peaの植物図鑑

草や木の花や木の実(果実)、特に山野草が好きで、デジカメを持ち歩いて撮っています。2024年3月、85歳になります。

マユミ(真弓)

2009年10月13日 | 植物図鑑

一関市東山町長坂「柴宿団地」  2009年10月12日(月)

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柴宿団地の近くを通る一関大東線。

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柴宿団地のすぐ傍を通るJR大船渡線。500mほど先に「柴宿駅」がある。(無人駅)

沿道には花壇がつくられていました。

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東山町にある名勝「げいび渓」とアユが図案化された下水道の蓋。下水道が完備されて、げいび渓に流れ下っていた汚水も無くなり、砂鉄川の清流が元に戻りました。

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2009年10月12日(月)、一関市東山町長坂字柴宿にある「柴宿団地」と呼ばれている住宅団地のパーマ屋さんの庭先に植えられたマユミ(真弓)の実が、早くも淡紅色に熟して赤い仮種皮に包まれた種子が顔を出していました。

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マユミ(真弓) ニシキギ科 ニシキギ属 Euonymus sieboldianus

山野に生える落葉低木~高木。昔、この材で弓をつくったことから真弓の名がある。高さは普通3~5m、大きいものは15mに達する。樹皮は灰白色で、老木になると縦に少し裂ける。若枝は緑色で白い筋のあるものが多い。葉は長さ5~15㎝の楕円形または倒卵状楕円形で先は鋭く尖り、縁には細かい鋸歯がある。裏面は淡緑色で、脈が目立つ。 5~6月、前年枝の基部から長さ3~6㎝の柄のある集散花序を出し、直径8~10㎜の淡緑色の花をまばらに開く。雌雄別株。花弁と萼片は4枚。雄しべは4本あり、雄花では花糸が長く、雌花では短い。葯は黒紫色~暗紫色。 朔果は長さも幅も8~10㎜の四角形で、淡紅色に熟して4つに深く裂けると、赤い仮種皮に包まれた種子が現れる。マユミの実はかなり遅くまで残り、初雪の頃でも赤い実が落ちずによく目立つ。弓をつくるのに使われたように、枝はよく撓(しな)う。 材は白く、緻密で狂いが少ないといわれる。用途:庭木、公園樹、盆栽。小箱、玩具、櫛などの材料。分布:北海道、本州、四国、九州(屋久島まで)、南千島、サハリン、朝鮮南部、中国。


アワブキ(泡吹)~マリア観音(子安観音)像

2009年10月13日 | 植物図鑑

一関市東山町長坂字東本町  2009年10月12日(月)

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一見、「げいび渓」のようだが、前を流れているのは猿沢川。

2009年10月12日(月)、一関市東山町長坂字東本町にある鍾乳洞「幽玄洞」の出口から100mほど離れた所に「マリア観音(子安観音)」と呼ばれる石像を祀ってある洞窟があるのですが、その入口近くを流れる猿沢川の岸辺に生えているアワブキ(泡吹)が朱橙色の実を沢山付けていました。5~6mほどもある木ですが、この川に架かる橋の上から写真を撮ることができました。

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アワブキ(泡吹) アワブキ科 アワブキ属 meliosma myriantha

山地に生える落葉高木。高さは普通8~10mになるが、大きいものは15mぐらいになるとのこと。樹皮は帯紫暗灰色で滑らかだが、褐色の小さな皮目が多数あってよく目立つ。若枝は褐色で、褐色の短い毛におおわれている。冬芽は裸芽で褐色の毛に包まれている。葉は互生し、長さ8~25㎝の長楕円形または倒卵状楕円形で洋紙質。先端は短く急に尖り、基部はくさび形または鈍形。縁には先端が芒状になった浅い鋸歯がある。表面は無毛。裏面は淡緑色で褐色の毛がある。20~27対の平行に走る側脈がよく目立つ。葉柄は長さ1~2㎝。

6~7月、枝先に長さ15~25㎝の円錐花序を出す。花序は密に枝分かれして広三角形になり、淡黄白(クリーム)色の小さな花を多数開く。花は直径2.5~3㎜。花弁は5枚あり、外側の3枚は円形で、ほかの2枚は細い線形。雄しべは5本あり、そのうち普通2本が完全で、3本は鱗片状に退化している。雌しべは1本で花柱は短い。萼片は5枚。

果実は直径3.5~4㎜の球形の核果で、9~11月に赤く熟し、基部に花柱が残る。中に1個の核がある。種子は1個。この木を燃やすと、切り口から盛んに泡が出てくることから、「泡吹」の名がある。材は割れやすく、また狂いも生じやすい。用途:細工物、薪炭。分布:本州、四国、九州、朝鮮。

マリア観音(子安観音)像:昔、この地方のキリシタンが迫害された時、迫害から逃れるため礼拝のたいしょうをマリア像ではなく子安観音に造り、石の一部に十字架を刻み、マリア像として礼拝したとの伝承がある。

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観音霊山由緒:この渓谷は、前を流れる猿沢川が長い年月をかけてつくりあげたもので、小げいび渓とも言う。昔はこの川沿いに道がなく、この辺りが、この沢の最も奥まったところであった。左の山門の奥の鍾乳洞が観音窟である。それをくぐり抜けた左側の岸壁に更に小さな鍾乳洞があって、それぞれ一体ずつの子安観音様が祀られている。この観音様はそのお姿やこの地形から江戸時代に隠れキリシタンとされた人々が藩当局の追及をかわしつつ、密かに礼拝したマリア観音ではないかと言われている。しかし、一方で、子授け、安産、子育ての観音様として古くから多くの信仰を集め、心願成就の叶うことを祈り、あるいはまた、御礼の為の白布が風にはためいていたとの伝承もある。 昭和62年に城高山安養寺25世大玄光寛大和尚は、このような観音様に因縁の深い霊山をもっと親しみやすく、もっと参詣しやすい場所にしたいと発願された。その呼びかけに応じて多くの方から観音像が寄進され、今も寄進は続いている。  右側の「墨縁の碑」は、大玄光寛大和尚(佐藤白渓)の遷化後、白渓先生を偲ぶ会によって建てられたもので、書の師である石橋犀水博士との師弟の筆跡を刻んだものである。

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