厚紙に描かれているのは、緑色の字のタイトルと、桜か何かの落葉樹一本と風に舞う赤い木の葉。鉛筆とパステルで描かれた柔らかい風合いの絵だ。線に素人っぽい拙さがあるものの、可愛らしい雰囲気の絵だった。
「これは私が、知り合いの風からきいた話です」
オカリナの音が響く。彼女は厚紙を入れ替える。絵は、灰色のグラデーションの中を歩く寂しい目をした若者に変わった。彼が『こがらし』らしい。
ひとりの風の若者が、『こがらし』という誰からも嫌われる仕事を神さまから命じられる。彼は、自分が来るせいで葉を落とさなくてはならない木々や、旅に出ざるを得ない渡り鳥の様子に負い目を感じ、心を閉ざして役目を果たすだけの日々を送っていた。
絵が入れ替わる。灰色の画面の中で、緑の葉を茂らせた大木がどっしりと立っていた。
こがらしはある日突然、大きなくすのきに話しかけられる。
「いえ、ちょっと前まであなた、時々隅の方で涙ぐんだりしていましたよね?本当はこのお務め、とてもつらいんじゃないのかなと。前から私、それが気になっていまして」
くすのきの思いがけないこの言葉に、こがらしは驚く。涙ぐんでいたのは務めを始めたばかりの頃のことだ。
「そんな……前から。ぼくのことを気にかけてくれていたのですか?問うこがらしへ、くすのきは不思議そうでした。だってあなた、毎年来てるじゃないですか。顔見知りなんですから気にかけるでしょう?」
「辛いんじゃないの?」
不意に僕は思い出す。
僕を心配し、陰っていたあの日あの時のみくの目。
そしてみくの言葉を。
あれは僕が、大学を続けるかどうかで悩んでいた頃のことだ。
みくは他の大学の学生だった。
高校時代からの友人に付き合わされ、石仏同好会という地味なサークルに連れていかれた時に知り合った。石の地蔵やら道祖神やら明日香村の遺跡やらの話をしだすと止まらなくなる、ちょっと変わった女の子だった。
僕は当時とある芸術大学の学生だったが、己れの実力のなさ・才能の乏しさを思い知り、打ちのめされていた。
ちょっと小器用。ちょっとセンスがいい。ちょっと絵や造形が上手い。
そんな、こういう大学へ入れる程度の実力では、世間ではまったくお話にならない。『才能』という圧倒的にキラキラしたもののあるかないかが、こういう世界のすべてだ。
そして当然『才能』は、教わって身につくようなものではない。
愚かな話だが、僕は大学生になって初めて、その残酷なまでに身も蓋もない現実を思い知ったのだ。
頭ひとつ抜き出ている者は入学時から抜き出ていて、そしてそのまま突っ走ってゆく。
しかし最初からもたもたしている者は最後までもたもたしていて、やがて時間に押し流されるように世間の片隅へ追いやられる。
僕が後者なのは、どう贔屓目に己れの才能を見積もっても確かだった。
子供の頃、頭ひとつ抜き出ている夢が見られたのは、単に自分の周りには芸術的な才能のある者がほとんどいなかったからに過ぎない。それを、大学生になって初めて僕は気付いた。己れのおめでたさを笑った後、虚しくて泣けた。
ここでこうしていても自己満足のゴミをせっせと作り続けるだけ。金も時間も無駄。
毎日毎日そんな自虐の言葉が頭に響いていて、心がささくれ立っていた頃だった。
辛いんじゃないの、というあまりにもストレートな彼女の言葉に、僕は絶句した。
ひだまりのお地蔵さんみたいに彼女は笑い、あえてのように軽くこう言った。
「辛いんなら別の道もあるんじゃない?そっちが辛くない可能性だってあるし」
気楽な言い草だと僕は急に腹が立ってきた。
「ほっといてくれよ。あんた他人だろ?」
言った後、さすがにしまったと思った。あきらかに八つ当たりだ。
彼女はしかし更に心配そうに眉を寄せ、遠慮しながらこう言ったのだ。
「そりゃあ確かに他人だけど。サークルの仲間で、顔見知りじゃない。顔見知りのことを気にかけるのは、当然じゃないのかな?」
顔見知りのことを気にかけるのは、当然じゃないのかな?
当然すぎて忘れていた。当然すぎて……思い付かなかった。
「その言葉を聞いた途端、こがらしの胸はじわんとあたたかくなりました。冬の空気が自分の心までこごえさせていたことを、その時初めて、こがらしは知りました」
レイちゃんは語る。ジンさんのオカリナが邪魔をしない程度のボリュームで、優しいメロディーを奏でている。
僕は、キャラメルを咀嚼することさえ忘れていた。
場面が変わる。
どことなく表情に柔らかさが加わったこがらしの若者へ、杉を思わせる背の高い木が話しかけているところだった。メタセコイヤ、という種類の木だそうだ。
メタセコイヤの言うには、冬の支度で葉を手放すのだが、なかなかその踏ん切りがつかない。だがこがらしが冬の到来を知らせてくれるので、ようやく葉を手放す気になれる。葉を手放して眠り、春への力を蓄えられるからまた元気に新しい芽を出すことができるのだ、と。
「ありがたいと思っています。こがらしさん、いつもちゃんと来て下さって、本当にありがとうございます」
「ううん。迷惑なんかじゃない。来てくれて本当にありがとう」
そう言って軽く涙ぐんでいた彼女を、僕は初めて、ぎこちなくそっと抱きしめた。
みくと僕はその頃、いわゆる『友達以上・恋人未満』の中途半端な感じだった。ぬるま湯のようなその関係は心地よかったが、もどかしくもあった。
僕はある日、僕としては一大決心をした。
彼女の誕生日に、正式に付き合ってくれと申し込むのだ。
あの笑顔を独り占めしたい。
あのひだまりのお地蔵さまみたいな優しさを、他の男へ向けないでほしい。
いつの間にか僕は、切実にそう思うようになっていたのだ。
気の利いた男なら、そこそこ名の通ったブランドのアクセサリーに花束でも添え、お誕生日おめでとう、よかったら僕と付き合って下さいとでも申し込むのだろうが、そんな金は逆さに振ったって出てこない。
百円ショップでどっさり色紙を買い、心と気持ちだけは十二分に込めて真紅の薔薇を彼女の歳の数だけ折り、色画用紙の上へ花束の形にレイアウトしたものを用意した。
後は彼女の好きな紅茶の茶葉と、小さなフルーツケーキを用意した。
それだけで僕の財布はほとんど空だった。
誕生日も関係なしにアルバイトをしていた彼女を、サプライズのつもりでアパートの玄関先で待つことにした。
かなり待ったが彼女はなかなか帰ってこなかった。
もしかして外泊でもするのか、誰と何処でとじりじりし始めた頃、ほろ酔いの彼女がようやく帰ってきた。女友達に、誕生会代わりの飲み会をしてもらっていたのだそうだ。
自分だけで盛り上がっていた自分が恥ずかしくなり、一生懸命考えてきた言葉も飛んでしまった。なんとなく憮然として僕は、迷惑かもしれないけど、これ、とぶっきらぼうに言って用意したものを渡した。
色画用紙に貼られた薔薇の花束だけで、僕の気持ちは彼女へ届いた。
「ううん。迷惑なんかじゃない。来てくれて本当にありがとう」
(つづく) 次を読む
僕には関係ないといじけていた僕(青年?)の一端が見えてきましたねぇ。
これからどうなるんでしょうか。
→ この思いが「 友達以上恋人未満 」にサヨナラを告げるんですよね。
わかるなぁ。
百円ショップの想い・・100 点だったこと、私もうれしいです ♪
いつもありがとうございます☺。
甘酸っぱい青春の恋。
すっかりオバちゃんが板についた昨今ではありますが、良いですよね。
みくちゃん、いい子でしょ?
だめんずウォーカーになりそうな匂いをするのが、やや、オバちゃん的には心配。
ここは主人公、頑張っておくれー🎵