(2020年8月中旬訪問)
前回記事では東京の猛暑から逃れるべく中禅寺湖畔の金谷ホテルに泊まったときの記録を取り上げましたが、今回もやはり避暑目的で栃木県の高いところへ訪ねた際のことを書き綴ってまいります。といっても、前回記事の中禅寺金谷ホテルは老舗のリゾートホテルでしたが、今回取り上げる三斗小屋温泉「大黒屋」はいわゆる山小屋であり、いろんな意味で金谷ホテルとは対照的な存在です。
那須岳の山中に湧く三斗小屋温泉は、登山と温泉の両面を楽しめる点で私が大好きな温泉のひとつです。当地には2軒の宿があり、拙ブログでは以前に「煙草屋旅館」を取り上げています(以前の記事はこちら)。今回取り上げる「大黒屋」は、「煙草屋旅館」のような露天風呂こそ無いものの、車でアクセスできない深い山の中とは思えないほど立派な建物や佇まいが評価を得ています。
三斗小屋温泉へアクセスするには登山道を歩くしかありません。そのルートにはいくつかあり、代表的なのが那須湯本方面から車や路線バスで茶臼岳ロープウェイへ乗り継ぎ、茶臼岳から三斗小屋温泉へ向かうものです。ロープウェイで高さを稼げ、またトレッキング道もよく整備されているので、登山に慣れていない方にはもってこいのルートです。でもそのメジャーコースですと私にとっては退屈なので、今回はどちらかといえばマイナーな、沼原から三斗小屋宿跡を経由して那須岳の西側を上がるルートを選択することにしました。
【沼原駐車場 標高1275m】
まずは沼原駐車場に自分の車を止め、登山の支度を調えます。この日は8月中旬。下界は灼熱地獄の猛暑でしたが、下界から沼原駐車場へ上がるだけで気温は25℃まで下がっていました。これだけでも十分快適・・・と言いたいところですが、辺りにはアブが飛び回っており、特に車の排気ガスと熱を察知して車に群がり、バチバチと音を立てながら車に体当たりしてきます。ドアを開けるとすぐに侵入してきますので、即座に閉めて無駄に開けないようにし、車からちょっと離れて登山の準備をしました。
沼原調整池の池畔を湿原方向へ北上し、途中の分岐で道標が示す方向へと進んでいきます。
木々の中を比較的平坦な道が伸びているのですが、路傍で古いお地蔵さんがこちらを見ており、この道が単なるトレッキングコースではないことがわかります。
更に進むと笹薮が深くなり、道も狭くなり、徐々に登山道らしい雰囲気が出てきました。
そして上画像の石仏あたりから一気に下り勾配が急になり、本格的な登山道になります。この石仏をよく見ますと、なんと「天保」と刻まれているではありませんか。天保と言えば徳川11代から12代将軍の時代ですね。つまりこの道は、江戸時代に既に人々が往来していたわけです。それもそのはず、この道は江戸期に整備された氏家と会津を結ぶ「会津中街道」の跡らしく、この石仏から先の急な坂は麦飯坂と称されているんだとか。
ジグザグに傾斜を下る麦飯坂が終わると、丸太を組んだ橋で沢を渡り・・・
江戸時代の人々はこんな険しい道を足駄掛けで往来していたのか・・・往時の人々の苦労を偲び、せせらぎの音に心を潤わせながら、ひと気が全くない小径を先へ進みます。
【湯川 標高955m】
那珂川の最上流部に当たる湯川を跨ぎます。なお、この川は後ほどもう一度わたります。
石垣が組まれた箇所を進むと・・・
車一台なら余裕で走れる林道に出ました。林道との角には立派な道しるべが建っており、三斗小屋へ向かうならば、ここを右折して北東方向へ上っていけばよいとのこと。
林道があるなら、はじめからそこを歩けば良さそうなものですが、この林道は沼原から山をひとつ越えた西側で水をたたえる深山湖付近から伸びており、那須岳を周遊登山するなら遠回りになってしまうため、多少険しくても沼原から麦飯坂を経由するのが一般的です。
歩きやすい林道をどんどん進みます。歩きやすいとはいえ、登り傾斜がそこそこあるので、いつの間にか腰が重くなり、汗も止まらなくなっていました。それにしても、お盆休みだというのに、沼原湿原の分岐点から麦飯坂を経由してここまでの間、誰一人ともすれ違っていません。ロープウェイがあっていつも賑わっている表那須と比べ、この裏那須サイドが如何にマイナーであるかを実感しました。
林道を歩いていると、突如薄暗い木陰の中でたくさんのお墓や石仏、そして馬頭観音が並ぶ光景に出くわしました。この墓地の前を通過すれば、間もなく三斗小屋宿跡です。
先ほどこの道は「会津中街道」の跡であると申し上げましたが、三斗小屋宿は幕末の戊辰戦争で官軍と会津藩が衝突する激戦地になり、会津藩士に多数の犠牲者が出てしまいました。林道に沿って立ち並んでいるのは、この戦死者達のお墓なんだそうです。そして戊辰戦争から150年が経った現在でもその子孫がお墓参りにいらっしゃっているそうです。かく言う私も会津の血を引いておりますので(それゆえ無闇矢鱈に反骨してしまうのですが)、一旦立ち止まり、墓前で手を合わせました。
なお上画像に写っている馬頭観音は明治17年のもの。三斗小屋宿の集落は戊辰戦争で大半が消失してしまいましたが、その後再興されたそうですから、馬頭観音も再興の際に建てられたのでしょう。
【三斗小屋宿跡 標高1095m】
「会津中街道」の宿場のひとつだった三斗小屋宿の跡までやってきました。路傍には古い石灯篭が立っており、往時を偲ばせてくれます。当地はいまでも定期的に整備されているらしく、草が刈られて広々としていました。
道に沿って当地に関する説明板や記念碑などが立てられています。また、当地からあると思しき手水鉢からは清らかな水が勢いよく溢れ出ており、試しに飲んでみると、キリリと冷えた清冽な喉越しが非常に美味しく、ここまでの疲れが一気に消え去りました。
江戸時代に会津藩によって整備された会津中街道は、道の険しさによって早くも江戸中期には脇街道扱いされてしまうのですが、三斗小屋宿は白湯山信仰の修験道者を集め、そこそこ賑わっていたんだとか。
その後、幕末の戊辰戦争に巻き込まれて集落は烏有に帰したものの、明治期に再興が図られ、銅山開発によって当地で銅の精錬も行われるようになりました。しかしながら、明治41年に大火が発生して集落全戸が消失。昭和32年に最後の1戸が転出して、以降当地は誰も住まない無人の地になってしまいいました。
先ほど三斗小屋宿は白湯山信仰の修験道者を集めて賑わったと申し上げました。たしかに集落内の石灯篭や鳥居には「白湯山」と書かれています。この白湯山とは一体なのか…。
野湯マニアの方ならご存知かと思いますが、那須岳(茶臼岳)の西側山腹には「御宝前の湯」という野湯があり、ドーム状の丸く赤茶けた丘の上を、湧出した温泉が滝のように流れ落ちています。この野湯の存在は既に江戸時代から知られており、温泉湧出地帯を出羽三山の「湯殿山御宝前」に見立て、この一帯を「白湯山」と名付けることで、修験道の信仰地にしたようです。そして、往時の三斗小屋宿は、白湯山御宝前へ向かう修験道者の山麓ベースだったわけです。なお、那須における修験道信仰が廃れてしまった現在、「御宝前の湯」へ向かう道は消えてしまい、もし行きたければ登山道の途中から道を逸れて藪漕ぎせざるを得ません。
なお、当地には「山之神社」というお社も建てられています。集落の鎮守だったのでしょうか。
本当はこの広々とした宿場跡でゆっくり休憩したかったのですが、アブが鬱陶しく、立ち止まるとすぐに襲ってくるので、仕方なく足早にこの地を去ることにしました。
三斗小屋宿跡を抜けて再び深い木立の中に入り、道に沿って川の方へ下ると「那珂川源流」の碑が立っています。栃木・茨城の両県を流れる一級河川の那珂川は、茨城県大洗付近で太平洋に注いでいますが、その源はこのあたりなんですね。
碑の裏に架かる橋で川を渡ります。那珂川源流と言っていますが、地図によれば目の前を流れる川は湯川であり、さきほど麦飯坂を下ってちょっと進んだところで渡った川と同じです。渓流の水はとても清らか。心が洗われます。
さて、ここから本格的な登りがはじまります。
小さな沢を越えたり・・・
ひたすら深い緑の中を進んだり・・・。
急な登りがひたすら続きますが、さすがに三斗小屋温泉関係の方々が上り下りする道だけあって、きちんと整備されており、危険な箇所や迷いやすい箇所は皆無です。
会津中街道の難所である福島県境の大峠へ向かう道の分岐点を過ぎたら・・・
建物が見えてきて・・・
【三斗小屋温泉 標高1460m】
今宵のお宿、大黒屋に到着しました。三斗小屋宿跡から一気に365メートル上がってきたんですね。さすがにここまで上がると空気がヒンヤリしていました。
次回記事ではお部屋やお風呂の様子を取り上げます。
次回に続く。
前回記事では東京の猛暑から逃れるべく中禅寺湖畔の金谷ホテルに泊まったときの記録を取り上げましたが、今回もやはり避暑目的で栃木県の高いところへ訪ねた際のことを書き綴ってまいります。といっても、前回記事の中禅寺金谷ホテルは老舗のリゾートホテルでしたが、今回取り上げる三斗小屋温泉「大黒屋」はいわゆる山小屋であり、いろんな意味で金谷ホテルとは対照的な存在です。
那須岳の山中に湧く三斗小屋温泉は、登山と温泉の両面を楽しめる点で私が大好きな温泉のひとつです。当地には2軒の宿があり、拙ブログでは以前に「煙草屋旅館」を取り上げています(以前の記事はこちら)。今回取り上げる「大黒屋」は、「煙草屋旅館」のような露天風呂こそ無いものの、車でアクセスできない深い山の中とは思えないほど立派な建物や佇まいが評価を得ています。
三斗小屋温泉へアクセスするには登山道を歩くしかありません。そのルートにはいくつかあり、代表的なのが那須湯本方面から車や路線バスで茶臼岳ロープウェイへ乗り継ぎ、茶臼岳から三斗小屋温泉へ向かうものです。ロープウェイで高さを稼げ、またトレッキング道もよく整備されているので、登山に慣れていない方にはもってこいのルートです。でもそのメジャーコースですと私にとっては退屈なので、今回はどちらかといえばマイナーな、沼原から三斗小屋宿跡を経由して那須岳の西側を上がるルートを選択することにしました。
【沼原駐車場 標高1275m】
まずは沼原駐車場に自分の車を止め、登山の支度を調えます。この日は8月中旬。下界は灼熱地獄の猛暑でしたが、下界から沼原駐車場へ上がるだけで気温は25℃まで下がっていました。これだけでも十分快適・・・と言いたいところですが、辺りにはアブが飛び回っており、特に車の排気ガスと熱を察知して車に群がり、バチバチと音を立てながら車に体当たりしてきます。ドアを開けるとすぐに侵入してきますので、即座に閉めて無駄に開けないようにし、車からちょっと離れて登山の準備をしました。
沼原調整池の池畔を湿原方向へ北上し、途中の分岐で道標が示す方向へと進んでいきます。
木々の中を比較的平坦な道が伸びているのですが、路傍で古いお地蔵さんがこちらを見ており、この道が単なるトレッキングコースではないことがわかります。
更に進むと笹薮が深くなり、道も狭くなり、徐々に登山道らしい雰囲気が出てきました。
そして上画像の石仏あたりから一気に下り勾配が急になり、本格的な登山道になります。この石仏をよく見ますと、なんと「天保」と刻まれているではありませんか。天保と言えば徳川11代から12代将軍の時代ですね。つまりこの道は、江戸時代に既に人々が往来していたわけです。それもそのはず、この道は江戸期に整備された氏家と会津を結ぶ「会津中街道」の跡らしく、この石仏から先の急な坂は麦飯坂と称されているんだとか。
ジグザグに傾斜を下る麦飯坂が終わると、丸太を組んだ橋で沢を渡り・・・
江戸時代の人々はこんな険しい道を足駄掛けで往来していたのか・・・往時の人々の苦労を偲び、せせらぎの音に心を潤わせながら、ひと気が全くない小径を先へ進みます。
【湯川 標高955m】
那珂川の最上流部に当たる湯川を跨ぎます。なお、この川は後ほどもう一度わたります。
石垣が組まれた箇所を進むと・・・
車一台なら余裕で走れる林道に出ました。林道との角には立派な道しるべが建っており、三斗小屋へ向かうならば、ここを右折して北東方向へ上っていけばよいとのこと。
林道があるなら、はじめからそこを歩けば良さそうなものですが、この林道は沼原から山をひとつ越えた西側で水をたたえる深山湖付近から伸びており、那須岳を周遊登山するなら遠回りになってしまうため、多少険しくても沼原から麦飯坂を経由するのが一般的です。
歩きやすい林道をどんどん進みます。歩きやすいとはいえ、登り傾斜がそこそこあるので、いつの間にか腰が重くなり、汗も止まらなくなっていました。それにしても、お盆休みだというのに、沼原湿原の分岐点から麦飯坂を経由してここまでの間、誰一人ともすれ違っていません。ロープウェイがあっていつも賑わっている表那須と比べ、この裏那須サイドが如何にマイナーであるかを実感しました。
林道を歩いていると、突如薄暗い木陰の中でたくさんのお墓や石仏、そして馬頭観音が並ぶ光景に出くわしました。この墓地の前を通過すれば、間もなく三斗小屋宿跡です。
先ほどこの道は「会津中街道」の跡であると申し上げましたが、三斗小屋宿は幕末の戊辰戦争で官軍と会津藩が衝突する激戦地になり、会津藩士に多数の犠牲者が出てしまいました。林道に沿って立ち並んでいるのは、この戦死者達のお墓なんだそうです。そして戊辰戦争から150年が経った現在でもその子孫がお墓参りにいらっしゃっているそうです。かく言う私も会津の血を引いておりますので(それゆえ無闇矢鱈に反骨してしまうのですが)、一旦立ち止まり、墓前で手を合わせました。
なお上画像に写っている馬頭観音は明治17年のもの。三斗小屋宿の集落は戊辰戦争で大半が消失してしまいましたが、その後再興されたそうですから、馬頭観音も再興の際に建てられたのでしょう。
【三斗小屋宿跡 標高1095m】
「会津中街道」の宿場のひとつだった三斗小屋宿の跡までやってきました。路傍には古い石灯篭が立っており、往時を偲ばせてくれます。当地はいまでも定期的に整備されているらしく、草が刈られて広々としていました。
道に沿って当地に関する説明板や記念碑などが立てられています。また、当地からあると思しき手水鉢からは清らかな水が勢いよく溢れ出ており、試しに飲んでみると、キリリと冷えた清冽な喉越しが非常に美味しく、ここまでの疲れが一気に消え去りました。
江戸時代に会津藩によって整備された会津中街道は、道の険しさによって早くも江戸中期には脇街道扱いされてしまうのですが、三斗小屋宿は白湯山信仰の修験道者を集め、そこそこ賑わっていたんだとか。
その後、幕末の戊辰戦争に巻き込まれて集落は烏有に帰したものの、明治期に再興が図られ、銅山開発によって当地で銅の精錬も行われるようになりました。しかしながら、明治41年に大火が発生して集落全戸が消失。昭和32年に最後の1戸が転出して、以降当地は誰も住まない無人の地になってしまいいました。
先ほど三斗小屋宿は白湯山信仰の修験道者を集めて賑わったと申し上げました。たしかに集落内の石灯篭や鳥居には「白湯山」と書かれています。この白湯山とは一体なのか…。
野湯マニアの方ならご存知かと思いますが、那須岳(茶臼岳)の西側山腹には「御宝前の湯」という野湯があり、ドーム状の丸く赤茶けた丘の上を、湧出した温泉が滝のように流れ落ちています。この野湯の存在は既に江戸時代から知られており、温泉湧出地帯を出羽三山の「湯殿山御宝前」に見立て、この一帯を「白湯山」と名付けることで、修験道の信仰地にしたようです。そして、往時の三斗小屋宿は、白湯山御宝前へ向かう修験道者の山麓ベースだったわけです。なお、那須における修験道信仰が廃れてしまった現在、「御宝前の湯」へ向かう道は消えてしまい、もし行きたければ登山道の途中から道を逸れて藪漕ぎせざるを得ません。
なお、当地には「山之神社」というお社も建てられています。集落の鎮守だったのでしょうか。
本当はこの広々とした宿場跡でゆっくり休憩したかったのですが、アブが鬱陶しく、立ち止まるとすぐに襲ってくるので、仕方なく足早にこの地を去ることにしました。
三斗小屋宿跡を抜けて再び深い木立の中に入り、道に沿って川の方へ下ると「那珂川源流」の碑が立っています。栃木・茨城の両県を流れる一級河川の那珂川は、茨城県大洗付近で太平洋に注いでいますが、その源はこのあたりなんですね。
碑の裏に架かる橋で川を渡ります。那珂川源流と言っていますが、地図によれば目の前を流れる川は湯川であり、さきほど麦飯坂を下ってちょっと進んだところで渡った川と同じです。渓流の水はとても清らか。心が洗われます。
さて、ここから本格的な登りがはじまります。
小さな沢を越えたり・・・
ひたすら深い緑の中を進んだり・・・。
急な登りがひたすら続きますが、さすがに三斗小屋温泉関係の方々が上り下りする道だけあって、きちんと整備されており、危険な箇所や迷いやすい箇所は皆無です。
会津中街道の難所である福島県境の大峠へ向かう道の分岐点を過ぎたら・・・
建物が見えてきて・・・
【三斗小屋温泉 標高1460m】
今宵のお宿、大黒屋に到着しました。三斗小屋宿跡から一気に365メートル上がってきたんですね。さすがにここまで上がると空気がヒンヤリしていました。
次回記事ではお部屋やお風呂の様子を取り上げます。
次回に続く。