
ユングが死んでもう半月もたつのに、バックルパーの仕事場からは木槌の音が聞こえて来なかった。仕事場は木の削りかすが散らばったままで片付けられる様子もなく、作業台の上には作りかけの手桶がそのまま何日も放って置かれていた。
バックルパーは毎日、作業台の前に座ったままでほとんど手を動かすことがなかった。それほどユングの死はバックルパーにとって痛手だった。
仕事をしなければと思うのだが、いざ仕事場に入るとユングの不審な死が頭をよぎるのだ。しかも、それを確かめるすべもない。
兄弟以上の友と思っていたユング。
ユングの事は何でも分かっていたと思っていたのに、このあいだエミーから聞かされた、盗まれてしまったというユングからの贈り物の事や、ユングのアパートの空き巣の事を考えると、ユングの死はどうも不可解なのだ。
空き巣は何を取ろうとしていたのだろう。部屋の中をめちゃめちゃにして明らかに何かを探そうとしていた形跡がある。その事を警察に言ってみたが、では一体何を探そうとしていたのだねと問い詰められて、答えようもなかった。
ユングがわざわざジルの店に預けたという品物は一体何だったのだろうか。そしてそれをエミーの手から奪っていった犯人、それは空き巣と同じ人物なのかもしれない。
ユングは何か分からない組織のようなものと関係を持っていて、そこでトラブルがあったのかもしれない。組織の大事なものをユングが持ち出して、それを奪い返そうと組織が動いたのではないだろうか。
あるいは、エミーを襲った犯人は、ユングと個人的な関係があって、何か大事なものを奪い合っていたのだろうか。ユングはそれをバックルパーに渡そうとしてジルの店に預けた。それは身の危険を感じての事だったのか。
いずれにしても、バックルパーの知らないユングの暗い一面を見てしまったようで気持が落ち着かないのだ。
ヅウワンはそんなバックルパーを見て、心配でならなかった。友人の死を悲しむのは分かるが、まるで魂までも抜かれてしまったような、あるいはユングがバックルパーの魂をどこかに持って行ってしまったような、そんな思いをどうすることも出来なかった。煮えたぎった湯を頃合いに冷ましてヅウワンは上等のタムを入れた。
「あなた、タムが入りましたわ。」
「ありがとう。」
バックルパーは黙ってタムを飲んだ。
「もう、半月になりますね。」
「そうだな。」
「ちょっと、気分転換でもなさったら。」
「うん。」
「なんだか、心配なの。いつものバックルパーと違うんだもの。何か心配事があるのですか。」
「ありがとう。ユングの事が、どうも整理出来ないものでね、でももう大丈夫だ、こんなことをしていてはいけないと自分で分かるからね。」
「あまり思い詰めちゃだめよ。」
「そうだな。」
「ねえ、バックル、今度音楽会に一緒に行きませんか。」
「音楽会か、そういえば長い間行っていないな。」
「きっといい気分転換になると思うの。」
「そういえば昔は、よく行ったものだが。君を見にね、ヅウワン。」
「楽しかったわね、あのころ。でももう大昔の話よ。それより、あのころの友達で、有名になっている歌手がいるのよ。」
「サンロットだろう。」
「そう、よく覚えているわね。」
「君はソウル、サンロットはソング、あのころそういってみんな騒いだもんだ。」
「そうだったわね。懐かしいわ。」
「もう一度、あの頃に戻りたいとは思わないか。」不意に真顔になって、バックルパーが言った。
「私は今がいいの。あなたがいて、エミーがいる。みんなの心を感じながら、私は今も心の中でソウルをうたっているのよ。絵空事じゃなく、本物のソウルをね。」
「そんなものかね、俺にはわからんが、なんだか俺は皆を不幸にしてしまっているんじゃないか、そう思えるときがあるんだ。そんなときはつらい。」
「優しすぎるのよ、バックル。私はそんなふうに考え込んでいるあなたより、突っ走っているバックルの方が好き。」
「ありがとうヅウワン。」
「それよりバックル、サンロットから招待状が届いたの。だから、今度彼女のコンサートを聞きに行きましょうよ。本当にいい気分転換になると思うの。」
「そうだな。行ってみるか。お前もたまには歌を聴きたいだろうし、」
「よかった。あなたと二人でコンサートなんて、楽しみだわ。」
「ねえ、ヅウワン。」
「はい。」
「何か歌ってくれないか。」
「えっ、ここで、ですか。」
「この仕事場じゃ、気分が出ないかもしれないがな。」
「いいわ、あなたのために取って置きの歌を一つうたいましょう。」
「ありがとうヅウワン。」
ヅウワンは静かに立って、音のない演奏を聞き入るように目を閉じた。地から風がわたり、霧が空に舞い上がるように、ヅウワンの声がバックルパーの心に広がって来た。様々な迷いの絡み付いていた心の糸が、心地よく揺さぶられて解きほぐされるように思われた。バックルパーの心は、ヅウワンの歌声に乗って、無限の空間に飛び出し、その抑揚に身を任せながら漂った。そのとろけるような振動の世界に、すべてのものが、互いに解け合うように集まって、バックルパーの心は、もはや自分という心の領域を失っていくようだった。それは世界と一体になる感覚だった。まるで、母親の胎内に戻されたような感覚。不覚にもバックルパーの目が潤んだ。
風が世界をわたり
私はあなたの過去をわたる
雨が世界を潤し
私はあなたの心を濡らす
太陽は世界を照らし
私はあなたの未来に生きる
大空に小鳥が遊ぶように
夢は今も心の中に生きている
今も心に生まれてる
ゆったりしたリズムがバックルパーの心を包んでいた。ヅウワンが歌い終わってもバックルパーはしばらく目を瞑って座ったままだった。
「いい歌だ。」
「ありがとう、バックル。」
「エミーももう手がかからなくなった。そろそろお前も、自分のやりたいことを始めてもいい頃じゃないか、ヅウワン。お前の歌は、俺一人で聞くにはもったいない。」
「ありがとうバックル、私は無理をしている訳ではないの。歌うときが来れば私もきっとそうするわ。」
バックルパーを励まそうと思ってやって来たのに、なんだか反対に励まされてしまったようにヅウワンは感じた。
歌に未練がない訳ではない。しかしヅウワンは、自分が犠牲になっていると思ったことはなかった。歌よりもエミーの成長して行く姿を見ている方がはるかに面白かったのだ。人の前で歌をうたうよりも、子供のためにうたう方がはるかにソウルの深い世界に触れることが出来るようにも思えたのだ。ヅウワンがバックルパーに言った事は決して嘘ではなかった。しかしまた、天性のソウル歌手というヅウワンの才能が眠っていた訳でもなかったのだ。
エミーに手がかからなくなって、ふとそんな考えが浮かんで来るようになった。そしてつい先日、そんなことを見透かすようなサンロットからの手紙が来たのだ。
そろそろあなたも、歌を始めたらどう。そんな内容の手紙と共に、コンサートの招待状が入っていた。サンロットは今や、この国の歌の女王とたたえられていた。少し高めの声が素晴らしかった。
バックルパーと二人で、サンロットの歌を聞きに行く。ヅウワンは本当にその日が楽しみだった。
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