信仰の美しさにであいました。
その声明に共感して、訪問し、紹介させていただくことを了解していただきました。
ただ、静かな信仰のおじゃまになってはいけませんので、紹介はその声明だけにとどめます。
皆様と良き共有がありますことを願いながら。
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病む体に癒しがある
貧しさに満しがある
悲しみに慰めがあり
弱さに助けがある
その度に、「イエスさま」と祈る
その度に、「感謝します」とお交わりを喜ぶ
そして、主の御真実を知った
だから、私はどんな時も幸せ
もし、涙を流していても 心の底には幸せが詰まっている
いつでもそこで、イエスさまにお会いできるから
いつでもそこで、すべての必要が備えられてあるから
「汝ら静まりて 我の神たるを知れ」
受洗前に、年配の方から教わったみことば
あれから・・どんな時も此処に立ち返っていた。
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純粋な信仰を美しいと感じるのは私だけでしょうか。
喜びと悲しみの狭間に立って、
人は我を際立たせて幸せをつかみ取ろうとするか、
謙虚に自分を見つめ、生かされているいのちに感謝するか、
分かれ道を選択しなければならないのです。
選択は出会いによって起こります。
イエス様にであったのか
阿弥陀様にであったのか
お釈迦様、・・・・・
アラーの神々
誰にであったのかという違いで世の中の不幸は、引き起こされているようにも見えます。
宗教を嫌う人々は、その醜さと恐ろしさを覚えているのでしょう。
信仰の道を歩む人々、信仰を懐疑する人びと、
あなたは誰にであって、その道を歩いているのだろう。
私は、紹介した信仰の声明に心がふるえます。人の心を謙虚にし、あたたかく包んでくれる声、
それは、この方が、イエス様を通して自分の真心とであわれたからではないかと思うのです。
その声明の美しさは、イエス様を受け入れる自分の心に、すべてをゆだねることが出来る。そんなであいを体験されたところにあるのだと思います。
本当の信仰は、形を貫いて真実に至ります。
本当は誰にであったのでしょうか。
イエス様にであったのか、
阿弥陀様にであったのか、
お釈迦様、・・・・・
アラーの神々
違うのですね。それらは本当の出会いのための入り口にすぎません。
その門を入ってであう真実、それは己自身なのです。
「汝ら静まりて 我の神たるを知れ」
常に立ち返る場所がここにあるのです。
宗教は入り口
無宗教も無神論も入り口
そして、その入り口を越えたら
人はみな、我の神たる姿と出会うのです。
己と出会い、己の神性に捧げる信仰が実現したら、
入り口論争の愚かしさが見えてくる。
紹介した信仰の声明がどれだけ素晴らしいか。
それはこの声明の「イエス」を、あなたがであったものと置き換えて見るだけでわかります。
自分と出会った人の言葉だと理解できるはずです。
ちょっと前に、大人達にこんな質問をして絶句させた……という若者の話を聞きかじったことがあります。
この若者が、どういうつもりで質問したのかはわかりません。でも、芯から何故ヒトを殺してはいけないのかわからなかった訳ではない、のではないかと。この質問に大人がどう対応するのか、そちらを見たかった……のではないかな?とは思いました。
でも……こんな質問を若者にさせるという事態が、ナニか歪んでいる、感触もしました。
この若者は……自分が『殺す立場』であるのを自明に、質問している印象があります。自分が『殺される』立場である想定をしていないのじゃないか、と。通りかかりのむしゃくしゃした人に殺されても『あ~、そんなこともあるよね』と冷静に死んでいける、そんな精神状態なのでしょうか?
そんなことないでしょうし、仮にそんな精神状態なら、悟り切ってるか狂っているかでしょう。
自分が貴いように、他人も貴い。自分が死にたくないように、他人も死にたくなかろう。
仮に自分が今死にたくても、他人も死にたいとは限らない、だろう。
自明、ではないでしょうか?そう考えるのが。
ここは、戦場ではないのです。殺さなければ殺される、戦場ではないのですから。
それとも……戦場なのでしょうか?
要点が核心すぎて、目が覚めました。
内容が重いので、
記事の方に書かせてもらいました。
大変な世の中です。