「雨でヤす。」
「こんな雨、見たことないだス。」
雨は海面に落ちると。瞬間に黒い雲がもこりと立ちのぼり、それがしっぽの形になったり、魚や小鳥や、指や耳の形になって消えた。
雨が一粒落ちる度に海面にぽこりと小さなものの形が生まれて消えるのだった。
「何ですかあれは、気持ち悪いような、おもしろいような。」
「あの雨は、役目を終えて、目的を失ってしまったもの達なんだ。海に落ちた瞬間に物の形が生まれているのは、そのものの前の記憶が形になったものだろう。」
雨は次々と落ちて来て、それまで持っていた目的の形を海面に残して海の中に消えるのだった。
スケール号はポコポコと揺れる海面を分けて進み、ときおりネズミの形が生まれている場所に近づいた。
あそこには何があるのだろう。
「チュウ」
小さなネズミがスケール号に這い上って来た。
「大丈夫ですか艦長。」
「大丈夫だ、ここのネズミはチュウスケのような邪悪な強い力をもっていないようだ。」
ネズミが何匹も集まって来た。チョロチョロ走り回り、スケール号をなめたりかじったりし始めた、もちろんその度にスケール号のシールドに阻まれて弾き飛ばされている。
「スケール号、一匹捕らえるのだ。」艦長が命令した。
「ゴロニャーン」
スケール号はチョロチョロ這い回るネズミの一匹をパクリと口に入れた。するとネズミのエネルギーがスクリーンに映像になって変換されるのだった。
スクリーンには半透明の壁に仕切られた、蜂の巣のような部屋が画面一杯に映し出された。それぞれの部屋の中にはマリモのような緑色の生き物が動いている。
それを取り囲むように、アメーバ―のように不規則な部屋が広がっていて、その中には小判型をしたオレンジ色の生き物が棲んでいた。
「これは細胞だスね。」
「おそらく、何かの動物の細胞だろう。」博士が言った。
その時、緑の細胞がひとつ弾けて小さくなってしまった。すると隣にいたオレンジ色の細胞が小さくなった緑色の細胞を食べ始めたのだ。
「あっ」ぴょんたが声を出した。
見ると、緑の細胞が次々と弾けて潰れ始めた。緑の細胞が小さな粒のような形になってしまうと、オレンジ色の細胞が群がって行く。やがて緑の細胞は跡形もなく消え去ってしまったのだ。
「博士、これは何なのですか。」
「細胞の自殺だ。」
「自殺でやスか。どうしてそんなことが起こるんでヤす。邪悪なもののしわざでヤすか。」
「お玉ジャクシを知っているね。」
「はい、知っています。」
「もちろん知っているでヤす。」
「お玉ジャクシがカエルになって行くのを、順番に言えるかな、もこりん。」博士がもこりんに質問した。
「えーっと、足が出て、手が出て、えーっとえーっと、あっ!尻尾を食べちゃうんでヤす!」 もこりんが自信満々に答えた。
「うーん、ちょっと違うね。食べるんではなく消えてしまうんだよ。」
「えっ、じゃあ尻尾はどこに消えるんでヤすか。」
「尻尾の細胞が自殺するんだ。そして体に吸収される。」
「細胞が自殺するんですか。」
「一つの命が生まれるとき、生きるものと死ぬものがあるんだ。尻尾が死ななければカエルは生まれない。命と言うのはそういうものなんだよ。命はたくさんの犠牲によって生まれて来るんだ。」
「私の体もそうですか。」艦長が聞いた。
「生きるものはみなそうだよ。一つの細胞の死によって新たな成長が約束されているんだ。食べ物だってそうだよ。」
「食べ物だスか?」
「みんなが飲んだカカオジュースを思い出してごらん。カカオは死んだけれど、みんなのお腹の中で新しい命を支えているのだよ。」
「みんなを生かすために自分は死ななければならないなんて、かわいそうだス。」
「そうして死んでしまったものが、目的を失ってここに落ちて来たんだ。その悲しみの記憶が黒い海にネズミの姿を作り上げているのだ。おそらくね。」
博士の話は、いつになく悲しく、重苦しい雰囲気をもっていた。スケール号の中は、まるでお葬式の夜のように、悲しみが支配していた。知らないうちに、小ネズミのエネルギーがスケール号の乗組員の心を動かしていたのだ。
「どうしてネズミなんでヤすか。」
「それは分からないが、おそらくチュウスケ魔法の影響だろう。」
「誰だって、自分が死ぬのはいやだス。その怒りがチュウスケの正体だスね。」
「いや、そうではないよ。全体を生かすために死んで行く細胞達は、皆自然の定めを理解しているんだ。自分の目的は生まれてそして死ぬことだとね。」
「ではどうして、邪悪なチュウスケになって、世界を滅ぼそうとするのですか。」
「チュウスケは、この死の悲しみを利用しているんだ。悲しみの心に邪悪な自我の心を吹き込み、憎しみと怒りを作り出しているんだよ。」
「邪悪な自我の心と言うとどんな心だスか。」
「世界は自分一人のためにあると思う心の事だよ。邪悪な心から見ると、自分の思い通りにならないことは、絶対に許せないんだ。だから激しい怒りと憎しみが生まれる。それがチュウスケの正体なんだ。」
「このネズミ達は、チュウスケの邪悪な魔法をかけられていない。きれいな心を持っているようですね。」ぴょんたが優しく言った。
「ぴょんた、君はおばあさんの心の世界を旅したとき、自分の体を犠牲にしてピピを助けたことがあったね。だからぴょんたにはここのネズミの心がよく分かるんだよ。」博士がぴょんたを見た。
ぴょんたは少し恥ずかしそうにして、ほほを赤らめた。
「命あるものは皆、このネズミ達のおかげで、こうして生きているんですね。」艦長がしみじみとした口調で言った。
「そう言うことだね。メルシアはきっと、これを見せたかったに違いない。」
「この黒い海は悪魔の海ではないんだスね。」
「ここに落ちて来たものは、一瞬、今までの記憶を海面に解き放ち、海の深みに沈んで行く。そこはカオスの世界なのだ。役目を果たしたもの達が深い眠りにつく所だよ。」
「悪魔どころか、世界の母体なんだスね。」
「よく分かったね、ぐうすか。」
博士にほめられて、ぐうすかは嬉しそうに頭をかいた。
「いててて」思わず声を出した。 頭の傷に触ったのだ。
「ばかだな、ぐうすかは。」
ぴょんたが笑いながら言った。それにつられて、もこりんも艦長も笑った。顔をしかめながらぐうすかも笑い出した。
いつの間にか、黒い海にそそぐ雨は止んでいた。そしてどこまでも静かなカオスの眠りが広々と黒い海域を作り出しているのだった。
「さあ、行こうか。」博士が艦長に言った。
「そうですね、いよいよ、神ひと様に会えますね。」
「この先は、心の世界を旅した時の道程とそう変わることはないだろう。しかし、何があるか分からない。気を許してはだめだぞ。」
「分かりました。」
スケール号は黒い海から飛び立った。眼下に黒い海域がずっと奥まで続いている。果てしないほど広い世界だった。また再び、役目を与えられるまで、安らかな眠りについているカオスの世界、このカオスこそ世界の正体なのかもしれない。
話しかけても、言葉が帰って来るわけではないが、無限の深みが全身に伝わって来る。理解すればカオスはそのような海だった。
スケール号は、音もなく飛んで、黒い海域を離れた。
つづく
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