時期があった。」
「でも、あなたは回復したわ。」
「そうです、母上。このエミーの母親の歌が、私にこのバラの花を与えてくれたようなものだ。」王子はエミーを見た。エミーは恥ずかしくなって目を伏せた。
「ほう、随分しとやかになった。」
「ウイズビー、女をからかうものじゃありません。」
「はい母上、では行って参ります。ところで母上、このバラ、明日はご自分でお持ちしたらいかがですか。」
「王様は私が部屋に入るのを良く思われないのです。」后は淋しそうに言った。
「そんなことはないでしょう。父上はただご自分の病が母上に移るのを恐れておいでなのです。母上が花を持って行けば父上も喜びましょう。」
「そうだといいんだけど。」
「あの王子様、私はいつまでこうして、」エミーが恐れながら訊いた。
「父上の容態が良ければ、今日にもお目通りがかなうだろう。それまで歌の練習に励んでおくようにな。」
「かしこまりましてございます。」
「では母上、失礼します。」
「王様をよろしくね。」
「分かりました。」
ウイズビー王子は靴音を響かせて花園を出て行った。エミーは王子を見たとき、ほっとして、何となく嬉しいような感情が起こってくるのを感じた。思惑が外れて七日も放っておかれた不安が、そうさせたのかもしれなかった。エミーの心に複雑な感情が生まれ始めていた。
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