※今回の記事に温泉は登場しません。あしからず。温泉は次回記事までお待ち下さい。
前回記事の続編です。
以前、戦時中の特攻隊に関する書籍を読んでいた時、知覧、万世、健軍など、特攻隊の出撃基地として知られている日本南部の飛行場の他、沖縄から近い台湾の部隊からも出撃が行われていたことを知りました。しかもその基地があった場所のひとつが虎尾。台湾最後の現役サトウキビ列車を見学しに虎尾へ行こうと思いついた時、この虎尾と特攻が関係していることを同時に思い出しました。
そんな折も折、台湾の「自由時報」で
「虎尾神風特攻隊軍舍 翻轉新生命/在地青年發起保存運動 獲教部補助」という記事が取り上げられていたのを目にしました。なんと、虎尾で特攻隊として出撃していった兵士たちの兵舎が未だに残っており、しかも現地の方々の手によって保存されようとしているのです。そこで、虎尾に残っている兵舎跡がどうなっているのか、サトウキビ列車の活躍を見学するついでに、現地へ立ち寄ってみることにしました。
●建国一村
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虎尾の市街地からサトウキビを運ぶトロッコの線路を辿ってゆくと、やがて周囲に菜の花畑が広がり、「建国一村」と呼ばれるエリアに行き着きます。どうやらこの辺りにかつて旧日本軍の兵営があったらしいのですが、そんな場所と「建国」という地名には、一体どんな関係があるのでしょうか。
第二次大戦における日本の敗戦後、日本人は台湾から追い出されましたが、日本人がこれまで暮らしていた民家、ビジネスしていた商店や工場、そして軍が駐留していた兵営などはそのまま残されて、台湾の人々が活用するようになります。第二次大戦が終結した後、中国では国民党と共産党の内戦が激化し、結局、蒋介石率いる国民党の軍隊(国府軍)は敗走を重ねて台湾へと逃げてくるわけですが、九州程度の大きさしかない台湾に、国府軍の兵士やその家族、つまり外省人たちが百万以上の単位で一斉に大陸から大挙してやってくるのですから、台湾側としてはその受け入れに苦慮してしまいます。そこで目をつけたのが、多くの空き家があった旧日本人居住エリア。各都市に存在していた旧日本人居住区に、大陸から逃げてきた外省人たちを住まわせ、居住問題を解決しようとしたのでした。このようにして形成された外省人居住区を台湾では「眷村」と呼んでおり、都市部や軍事施設周辺などを中心に、以前は900近い「眷村」が存在していたんだそうです(旧日本人居住区以外にも「眷村」はつくられました)。でも、その多くは古いままの住宅密集地であり、台湾が急激に経済成長したにもかかわらず、住環境が改善されないまま時代の波に取り残されてします。更には外省人一世の高齢化などの事情もあり、徐々に各地の「眷村」から人々が離れてゆき、マンションに建て替えられたり、あるいは集落そのものが放棄されたりして、現在残っている「眷村」は10ヶ所もないんだそうです。
話は戦時中にさかのぼります。当時の日本では、太平洋戦争の戦況悪化に伴って航空要員を大量に養成する必要性が生まれたため、予科練の卒業生に初歩的な飛行訓練を行う部隊として、昭和19年、虎尾に日本海軍の「虎尾海軍航空隊」が設置されました。虎尾は日本統治時代に砂糖の街として栄えたのですが、実は海軍の街でもあったんですね。はじめのうちは、畑の中につくられた滑走路を、九三式中間練習機、通称「赤とんぼ」が飛んでいたのですが、サイパン陥落をはじめとして南洋の島々が次々にアメリカの手に落ち、沖縄戦に突入すると、いよいよ日本は特攻という最後の手段に打って出ます。虎尾でも訓練飛行なんてしている場合ではなくなり、昭和20年の冬に「虎尾海軍航空隊」は解散され、兵士たちや諸々の設備等は他部隊へ移されることになったのですが、虎尾で訓練して新竹など台湾の他部隊へ移った兵士の一部は、実際に特攻へ動員されることになりました。しかもその当時、既にまともな戦闘機は残っていなかったため、特攻に使われた飛行機は旧式の心細い練習機である「赤とんぼ」。サトウキビ畑が広がる長閑な虎尾の空を飛んでいた「赤とんぼ」に爆薬を積んで、敵艦隊へ突っ込んでいったのです。
戦後に中国国民党が台湾を支配するようになると、虎尾には空軍基地が設けられます。当然ながら大陸から逃げてきた大勢の外省人たちを受け入れる住宅を確保しなければなりませんが、この虎尾においては、残されていた旧日本海軍の虎尾航空隊兵営へ住まわせることになりました。こうして虎尾における外省人居住区「眷村」が形成されていきました。空軍基地のそばという立地ゆえ、この「眷村」に住んだ外省人の多くは国府軍の兵士や軍属、そしてその家族であり、どうしても地区全体に国民党の軍事的なイデオロギーが強くなります。臥薪嘗胆の心境で大陸への反転攻勢を狙っていたわけですから、「眷村」の名前に「建国」という語句を採用したのも、そうした事情によるのでしょう。
それにしても、共産党との戦いに負けて台湾へ逃げてきた国民党の人間は、つい数年前まで日中戦争時に憎き敵として戦った日本軍の兵舎で暮らすことになるのですから、歴史は実に皮肉なものです。戦後、いくら蒋介石が「以徳報怨」と言ったところで、外省人たちが日本人の残り香漂う兵舎に足を踏み入れた時には、忸怩たる思いをしたに相違ありません。
こうした虎尾における旧日本海軍兵舎の歴史を考えた場合、兵士たちや飛行機は、虎尾の兵舎および飛行場から直接特攻へ向かったわけではなく、一旦別の部隊へ移った上で特攻へ飛び立っているのですが、虎尾で訓練を重ねたことは事実ですから、それゆえ虎尾の「眷村」は特攻隊の兵舎でもあったと表現しても、大過は無いんだろうと思われます。
さて、前置きが異常に長くなってしまいましたが、この「建国一村」の中に入ってみましょう。
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「建国一村」は保存・修繕工事がスタートしたばかり。ゲートには工事車両用の鉄板が敷かれ、ゲート自体もペイントが塗り直されていました。
そのゲートの表側には「齊家報国」「精誠団結」といったイデオロギー的な文言が、内側には「節約儲蓄」「安和楽利」といった生活面の心がけを喚起する文言が、それぞれ記されていました。
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ゲートから真っ直ぐ伸びる通りは、一見すると美しい街路樹が立ち並んでいるように見えますが、その両側に立ち並ぶ家屋はみんな廃墟となっており、すっかり藪に飲み込まれていました。どの家でも、もう人は住んでいないようです。「建国一村」から北へちょっと行ったところには、90年代まで空軍基地がありましたから、その当時までは空軍関係者が住んでいたのかもしれませんが、基地が廃止されてからもう20年以上も経っていますから、この「眷村」も存在意義を失ってしまったのでしょう。なお、虎尾の空軍基地跡に新設されたのが、高鉄(台湾新幹線)の雲林駅です。
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通りをさらに進んでゆくと、真っ赤な横断幕が掲げられた建物に行き当たりました。ここがネットニュースの記事で紹介されていた再建協会の本部なのでしょう。門には診療所と書かれているので、かつてこの建物はクリニックとして使われていたのでしょう。「服務軍眷」「擁護政府」と大きく朱書きされた外壁には、まだ「眷村」で人々の生活が営まれていた頃の写真が数枚掲示されていました。
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メインストリートだけでなく、いくつかの路地にも入ってみました。手入れされずに放置されたままの路地は深い藪に覆われつつあり、早くも自然に帰ろうとしています。
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どの建物も藪に飲み込まれており、どれが日本統治時代の建物なのか、どれが戦後の建物なのか、判然としません。
でも特攻隊として出撃していった兵士たちは、きっとこのエリアのどこかで日々を過ごしながら訓練を積んだのでしょう。
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見えにくい画像で申し訳ないのですが、居住区跡の随所で、上画像に写っている亀の甲羅みたいに盛り上がったコンクリの構造物が見られました。これはおそらく防空壕なのでしょうね。
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歩けども歩けども廃墟ばかり。たまに日本家屋っぽい建物を見かけますが、果たして戦前から残っているものであるか否かは不明。
さらに路地を進もうとすると、奥の方からこちらに向かって犬が吠えはじめたので、一旦居住区跡から離れて、畑が広がる方へ進行方向を変えました。
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「建国一村」の南側に広がる畑。
この畑のさらに南側には虎尾糖廠へサトウキビを運ぶトロッコの線路が敷かれています。
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「建国一村」の南に広がる畑のど真ん中。トロッコの線路脇に、コンクリとレンガで造られた高い塔が聳えていました。これは日本統治時代に建てられたものらしく、戦前は砲台として使われていたという説明もあれば、給水塔であったという解説もあります。どうやら実際のところ、塔の内部は3階層になっており、最上層は給水塔として使われ、2階部分は警戒用の櫓のような使われ方をしたようです。たしかに塔の中ほどに大きな穴があけられていますが、これは銃口だったようです。
その一方、塔の上部にはたくさんの細かな凹みがありますよね。これは戦時中に受けた米軍による機銃掃射の跡なんだとか。かつて砂糖工場や海軍飛行場があった虎尾は、昭和20年の終戦間際に米軍の空襲を受けていたんですね。
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塔の内部はこんな感じ。今では何も使われておらず、ガランとしています。
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畑の所々には築山と思しき小さな丘が点在しているのですが、そのいずれにも古いコンクリの構造物が付帯していました。防空壕にしては大きいので、おそらく掩体壕、つまり飛行機を隠すためのものだったのでしょう。
●建国二村
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トロッコの線路をさらに西へたどってゆくと、トロッコの線路と高鐡の高架が交差します。そのちょっと手前には遮断機の無い踏切があり、そこから南へちょっと下ると「建国二村」と呼ばれる「眷村」が広がっています。
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トロッコの踏切から「建国二村」へ入ってみましょう。このエリアの正門はここではなく、雲林県の県道側に設けられているらしく、私が入ったこのゲートはどうやら裏口みたいです。カメラのレンズが汚れていたため、画像に変な光が紛れ込んでしまい、ごめんなさい。
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ゲートには歩哨の詰所が建てられており、ゲート門柱の裏側には「教親睦隣」と記されていました。
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こちらもやはり悉く廃墟と化しており、多数の廃家屋のほか、妻面だけを残して崩壊した大きな建物など、無残な姿と化した建築物が、藪に飲み込まれていました。また私が当地へ足を踏み入れた時、この大きな建物の前に消防車が止まっており、焦げた臭いが辺りに漂っていました。ひと気が無いのにボヤ騒ぎが起きるということは、放火でもされたのでしょうか?
こうした廃墟を再建しようとする活動には、単に史跡を保存するという文化的な意味合いのみならず、治安の維持という現実的な重要目的もあるのですね。
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こちらも廃墟だらけ。人は住んでいないようです。主を失った人家では、植物が思い思いに枝葉を伸ばしていました。
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完全に緑に飲み込まれた廃墟。この廃屋は日本家屋のように見えるのですが、果たして戦前から残っているものなのでしょうか。
住宅を囲むコンクリの壁には「実践総裁」と大きく書かれています。ということは、この後には「遺訓」という言葉が続くのかな(実践総裁遺訓。つまり孫文が唱えた三民主義を実践しようということ)。
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通りを歩いていると、やがて広場にたどり着きました。広場には子供用の遊具やバスケットボールのゴールが放置されていました。ということは、ここには学校に準じた施設でもあったのでしょうか。「健身強国」という語句なんて、まさに青少年向きのスローガンですね。
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広場のそばには、「建国一村」の南側の畑で見られた塔とほとんど同じ構造をしている塔がそびえていました。また亀の甲羅のような形をした防空壕もはっきりとした形で残っていました。
こうした虎尾の眷村である「建国◯村」は一村から四村まであるのですが、いずれも現在では住民が立ち去り、四村に至っては現在刑務所の敷地の一部になっています。
かつて日本海軍の兵士が練習機「赤とんぼ」で訓練を重ねた虎尾航空隊。その兵士たちは、練習機で特攻へと向かっていきました。
そして戦後、大陸から逃げてきた国民党の外省人たちは、虎尾においては、数年前まで敵として戦っていた日本軍の虎尾航空隊跡地に住むことになりました。それだけではありません。虎尾の「眷村」では、1947年の二二八事件においても、本省人と外省人が激しく対立する血腥い事件が発生したんだそうです。
虎尾の「眷村」には、1945年を軸にしたその前後数年にまつわる台湾の近代史が凝縮しており、特攻隊と外省人国民党、それぞれの歴史と悲哀が複雑に交錯しているように感じられました。現在、虎尾の「眷村」は廃墟となって荒れに荒れていますが、地元の方々の手により少しずつ改修・修復が行われはじめましたので、そうした有志の方々の努力が結実し、いずれは歴史を追体験できるような姿が蘇ることを期待しています。
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