のしてんてんハッピーアート

複雑な心模様も
静かに安らいで眺めてみれば
シンプルなエネルギーの流れだと分かる

砥石(3)

2016-12-24 | 昔の私とご対面

人間というのは、人の間にある。

わたくし的に言えば、それも空間なのだが、なかなか考えをその方向に持っていくのは難しい。

しかし、こう考えてみたらどうだろう。

 

この世に、たった一人しかいなかったら、ヒトは存在するが、人間は存在しない。

想像をめぐらせてみましょう。

 

私は一人、無人島に立っている。

なぜ立っているのかわからない。

いや、立っているのか寝ているのか、座っているのか、そんなことを考えたこともない。

この世に、私しかいなかったら、

私は自分がどんな姿なのかさえ分からない。

水面に写る自分の姿でかろうじて自分の姿をみることが出来るが、自分の後ろがどうなっているのか、何につながっているのか、私は一生知ることが出来ない。

生きている。体が動く。これはなんだろう。

「私?」そんな意識など生まれようもない。「私」という意識は他人があって初めて成り立つのだから。

この世にたった一人のヒトは、鮮明に意識があっても、自分という思いさえ生まれない。それは必要ないし、意味のない認識だからだ。

ヒトは存在できる。

こうして永遠に一つの命として。

動物たちが集まってくる。

するとヒトは、初めて自分ということばをつくり出す。

自由に動くものたち、その姿をみて、私も同じように動く。動物たちにかかわりなく動くことのできるこの手、この足。それが自分だと認識する。

しかし、どこまで行っても人間は現れない。

 

イブが現れるまで、アダムはヒトのままだ。

 

でももし、イブが現れても、アダムの背中にくっついたままの存在だったら、

つまり、アダムとイブの間に空間がなかったら、それは雌雄同体のヒトであって、人間はうまれないだろう。

アダムとイブの間に空間があって、はじめてヒトは、自分の意識の中に人間をつくりあげる。それは空間の中にイブの姿をみたからだ。

私は相変わらず、己を見ることが出来ないが、イブの姿をみて、己の意識の中に人の姿をつくり出し、それが自分認識につながってゆく。

私たちが自分を人間と思っているのは、

このように、空間があってこそ成り立つ認識なのだ。これを空間の力と言っていいだろう。

 

人間とは、ヒトではなく、人間関係を指している。

そしてそれはそのまま砥石と刀の関係につながって行く。

 

さすれば、刀を研ごうとして、砥石をきれいにしようと思う行為は、人間そのものだろう。

相手を活かして己も生きる。己を活かして相手が生きる。

この関係を人間と呼んでいいのではないだろうか。

 

ヒトはけっして一人で生きているわけではないし、

一人で生きられるものでもない。

人間とならなければならないのだ。

 

メリークリスマス。

一人の聖人が生まれた日。

聖人を一人だけにしてはいけない。2000年以上も一人ぼっちにさせている。

今こそ皆が聖人にならなければならない。

と、思う日にしたい。

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