昨夜のNHK総合「歴史秘話ヒストリア」は多くの熊本人が感涙にむせんだことだろう。
熊本地震で甚大な被害を受けた熊本城が、築城以来、度重なる大地震に見舞われ、その都度、復興を遂げてきた歴史がよくわかった。これまで、熊本城を築城した加藤清正公だけにスポットが当てられることが多かったが、細川忠利公を初めとする代々の細川家のお殿様たちによって240年の間、お城が守られてきたことが紹介されたことはとても喜ばしい。
番組の中では触れられなかったが、それを象徴するのが、本丸御殿を支える「二様の石垣」である。清正公の時代に作られた石垣と細川忠利公の時代に作られた石垣の違い。同じ「打ち込みハギ」ながら清正公の石垣の反り、忠利公の算木積みなどの違いはいつ見ても興味深い。
西南戦争における熊本城攻防戦で敗れた西郷隆盛が「わしは官軍に負けたのではなく、清正公に負けたのだ」と言ったというエピソードが紹介されていたが、薩軍ナンバー2には桐野利秋という熊本鎮台司令官を務め、熊本城を知り尽くした人がいたわけで、西郷さんは攻めきれないことは予め分っていたのかもしれない。
ともあれ、先人たちが何度も苦難を乗り越えて、熊本城を復興させてきた歴史を鑑みると、われわれの世代も復興させないわけにはいかない。
▼二様の石垣(手前が清正公の時代、奥が忠利公の時代の増設)
▼二様の石垣の上には本丸御殿の中庭があります。(2012.4.7 桜の宴より ザ・わらべ)
熊本地震で甚大な被害を受けた熊本城が、築城以来、度重なる大地震に見舞われ、その都度、復興を遂げてきた歴史がよくわかった。これまで、熊本城を築城した加藤清正公だけにスポットが当てられることが多かったが、細川忠利公を初めとする代々の細川家のお殿様たちによって240年の間、お城が守られてきたことが紹介されたことはとても喜ばしい。
番組の中では触れられなかったが、それを象徴するのが、本丸御殿を支える「二様の石垣」である。清正公の時代に作られた石垣と細川忠利公の時代に作られた石垣の違い。同じ「打ち込みハギ」ながら清正公の石垣の反り、忠利公の算木積みなどの違いはいつ見ても興味深い。
西南戦争における熊本城攻防戦で敗れた西郷隆盛が「わしは官軍に負けたのではなく、清正公に負けたのだ」と言ったというエピソードが紹介されていたが、薩軍ナンバー2には桐野利秋という熊本鎮台司令官を務め、熊本城を知り尽くした人がいたわけで、西郷さんは攻めきれないことは予め分っていたのかもしれない。
ともあれ、先人たちが何度も苦難を乗り越えて、熊本城を復興させてきた歴史を鑑みると、われわれの世代も復興させないわけにはいかない。
▼二様の石垣(手前が清正公の時代、奥が忠利公の時代の増設)
▼二様の石垣の上には本丸御殿の中庭があります。(2012.4.7 桜の宴より ザ・わらべ)
今さらながら若い頃福岡に住んでいながら熊本城をしっかり見ていなかったことを残念に思いました。
あのような巨大な作りを徐々に復元していっってたわけですね。
篤志家もいれば、個人の寄付もあって地元の方とそれだけ心が繋がっていたことにも今回の被害の残念さの一端がわかったような気がしました。
以前にFUSAさんが書いてあった城の七転び八起きのような変遷も少し伺い知れた気がしました。
どなたかが、ブログで福岡城跡を自慢していたくらいですから(笑)、城と市民の誇りの大きさというのは小規模であったっても深いと思います。
同じNHKながら「ぶらタモリ」の描き方は相当落ちる気がしましたね。
鉄壁と表現するか「やりすぎ」なんて言葉を使うか、本当にNHKか?と感じますね。
清正公が豊臣秀頼を迎えるつもりだったというのも興味深いお話でしたね。
熊本の場合は特に清正公人気と一体となっている感じです。
ブラタモリはあくまでもタモリ目線で好みそうなところを絞って掘り下げていますから、見る人で評価は分かれるところですね(笑)
本丸御殿の「昭君の間」を見ますと、豊臣秀頼を迎えるつもりだったという話もうなづける気がします。
残念なことに大坂の陣の前に清正は亡くなってしまいますが、もし、あと5年でも生きていたら、歴史は違った展開になっていたかもしれませんね。