ナウイズム(実在主義)宣言 いのちの円相
清須市はるひ絵画トリエンナーレアーティストシリーズVol.83
北籔 和(Waa)展 ナウイズムの夢
ナウイズム(実在主義)宣言
地上のすべての人々に、人間の尊厳と希望を。
我々は、長いあいだ時間に縛られた認識世界に生きてきた。
四次元(時間思考)は歴史を理解し、人々を未来に向わせ、知識の探求と富の追及に意欲をかきたてる。
しかし反面、四次元は様々な代償を人々に求めてきた。その代償は、万人に対して等しく振り分けられるように仕組まれている。
心の中でそれは起こる。苦悩がそれだ。
時間は、心が今に留まることを許さない。
過去を悔い、未来に不安と希望をかきたて人々を走らせる。その舞台から降りようとするものは落伍者とみなされる。
今や、この時間思考から自由になり、今を生きるということを学ばなければならない。
それは真実に気付き真実と共にあるということ。
我々は呼吸し、脈打つこの身体と共にあって、宇宙と共存している。この事実に感謝してそれを受け入れることなのだ。そこには落伍者は一人もいない。
我々はみな、独自に持っている能力を有効に使うことが出来る。その能力は一人ひとり違っており、その違いこそ最大の価値だと認めなければならない。
我々はすべて、自分自身であることで社会に貢献し、その役割を果たす。それは今を生きるものにしかできないことなのだ。
我々の精神的支柱は五次元である。
五次元は四次元を否定するものではない。
むしろ時間思考の利点を認めつつ、その落とし穴から身を守るための思想となるのである。
主従関係をはっきりさせねばならない。すなわち、主は五次元であり、四次元は従として必要な時に用いる。
いうまでもなく四次元は時間思考であり、五次元はスケール思考だ。
スケールの概念は、今この瞬間に、全宇宙を認識する方法だ。己の実在が、無限の宇宙とつながっていることを教えてくれるのだ。
人はそこから、自分は無限大であり、宇宙そのものであるという理解に至る。スケールの概念はミクロとマクロが同時に存在する宇宙の姿を理解させてくれる。それは「今」そのものの姿なのである。
時間の概念から見る人間は、一人ひとりが宇宙から切り離されている。なぜなら、人は時間のラインに乗って生きていかねばならないからだ。
そこでは未来と過去は重要な判断基準となるだろう。
しかし未来も過去も、実在ではない。空想の存在だ。
空想の存在に身を置き続けることで、我々は実在である「今」を軽んじ、忘れさせられている。そして空想の自分の死を恐れ始める。
それが時間思考のつくり出す我々の姿だ。
我々はこの四次元の意識から離れ、生まれた瞬間に戻る。
産声から始まるいのちの奇跡。それは全宇宙の力がかかわっている実在であり、永遠に存在するものなのだ。実在は今、この瞬間にしかない。
スケール思考はそれを正しく見せてくれるよき道具となるのである。
我らは叡智を集めて、五次元の道をひらく。
様々な芸術が、今この時を生きる人の姿を提案する。
平凡な生活の中で、一本の描線、一枚の紙、一個のジャガイモから、今この時を学ぶ。今立っているこの場所から、五次元の意識は生まれる。
それは、人々を苦悩から解放する。
スケール思考とは、スケールの概念で見る世界を実在と定める方法だ。
我々は宣言する。
四次元から意識を解放し、五次元と共に人間性を回復する。 と。
この瞬間から、
今を意識した生き方を選択しよう。
今この時にしか存在しない、この命を見つめて生きる心を定めよう。
憎しみは過去から来る。怖れは未来から来る。そして愛は今にしか存在しない。
常に、今この時を意識して生きる。それがナウイズム(実在主義)だ。
ナウイズム生活
ナウイズム芸術
ナウイズム体術
ナウイズム工芸
ナウイズム思考
ワ タ シ ハ イ マ ヲ イ キ ル
こんにちは。
カカオ多めのオットナ〰、なチョコレートをチマチマいただきつつ、ここしばらく食禅にチャレンジしています。
揚げせんべいよりは私は、落ち着いて味覚に集中出来ます。
でも……それ以上の境地にはなかなか。
マスターと真鹿子さんのコメントにあった、発声練習的『舌禅』の話を読ませていただき、ふと思いました。
この感覚に近いの……私にとってウォーキング、かな?と。
結構若い頃から、私は目的も特になくその辺を歩いたり、自転車に乗ってうろうろしたりするのが好きです。
イライラする時・悲しい時・腹が立つ時……無性に歩きたくなります。嬉しい時もウキウキと歩きたくなりますけど、マイナスな精神状態の時の方が切実に歩きたくなります。
歩いたって状況は変わりませんし、帰宅後しばらくするとまた、イライラむかむか、してしまいますが(苦笑)、
歩いている間は無心でニュートラル、な感じがします。
無心でニュートラル、を繰り返している内に、まあいっかあ……とでもいう気分になることが多い、ような。
それでも駄目な時は根本から見直すべき状況、なのでしょう、多分。
あまり意識していませんでしたが、どうやらそのようです。
これ……一種の禅、なのでしょうか?
違うのでしょうか?
禅とは、おのれと出逢うこと。
単純に言えばたったそれだけのことです。
ですから、むっちゃんのウオーキングは立派な禅と言えるでしょう。
禅はあちこちに転がっています。立派な人は身を正して伝統の禅こそ本当というかもしれませんが、
それなら根っからぐうたらな人間は立つ瀬がない。
おのれを見つめる意識さえあればぐうたら禅でも、真実を見ることは出来ると思っている私の目からすれば、
ウォーキングは、実に高級な禅と言えるでしょう^ね^
私なども、ウォーキングして草引き。
これ草引き禅だと、
まかこさんに
褒めていただいているのです^よ^
あ。むっちゃん、
食禅ね、
味覚を味わうのはいいのですが、目的は自分の中で、その味覚が消える瞬間とその場所をながめることなんで、
そこが、キューを出す一瞬前の集中状態と言ったら分かりやすいかな。。。
そう言えばそんな風に書いてらっしゃいましたねえ、抜けていたような気がします。
『集中』と『キュー』、懐かしいですね。
高校二年の冬に『現役引退』をするのが我々の慣習でしたが……実に濃い二年間でした。
あれに匹敵する体験と時間は、今までの人生に数えるほどしかありません。
現役を引退した時、『心残りは無くもないけど、やるだけはやった。もう、いい』……見るべき程のものは見つ、とでもいう気分でした。←『平家物語』か?
あれも……非常に時間をかけた広い意味での禅体験、だったかもしれませんね。
個人的回想でした、失礼しました。
芸術家になった切っ掛け
心がいつも言っている言葉とは
一番大切な言葉は
美についてどう思うか
です。
私は本当の芸術家に逢ったら聞いてみたいとノートに書いたリストの一部です。
知りたい...
こんばんは~~♪
ずっとお話したかったんですよ^^;;
チャンス到来でうれしいです。
わたしもむっちゃんさんとおんなじ
歩いてるとき、無心でニュートラルな感じなんですよ
禅につきましても、のしてんてんさんと同感なのですが、
千葉県館山市の曹洞宗の西光寺さん、
むっちゃんさんのご質問に
お答えしてくださっているようなコーナーがありましたので、
割愛しても長文になるのですが、
ご紹介させていただきますね。
さて、ご質問の主旨ですが、
禅には座る禅以外に、立禅、動禅があるということですが、
結論から申しますと、立禅も動禅もあります。
さらに申せば、食べる禅もあれば、寝る禅もあります。
泣く禅もあれは、笑う禅もあります。歌う禅もあれば、
「糞する禅」(ごめんなさい)もあります。
決して冗談で申しているのではありません。
禅とはつまり生活総てと捉えるべきなのです。
生活総ての基本が「挫禅」に始まるべきだということです。
それは挫禅を総ての生活に応用することで、
「禅的生活」を送ろうという意図です。
ですから禅は形においては限定されていません。
では禅とはなんでしょうか。
それを一言や二言で言うのは難しいことですが、
あえて一言で申せば「なりきり」ということです。
「なりきり」とは無我無心の境地であり、
悟りの世界に最も合理的に通じる手段なのです。
悟りの世界はこの「なりきり」の境地が
入り口になっていると言ってよいでしょう。
その「なりきり」を狙った公案こそが、
有名な「無字の公案」なのです。
「なりきる」ことで「一切皆空」「諸法無我」
「涅槃寂静」といった「世界」を感得することを
狙っているのです。その感得を悟りというのです。
その「なりきり」の最良の手段が「挫禅」なのです。
ですから挫禅こそ悟りの入り口ということになるのです。
さらにほんとうにその意味が理解されたときこそ
「挫禅そのもの」が「さとりの姿」と
捉えることができるのでしょう。
まさに挫禅こそ安楽(さとり)の法問なのです。
すなわち、挫禅と同じ境地で、
「起きる」「顔を洗う」「食べる」
「歩く」「トイレに入る」「働く」「寝る」
ということです。
このことを「立禅」「動禅」と言うのです。
つまり言い換えれば、生活すべてが
修行の場であるということなのですよ。
しかしいずれにしろ基本は「挫禅」であると
いうことを忘れてはいけません。
以上ですけれど、むっちゃんさん、
長くなりましてごめんなさい。
それにしましても、ずいぶん割愛させて
頂きましたけど、こちらのお坊さま
すごく熱心で挫禅への熱い思いが
強烈に伝わってきまして感動!感謝です☆
つまり禅的生活とは、生活総てに
無心になって集中、無心三昧、熱中すると
いうことでしょうか。私自身、悟りとかは、
気持ちがそこまで行かないのですが、
今に集中、無我無心で今に熱中するとは、
よいことだとおもいます。
のしてんてんではありませんが、
ぐうたらにも集中、無我無心に熱中すると、
ぐうたら禅もあり得ますね♪
むっちゃんさん今日はほんとうに長々と
申し訳ございませんが、
私も勉強させていただきました。
有り難うございます。
だいたい、のしてんてん喫茶室の
カウンター席に座って、なんか知らんけど☆
ホットココアのんで、ぐうたら禅してますので、
これからもどうぞよろしくお願いいたします^^
ご縁感謝申し上げます♪
真鹿子さん、博識で感性が柔らかで、いつもマスターとの掛け合いコメントを楽しみに読ませていただいております。
チマチマ・うだうだやってる私のような(魂の)若輩者を気にかけて下さってありがとうございます❤
生活すべてが修行……そう考えると、気楽なような楽しいような気分になります、なんとなく。
チョコレート禅もチョコレートが無くなるまで続けますけど、こだわらなくても良さそうな。
ただ、マスターの見えてる境地に好奇心がありまして。至れない、のなら多分、私にはまだ早い、ということなのかもしれませんね。
ウォーキング禅・掃除禅・炊事禅辺りから、マジメに楽しんでみます。
マスター、真鹿子さんと私へ本日のオススメ、お願いいたします🎵
わたしが絵を描きはじめたのは、何を隠そう、失恋です。
すべてを失って、目の前が真っ暗になり、ぽっかり胸に風穴があいて、そこに詰め込むものは何もないと行き倒れ寸前のところで、一枚の抽象画に出逢ったのです。
心の風穴に、その絵だけが価値あるものに思えまして、そこからそれだけを追い求めるようになったのです。
もちろん失恋の痛手は40年も前に消えましたが、その価値だけは今も私の心の中で輝いております。
その価値とは、一番大切なものであり、美であり、いのちの実在である訳です^ね^
金銀財宝とは真逆の
空(くう)
その価値観がすべてと思います。
この思いだけは
これからも変わらないと思います。
もちろん、金銀財宝に名声栄誉。
決して嫌いではありませんが、
次元が違うのですね。
それが私の感じる美であり、芸術なんですよ。
知らん^け^ど^。
ぐうたら禅が、えらい御坊様の言葉で語られているなんて。
勝手に考えて、勝手に自分の気持ちのいい方向に進んでいるので、専門家にけなされてもまあいいかと思っておりましたが・・・。
この至福感は、禅の本道とそんなに大きくずれてはいなかったのですね。
絵という好きなことに熱中するのも、修行して禅にまい進するのも、生きる質は同じなのです^ね^。
もちろんそう信じてやってきましたが、こうもはっきり言葉を頂くと、うれしいの一言です。
まかこさん、ありがとうございます。
この感動は、共有する価値が大きいですので、早速記事の方で紹介させていただきます^ね^
むちゃん、良かったね。
おかげでわたしも
勉強させてもらいました^よ^。
入荷したてのカカオパウダーありますから。
今日は大サービス。
桂蓮さんも、これ飲んでみてください。
おいしいです^よ^
のしてんてんさんのイメージが少し掴めました。
カカオれは御馳走様です。
砂糖の入れ加減が絶妙でした。