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つくられた日露戦争神話の功罪・・・半藤利一・戸髙一成共著「日本海海戦かく勝てり」

2025年03月03日 06時54分03秒 | 記録しておきたいヒト・モノ・本・映画
司馬遼太郎原作のNHKドラマ「坂の上の雲」の再放送は、昨夜にクライマックスの「日本海海戦」が放映された。
東郷平八郎率いる連合艦隊は、対馬沖でロシアのバルチック艦隊を捕捉し、乾坤一擲のT字戦法(Togo Turn)で世界海戦史に類をみない完勝をおさめたのが日露戦争の「日本海海戦」。
その功績で東郷は軍神とされ、欧米の海軍軍人からも称賛された、というのが司馬史観でイメージつけられた「日本海海戦」なのだが・・・。
 
ところが最新の研究では、実際にはT字戦法をしておらず、同じ進路で大砲をうちあう「同航戦」であったとする解釈が有力だ。
T字戦法はなかったとする、本書を出版した時の半藤利一さんと戸髙一成さんは、「無敵皇軍」神話を信奉する保守層から罵詈雑言を浴びて大変だったそうだw
 
実際の「日本海海戦」での東郷さんは、三笠の艦橋で「当たった!また当たった!」と子供のように喜んでいたそうで、司馬史観による古武士然とした寡黙な東郷さんとは、ずいぶん違っていたらしい。
砲弾飛び交うなかでも東郷さんは三笠艦橋で不動の姿勢で立ち続け、海戦後に足の形だけ濡れてなかったとする逸話もあるが、「天気晴朗なれども波高し」の海況での砲撃戦だから、こちらも如何なものか・・・ヤマダ探偵の感想w
 
「公刊戦史」は事実そのものを書いているとは限らず、不都合は書き換えて美談になるのは世の常なのだが、日露戦争の後も作戦をミスリードした上級将校たちが、頻繁に公刊史編纂室に出入りしては、書き直しを強要していたそうだ。
 
それら捏造された「神話」を成功事例として、40年後の昭和の軍人たちが広い太平洋で「一撃主義」と「大艦巨砲主義」に陥ったのはまずかった。
多くの海軍軍人は、日露戦争の時のように西太平洋でアメリカ艦隊を待ち伏せし、減滅させながら日本近海で艦隊決戦を目論んでいた。しかし広大な海域で覇権争いをする太平洋戦争では、規模と兵器、戦術も格段にちがった。
 
日露戦争の勝利は、当時の指導者たちが戊辰の役を経験したリアリストばかりで、開戦前から陸軍は6分の勝ち、海軍は完勝した時点でアメリカに和平交渉の仲介を頼むなど、「戦争の終わらせ方」が綿密に練り上げられていたことが、最大の勝因だろう。
 
その点、昭和の戦争は、陸軍の暴走でおこった「満州事変」が「日中戦争」「太平洋戦争」と、なし崩しに発展していったので、「戦争の終わらせ方」まで考えていた人はごく少数派。
最晩年の東郷さんは、対米戦に好戦的な艦隊派に担がれて三国同盟締結の推進のシンボル的存在となった。日露戦争のころのように政治不介入の立場を守ってくれたら格好いいのだが。
 
ちなみに三国同盟の締結は対英米戦は回避できず日本の敗北は必至と強弁に反対した海軍軍人の代表が、当時は海軍次官だったリアリストの山本五十六さんで、海軍省勤務では陸軍と右翼から暗殺される危険があり、海の上なら安全と連合艦隊司令長官に転任させられた経緯がある。
 
明治のころとちがい、陸海軍とも場当たり的に張り合い、海軍内でさえも好戦的な艦隊派と対米戦回避の軍縮派が反目しあい、一枚岩ではなかった。
勝てない戦に「旺盛な敢闘精神こそ鬼人これを避く」と無謀に突入させた要因に、大国ロシア相手に勝利した日露戦争の成功体験もあった。
 
禍福は糾える縄の如し・・・。