宮崎県えびの市の吉田温泉は、かつては界隈随一の栄華を誇っていたそうですが、1968(昭和43)年に発生したえびの地震によって源泉が枯れてしまい、その後ボーリングを試みるもあえなく失敗。辛うじて残った源泉は湧出量が少なく温度も低下してしまい、その後加久藤盆地で次々に掘削された新しい温泉群に客足を完全に奪われ、いまでは閑古鳥が啼いているかすら疑わしいほど寂れた温泉街へと零落してしまい、現在ではわずかな湯治宿が細々と営業しています。哀愁漂う風景に心惹かれる私は某日、立ち寄り入浴をすべく、この吉田温泉に立ち寄ってみました。
今回取り上げるのは温泉街というか集落の北側に位置する「鹿の湯」さんです。当地では共同浴場を兼ねた2軒の湯治宿があり、一軒はこの「鹿の湯」、もう一軒は「亀の湯」と称しておりまして、動物を冠する名称は地方の温泉地ならではの牧歌的な文化が感じられますが、亀に対するのが鶴ではなく鹿というのが、ちょっと変わっていますよね。いや、私が無知なだけで当地にも鶴が存在するのかもしれません。
鄙びたお宿であることは事前に調べていたので、探しにくいことは覚悟していましたが、メインの通り沿いにあるにもかかわらず、看板が無い上に建物自体が繁った木で姿を半分近く隠していたので、その存在に気付かず道を何度も往復して目の前を通り過ぎてしまいました。朝9時頃、やっとのことで探し当てて訪うと、玄関前では宿のご主人が枝葉の茂った木を剪定している最中。入浴をお願いすると「まだ十分に温まってないけどどうぞ」とお風呂へ案内してくださいました。辺りには煙が立ち込めていましたが、この理由は後述します。
宿泊棟の前を覆い隠すように繁る荒れた植栽が物語るように、こちらのお宿は営業していないのではないかと訝しく思えるほど相当草臥れていますが、離れの湯屋は輪をかけてボロボロでした。窓ガラスは破け、壁の羽目板は外れ、入口の戸も外れたまんまですが、それでも決して廃墟ではありません。
先述のように吉田温泉は、えびの地震以降、源泉の温度はガクンと下がり、湧出量も激減してしまったそうです。このため当地では入浴に適するよう源泉を加温しているのですが、重油やガスなどのボイラーや湯沸かし器で加温するのが一般的にもかかわらず、「鹿の湯」ではボイラーを導入せず、粉砕した建築廃材(木材)を炊いて加温しているのです。薪でお湯を沸かす銭湯なら現在でもまだ残っていますが、重油にせよ薪にせよ、燃料を大量に燃やす施設は煙突で煙を上空へ逃がしますが、どういうわけかこちらには煙突がありません。ほとんど焚火状態なのです。このため辺りには朦々と煙が立ち込めていました。
外れっぱなしの戸から中へ入ると、そこで構えていたのは、思いっきり煤けて使われたような形跡が感じられない玄関でした。一応料金入れもありますが、そこから人間の躍動は感じられません。壁に掲げられている温泉分析表は昭和36年のものです。東京オリンピックの三年前ですね。浴用の効能として「ヒステリー」という前時代的名称が列挙されていることに驚いてしまいました。
不肖ながら私も鄙びた温泉には百戦錬磨のつもりでしたが、さすがに廃墟然としたこの光景には一瞬たじろぎ、三和土で靴を脱いでよいものか判断に迷いましたが、不安と反比例するように好奇心も高まり、しかもご主人があまりに朗らかにすすめてくれるものですから、この笑顔を信頼して突入を決意することに(ちょっと大袈裟かな)。
廃墟のようなこの陋屋で唯一まともに時計の針が動いていそうな空間が脱衣所でした。といってもプラスチックの脱衣籠が場違いに鮮やかな色を放っていたのでそう見えただけなのかもしれません。階段を下りて浴室へ。
浴室には浴槽がふたつありましたが、片方は空っぽでした。画像を見ますと扉が斜めに傾いていますが、時空がゆがんでいるわけでも、特殊相対性理論を画像化しているわけでもありません。単に建物が傾いでいるだけです。一応内湯ですが、穴が開いた壁は補修されずにそのままですから、外気が遠慮なく侵入してくるので、ある意味で半露天風呂かもしれません。また浴室の片隅にはゴミが放置されっぱなし。床は温泉成分が付着しっぱなしで磨いたような形跡が無くカピカピに乾いています。やはり普段は使われていないのかな、なんて思ってしまいました。
上がり湯用の湯溜りもありましたが、量が少ないので、今回は浴槽から直接掛け湯しました。
浴槽には焚火同然で沸かされているお湯がチョロチョロと注がれています。お湯はやや橙色がかった半透明の薄濁り、弱い金気の味と匂いが感じ取れましたが、加温のみで加水はもちろん循環も行われていない(できるはずもない)にも関わらず、知覚面はやや弱めで、若干鈍っているような感触すらありました。また、朝早く訪れてしまったためか、加温そのものも適温には届いておらず、かなりぬるい状態での湯あみとなってしまいました。外ではものすごい煙なんですが、不完全燃焼なのか熱量が足りてないんですね…。でもご主人が仕事の手を休めて案内してくれたんですから、文句は言えません。
私が訪問してから15分後には地元の方と思しきお爺さんが入ってきて、一緒に入浴。そのお爺さんから上述したような吉田温泉についてのお話をいろいろと伺いました。そしてきっと昔は湯治客で賑わっていたんだろうな、と想像しながら、湯冷めしないよう肩までしっかりお湯に浸かったのであります。このお爺さんのように、こんなお風呂でも愛用なさっている固定客がいるからこそ、ご主人は風呂釜の火を消していないのでしょうね。
入浴させていただいたお礼を申し上げつつ、湯上りにご主人と雑談したところ、曰く40年近く前は都内の某大手企業に勤めていらっしゃり、その時は井の頭線の三鷹台にお住まいだったそうですが、都会の水が合わずにこちらへ戻って、東京よりはるかにゆったり流れる当地で日々を過ごしていらっしゃるそうです。建物の外観に違わずご主人も老荘思想の隠遁者を体現しているかのような風貌でした。吉田温泉はひとつの温泉地の栄枯盛衰がひしひしと伝わってくる哀愁の地です。
ナトリウム-炭酸水素塩・塩化物・硫酸塩温泉
Na:750.043mg, Ca:129.030mg,
Cl:427.025mg, SO4:423.672mg, HCO3:1512.921mg,
(昭和36年の分析値ですから現在は相当異なっているものと予想されます)
宮崎県えびの市大字昌明寺689 地図
0984-37-1531
入浴可能時間不明
350円
備品類なし
私の好み:★★