徒然なか話

誰も聞いてくれないおやじのしょうもない話

民謡「おてもやん」余話

2019-04-25 22:41:51 | 音楽芸能
 先日、と言っても数ヶ月前になるのだが、祇園橋たもとのポケットパークの前を歩いて通りかかったので、久しぶりにおてもやん記念銅像をしばらく眺めた。銅像下の説明板が以前見た時より読みやすくなっていたので、多分修復されたのだろう。この銅像が出来たのは2007年だったと記憶しているが、12年も風雨に曝されるとあちこち傷んでくるのだろう。説明文を読んでいて「エッ!」と新しい発見があった。今さらの感なきにしもあらずだが。



 説明版には次のように書かれている。

▼おてもやんと永田いね
 江戸末期の米屋町三丁目に、「糀屋」というみそ製造所があった。この永田家には細川家に多額の御用金を献納して、名字帯刀や家紋三柏の使用を許されていた。
 永田いねは、元治元年の年の瀬も迫った十二月二十四日、「糀屋」の主人永田大八の一人娘として出生した。母・辰さんの希望で、四才の時から踊りを習い始め、やがて琴・三味線・笛・太鼓等幅広く芸事に精通していった。
 井芹川で舟遊びしていて唄ったのが、横手の細川邸まで聞こえ、殿様(護久公)の所望によって舞や唄を披露し、脇差を戴いたこともある。
 明治十五年には、亀甲屋嵐亀乃助と名乗り、女芝居一座を組んで、大阪・名古屋方面まで巡業に出た。一座を解散した後は、沢山の弟子をかかえて踊りや三味線・唄の師匠としていたが、その稽古は厳しく、少しでも間違えると扇子や煙管でビシビシ叩いて特訓をしていたので、「気〇がい師匠」のあだ名があった。
 民謡「おてもやん」は、いねが春日の五反で師匠をしていた頃作られたもので、この節が名古屋さんざい(名古屋甚句)によく似ておるのは、名古屋巡業の際に影響を受けたのであろう。


 これは、熊本市立五福小学校が創立100周年を迎えた1977年に発行された記念誌に書かれている文章である。
 今さらながら興味をそそられたのは、最後の「この節が名古屋さんざい(名古屋甚句)によく似て・・・」のくだりである。おてもやんの節が名古屋甚句や金来節からの系統であることは既知であるが、「名古屋さんざい」とはいったい何?名古屋甚句の元唄あるいは別称なのか?そもそも「さんざい」とは「散財?」あるいは単なる囃子言葉なのか。もとをたどれば、江戸時代末期の「そうじゃおまへんか節」が源流だという説もある。新しい発見につながるかもしれないので、また文献等で調べてみよう。