人間というのは、人の間にある。
わたくし的に言えば、それも空間なのだが、なかなか考えをその方向に持っていくのは難しい。
しかし、こう考えてみたらどうだろう。
この世に、たった一人しかいなかったら、ヒトは存在するが、人間は存在しない。
想像をめぐらせてみましょう。
私は一人、無人島に立っている。
なぜ立っているのかわからない。
いや、立っているのか寝ているのか、座っているのか、そんなことを考えたこともない。
この世に、私しかいなかったら、
私は自分がどんな姿なのかさえ分からない。
水面に写る自分の姿でかろうじて自分の姿をみることが出来るが、自分の後ろがどうなっているのか、何につながっているのか、私は一生知ることが出来ない。
生きている。体が動く。これはなんだろう。
「私?」そんな意識など生まれようもない。「私」という意識は他人があって初めて成り立つのだから。
この世にたった一人のヒトは、鮮明に意識があっても、自分という思いさえ生まれない。それは必要ないし、意味のない認識だからだ。
ヒトは存在できる。
こうして永遠に一つの命として。
動物たちが集まってくる。
するとヒトは、初めて自分ということばをつくり出す。
自由に動くものたち、その姿をみて、私も同じように動く。動物たちにかかわりなく動くことのできるこの手、この足。それが自分だと認識する。
しかし、どこまで行っても人間は現れない。
イブが現れるまで、アダムはヒトのままだ。
でももし、イブが現れても、アダムの背中にくっついたままの存在だったら、
つまり、アダムとイブの間に空間がなかったら、それは雌雄同体のヒトであって、人間はうまれないだろう。
アダムとイブの間に空間があって、はじめてヒトは、自分の意識の中に人間をつくりあげる。それは空間の中にイブの姿をみたからだ。
私は相変わらず、己を見ることが出来ないが、イブの姿をみて、己の意識の中に人の姿をつくり出し、それが自分認識につながってゆく。
私たちが自分を人間と思っているのは、
このように、空間があってこそ成り立つ認識なのだ。これを空間の力と言っていいだろう。
人間とは、ヒトではなく、人間関係を指している。
そしてそれはそのまま砥石と刀の関係につながって行く。
さすれば、刀を研ごうとして、砥石をきれいにしようと思う行為は、人間そのものだろう。
相手を活かして己も生きる。己を活かして相手が生きる。
この関係を人間と呼んでいいのではないだろうか。
ヒトはけっして一人で生きているわけではないし、
一人で生きられるものでもない。
人間とならなければならないのだ。
メリークリスマス。
一人の聖人が生まれた日。
聖人を一人だけにしてはいけない。2000年以上も一人ぼっちにさせている。
今こそ皆が聖人にならなければならない。
と、思う日にしたい。
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