イントロが流れる。切ないバラードのメロディーは、どこかたどたどしいピアノで奏でられると妙に胸がつまる。不器用な男の哀しい恋が、図らずも表現されているような。
芸達者な年配者たちの合唱が始まった。
バロン氏はもちろん、オカリナのジンさんも今回ばかりは声を張って歌う。
「マスターのそばへいってください」
所在なくぼんやり突っ立ったままの僕へ、不意にレイちゃんは言う。訳がわからないまま、ふらふらと僕は進み出た。
マスターが目顔でこちらへ来いと合図する。
「和音をお願いします」
間奏を奏でている彼にいきなりそんなことを言われ、僕は激しく戸惑った。
「なに、マスターの真似をなさればよろしい」
いつの間にか近くにいたバロン氏がさらっとそう言い、僕の左腕をつかんで鍵盤へ持っていく。
こわごわ、マスターを真似て指を鍵盤に乗せる。戸惑ったような弱い音が響き、和音というより不協和音になった。
しかしマスターは気にしない。再び歌が始まった。
「奇跡が もしも起こるなら 今すぐ君に見せたい
新しい朝 これからの僕
言えなかった「好き」という言葉も」
マスターの歌声へ、ジンさんの、バロン氏の歌声が重なってリフレインする。
「奇跡が もしも起こるなら 今すぐ君に見せたい
新しい朝 これからの僕
言えなかった「好き」という言葉も」
「ご一緒に!モモさん、彼のサポートを」
楽しげでさえあるマスターの声。そっと近付いてくるのはさっきキャンディを勧めてくれた老婦人だ。彼女がモモさん、だったのか?プログラムに名前のあった人だ。
彼女の茶色っぽい瞳が踊るように輝く。優しい声で、ちょっとごめんなさいねと彼女は言うと、ゆっくり静かに僕の背を撫ぜ始めた。
母のような祖母のようなてのひら。身体中のこわばりがゆるんでいく。鍵盤を叩く指先すら柔らかくなる。
「奇跡が もしも起こるなら……」
細いがよく通るモモさんの声。
「……今すぐ君に見せたい」
彼女につられるように僕は歌い始めた。
僕の中で僕を堰き止めていた何かがその時、壊れた。
「新しい朝 これからの僕
言えなかった「好き」という言葉も」
すっ、と、マスターはピアノの前から身体を引いた。主旋律を奏でていた彼の指が、鍵盤から静かに消える。
引き寄せられるように僕は、自分の右手を鍵盤に乗せる。無秩序な音が鳴る。
しかし僕は構わず鍵盤を叩く。右手も左手もない。胸を破る激情のまま鍵盤を叩く。叩く。
気付くと僕は、無茶苦茶に鍵盤を叩きながら叫ぶように歌っていた。
「いつでも捜してしまう どっかに君の笑顔を
急行待ちの 踏切あたり
こんなとこにいるはずもないのに」
(みく。みく!)
ごめん、ごめん。
仕事だの将来のあれこれだのを、見ないふりで逃げていたことが悪いのではなかった。
逃げたい逃げたいと思い続けていたことが悪かったのだ。
今そこにいる君と真正面から向き合わず、今の自分の正直な気持ちと真正面から向き合わず、言い訳ばかりして逃げていたことが一番悪かった。
逃げて逃げて逃げ続けた結果、僕は、一番大切なものを見失った。
鍵盤を叩き、僕は歌う。まともな声などもう出ない。涙が出て仕方なかった。
「命が繰り返すならば 何度も君のもとへ
欲しいものなど もうなにもない……」
息が切れて声にならなくなってきた。
「君のほかに 大切なものなど」
スローテンポで歌われる最後のフレーズ。
マスターがジンさんが。バロン氏がモモさんが。そしてレイちゃんが他の皆さんが。
いたわるように最後のフレーズを歌ってくれた。
(君のほかに、大切なものなど……)
急に膝が砕け、肩で息をしながら僕はピアノの前でくずおれる。鍵盤に落ちた指が柔らかな不協和音を奏で、やがて静かになった。
顔は、涙と鼻水でぐしゃぐしゃだった。
あたたかな拍手の音を聞いたような記憶はあるが、後は知らない。
墜落するように僕は、心地よい眠りの中へとおちていった。
我に返ったのは自室の万年床の中だった。
窓から差し込む朝日が眩しい。
低くうめきながら身体を起こし、よろよろと布団の上に座る。
枕元に見慣れぬものがある。目をこすり、改めて見直す。
チラシ状の紙で、『喫茶・のしてんてんのお楽しみ会 VOL3』と書かれている。
「あ!」
小さく叫び、あわてて取り上げる。その途端、十センチ四方ほどの真四角の分厚い紙が落ちた。
拾い上げる。紙製のコースターのようだが、絵が描かれてある。
真紅の折り紙で丁寧に折られた薔薇の花。
確かに紙の質感なのに、花の赤はしたたったばかりの血を思わせる鮮やかさ。触れると指が染まりそうな湿り気すら感じられる。
はっと息をのむ。完全に眠気が飛んだ。鉛筆と色鉛筆だけでさらっと描かれてあるが、すごい表現力の作品だ。一瞬、鳥肌が立った。半端とはいえ僕もかつては絵をやっていた、本物か小器用なだけのまがい物かくらいはわかる。
チラシの裏にも何か書かれているらしいのが、窓越しの朝日に透けて見えた。ひっくり返してみる。
『本日は素晴らしい演奏・素晴らしい歌をありがとうございました。
ウチのお楽しみ会は飛び入り参加大歓迎!ですが、ここまですごい、鬼気迫る演奏と歌を飛び入りの方と共有できるとは思っていませんでした。とても嬉しく思っております。
よろしければまたどうぞおいで下さい。ティーソーダの代金は、その時までつけておきますので(笑)。 喫茶・のしてんてん 店主
追伸・絵付きのコースターは初回来店のお客様限定の記念品です。お納め下さい』
僕は茫然と、チラシの裏のメッセージとコースターに描かれた折り紙の薔薇とを交互に見た。見ているうち、ふと何かに呼ばれたような気がした。
コースターを持ったまま僕は立ち上がり、玄関を開けて外へ出た。
朝の空気は甘く澄んでいた。
風は芽吹いたばかりの緑の香り。なんとなく薄荷を思わせる。
理由もわからないまま、胸のどこかが鈍くうずいた。
第二幕了
第二幕、終了致しました。
拙い芝居にお付き合い下さいまして感謝致します。
お楽しみいただけたでしょうか?
今後とも精進をしてゆきたいと思っております。
ありがとうございました。
海の竜宮城で、世間を忘れる時間・・そんな印象がありました。
>和音というより不協和音になった。
>しかしマスターは気にしない。
→ マスターらしい! いや、のしてんてんさまらしい・・そう思いました。
不思議で意外性と涙と汗のある世界・・かわかみ れい様、のしてんてん様、お疲れさまです ♪
第二幕、最後までお付き合い下さいましてありがとうございました。
いつもあたたかいコメント、感謝致します。
今日の大阪は、ちょうどこの物語の舞台のような初夏の陽気。
ティーソーダが恋しくなる気候ですが、そちらは如何でしょうか?
喫茶・のしてんてんは、竜宮城かどうかは作者でさえ言えませんが、日常のすぐ隣にある摩訶不思議空間でしょうね🍀。
その角をひとつ、曲がればいいだけの。
喫茶室こと『ハッピーアート』のコメント欄は、正に喫茶・のしてんてんでしょうね。
sure_kusaさまのおっしゃる通り、懐の深いマスターが主宰しております。
…え?ナンですかマスター?かゆい?
そりゃ心外。孫悟空も、たまにはお師匠をほめますよ~(笑)。
この習性、何とかしないと思いつつ終生修正出来ずに出てきてしまいそう。
そもそもふところが深いというのはいいものじゃないんですから。
大体、エプロンもヒトの2倍はいりますし、風呂敷に至っては、唐草模様四枚つないでも足りません。(大風呂敷を広げるため)
というより、こうなってしまったのは、お師匠様のせいだよ。
一閃一刀に染まれば
誰でもふところが深くなりますからね。
それにしても、無事2幕終了しました。店番やってもらって、随分楽させてもらいました。ありがとう。
角を曲がるたびに、期待の胸のときめく人が増えてくれますように。切に願っております。
ご苦労様でした。
主人公の男性像が今一つ掴めないのです。
ストーリーのフレームになる曲の歌詞に、男性が無理矢理押し込まれている気がします。
そのせいか、恋愛として違和感がどうしても残ってしまい、カタストロフィックに泣崩れる事が余計に思えてならないのです。
わがままで、仕方なく先に折れても、尚、愛しさが募る彼女というよりは、優しさを履き違えて、いくつもの季節をやり過ごしてしまった、『明日の風』がむしろ曲として合うのではないかと手前勝手に思う次第です。
度重なるご無礼をどうかお許し下さい。
第二幕、最後までお付き合い下さいましてありがとうございました。
貴重なご意見、ありがとうございます。
登場人物に違和感があるということは、端的に言って作者の力量不足。
その点を含め、今後修行を続けてゆきます。
『明日の風』という曲は知りませんでした。
取り急ぎ歌詞を検索して、おっしゃっていることに、なるほど、と思いました。
ひとつ勉強になりました、ありがとうございます。
さて、ブレンドコーヒー、持って参りましょうか?