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今日、千葉城町から磐根橋のたもとまで歩いて来た時、ふと思いついて下の県道への曲がりくねった坂道を降り始めた。途中で県道の向こう側に錦坂と暗渠化された坪井川の旧流路が見えたのでしばらく眺めていた。明治時代の一時期、ここが港だったなんて気づく人はまず居るまい。
父の教員仲間だったI先生が師範学生時代の昭和10年にまとめた京町についての研究レポートがある。各種文献や地区の長老の話などをまとめたものであるが、その中にこんな記述がある。
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明治7年に錦山神社(後の加藤神社)が城内から新堀に遷座した時、下を流れる坪井川の舟客が錦山神社に登るために付けられたのが錦坂なのであるが、ほぼ同時に京町・新堀に公許の遊郭が開設され、京町・新堀は「聖と俗」混淆の町と化したのである。しかし明治10年に起きた西南戦争の兵火によって錦山神社は社殿を焼失、京町遊郭も焼失して再建を断念した。舟客が陸続と舟付けした新堀の港もわずか3年余という短い繁栄に終ったのである。
※右の写真は坪井川園遊会での舟運の再現イベント
都市はどんどん変貌しますよね。
そのような資料をもとに歴史を偲ばれるのって羨ましいものです。
>明治10年に起きた西南戦争の兵火によって錦山神社は社殿を焼失、京町遊郭も焼失して再建を断念した。
そうでしたか~。
太平洋戦争の前に西南戦争もあったんですね。
町は焼かれて再建しては新しい街も昭和20年に焼夷弾攻撃を受けてきたのですか。
なんだかウクライナやハマス✕イスラエルみたいなことが日本各地でも起こったと想うと恐ろしくなってきました。
私が生きてきた今までの平和が奇跡的にも思えてきましす。
また、話がそれてしまいました。
有難うございました。
焼夷弾が落ちてくるのは命あっての物種で、あきらめもつくでしょうが、西南戦争は鎮台兵が火を点けてまわっていたといいますから腹も立ちますよね。
今の世界状況を見ますと人間の愚かさを感じてしょうがないですね。