限界だった。私の魂はもう、限界だった。
そんな私を焚きつけるように、雨は激しく窓を打った。いやらしい滴が次から次へと窓に吸着し、まるで無数のヒルのようだった。まったく、あんまり風雨が激しいので、窓ガラスが割れるのではないかと思ったほどだ。
悶絶するように体をくの字に折り曲げ、手にした出刃包丁の刃渡りを見つめる。妖しく、艶やかに、震えている。これで実の父親を殺すとは到底思えなかった。だが限界なのだ。「さあ、あたしを使ってあんたのお父さんを刺してごらん」と、切っ先が語りかけてくる。「そうしたらずいぶん楽になるわよ」。は! 私は楽になるだろうが、親父は苦しむだろう。いや、そんな感覚が果たして彼に残っているか。自分の息子の顔も覚えていない。糞尿をパンツに漏らしても何ともない。人間的な感覚などない。彼はもう、人間として生きているわけではないのだ。ダニのように煎餅布団にへばりついて、毎日呼吸しているに過ぎないのだ。彼が死ねば、彼も、私も、双方が楽になる。これが最善の道なのだ・・・・私。私は楽になるのだろうか。生みの親を殺して。犯罪。自由。生きる権利。罪悪感と解放感は、同じ天秤にかけられうるのか。黙れ。それどころではなかったのだ。
雨音に掻き消されるように、救急車のサイレンが遠のいていく。
私は荒い息を吐きながら、出刃包丁の刃を指でなぞった。人差し指が切れて血が出た。
介護とは何だ。介護とは何だったのだ。それを考え始めると、私はいつも憤怒で息が詰まりそうになる。あまりにも壮絶な日々。自分の親の糞の臭い。腹が立つほど臭く、物悲しく・・・・それは、血を分けた子にしかわからない、屈辱に満ちた、やるせない臭いだ。介護とは、一人の人間の重みで、もう一人の人間を押し潰すことだ。人一人の抜け殻で、別の人間を窒息死させることだ。一人前の不幸で、二人前を地獄に送ることだ。
私には無理だった! それだけだ。小賢しく語ろうとするのはよせ。
雨音に満ちた薄暗い四畳半の部屋で、私は自分の体が一回り小さくなったように感じた。そのままもっともっと小さくなって、石ころほどの塊になり、畳を突き破って地下深くに沈み込み、地球の深淵に達し、二度と浮かび上がってこない姿を想像した。
隣の部屋で、親父は昼間から、生まれたての醜い赤子のようにすやすやと眠っている。痴呆が進行しているから、本当に赤子の気分でいるかも知れない。いや、かつては聡明だった人だ。自分の息子の殺意など、とっくに勘づいているかも知れない。勘づいていたら、それでいい。どうせ立ち上がることすらできない体だ。私が今、包丁を手に襖(ふすま)を開け放っても、彼には何もできない。私は確実に、彼を殺せる。
私は愕然とした。
私は、私を可愛がり、ときには厳しく叱りながら育ててくれた親を、この手で殺そうとしているのだ。
全身から汗が噴き出た。
大好きな親父ではなかった。実直なだけに不器用な人だった。こちらの気持ちをなかなか理解してもらえなかった。八年前から寝たきりになり、介護していた母親が三年前に他界した後は、自分が面倒を見るしかなかった。最初は責任感で懸命だったが、すぐに死ぬほど嫌になった。一度でも感謝の言葉をかけてもらったことなどなかった。そもそも感謝の意味がわからない人になっていた。だがもちろん、もちろん、殺すほどのことではない。
かつては、「父さん」と呼んだこともあった。
いたたまれない感情が吐き気のように込み上げてきて、私は包丁を振り上げ、思い切り畳の上に刺した。繊維の切れる音がして、鈍い手ごたえがあった。
私が殺そうとしているのは別物だ。この隣の部屋に横たわっている半分干からびた肉塊は、もはや私の父親ではない。私から自由を奪い、人生を奪い、恋愛するチャンスを奪い、未来を奪った悪魔だ。
額から流れる汗は止めどなかった。私は思わずにやついた。
恋愛だと? 笑止。私は自分に寝たきりの親父がいなかったら、果たして恋愛ができていたのか? 恋愛まで親父のせいにするのか? 親父がいなくても私はやっぱり、私の中の別の何かを寝たきり老人のようにして、その介護に自分を追いやることで人との出会いから逃れようとしたのではないか?
馬鹿馬鹿しい! 私は畳に刺さった包丁を抜き取り、立ち上がった。ふらつく体を支えるために、二、三歩地団太を踏まなければならなかった。私は被害者だ。一人息子として強制的に不幸を押しつけられたのだ。三年前母さんが脳梗塞で倒れたときから、すべての歯車が狂ったのだ。そしてもうどうしようもなくなったのだ。こうなる日を、ただただ待つしかなかったのだ。
私は襖(ふすま)を開け放った。
隣部屋を覗いた瞬間、私の心臓は凍りついた。日中でもカーテンは閉め切ったまま。雨の日はなおさら薄暗く、老人が寝起きする部屋特有の加齢臭が湿っぽく満ちている。だが、布団の上に、彼がいない。布団はいつもの場所に敷いてある。汚い湯呑みと急須を置いた丸盆も枕元にある。鼻を噛んだり零れた茶を拭いたタオルがくしゃくしゃのまま抛られているのさえ、いつも通りである。しかし、布団に横たわっているはずの当人がいない。立ち上がるのさえ、困難なはずの当人が。
部屋の四隅を見渡しても、どこにも、影も形もない。
カーテン越しの雨音が一段と強くなったように思われた。
出刃包丁がするりと私の右手から滑り落ち、敷居に刺さった。
私は、私こそがその布団の上に横たわるべき人間であったことにようやく気づいた。私はふらふらと布団の上に膝を突き、身を横たえ、掛け布団を首まで被った。全身がガタガタと震えていた。私はいろんなことを思い出していた。自分はもう八十に手が届く年齢で、中年になる息子がいること。もう少し待てば、彼が職場から帰ってくること。息子は部屋に入るなり、おそらくすぐに、敷居に刺さった出刃包丁に目を留め、初めは驚くだろうが、やがてすべてを合点し、包丁を抜き取り、私の胸元に力いっぱい突き立てるだろうこと。これまで三年間も散々苦しめられてきた私から、今こそ解放されるために。
体の震えは、一向に止まらなかった。ひどい寒気を感じていた。雨は行く先の定まらない風にひっきりなしに翻弄されていた。私は掛け布団を目元まで引き上げて被り、やっぱり全身をガタガタと震わせながら、ほとんど影としかわからない、敷居に突き刺さった出刃包丁をじっと見つめ続けた。
(おわり)
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