2010年2月6日(土)、「平家物語ゆかりの地を巡る旅」の3日目。この日最初の目的地・六波羅蜜寺での時間が予定(8:20~9:10時)よりだいぶ早く終わったので、清水寺(きよみずでら:京都市東山区清水)の大駐車場に着いたのは8:55時。
清水寺の参道(清水坂)を登りながら、道の両側に並んでいる土産物店などの写真を撮る。宇治茶や京扇子、八ツ橋の店が目立ちました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E6%B0%B4%E5%AF%BA[清水寺-Wikipedia]
一足先に歩き出した修学旅行の生徒たちを追い越して行きます。
清水寺(きよみずでら)は、京都府京都市東山区清水にある寺院。山号を音羽山と称する。本尊は千手観音、開基(創立者)は延鎮である。もとは法相宗に属したが、現在は独立して北法相宗大本山を名乗る。西国三十三箇所観音霊場の第16番札所である。[出典:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」より、以下の写真説明を含む。]
仁王門(重要文化財):境内入口に建つ朱塗りの門。三間一戸楼門、入母屋造、檜皮葺きで、正面左右に鎌倉時代末期の金剛力士(仁王)像を安置する。室町時代の建立で、馬駐(うまどめ)、鐘楼とともに寛永6年(1629)の大火を免れた。
http://www.kiyomizudera.or.jp/niou.html [仁王門]
隋求堂(ずいぐどう):仁王門から参道を進んだ正面に位置する。もとは塔頭慈心院の本堂で、慈心院を中興した僧・盛松により、享保20年(1735)に建立された。本尊の秘仏・大隋求菩薩像は八臂(ひじ)の坐像で、享保18年(1733)の作である。脇侍として吉祥天立像と毘沙門天立像(重要文化財)を安置していたが、後者は宝蔵館に移されている。堂の地下の暗闇を歩く「胎内めぐり」が行われている。
http://www.kiyomizudera.or.jp/zuigudou.html
西門(重要文化財):仁王門を潜って右方の小高い位置に建つ。寛永8年(1631)の建立。切妻造、檜皮葺きで、形式的には八脚門だが、正面に向拝、背面には軒唐破風(のきからはふ)を付し、内部には床板と格天井を張る特殊な形式の門である。全面朱塗り、軒下の組物や蟇股(かえるまた)などは極彩色とするなど、門というよりは神社の拝殿のように見え、特殊な用途をもった建物と推定されている。
http://www.kiyomizudera.or.jp/seimon.html [西門(せいもん)]
(左奥)三重塔(重要文化財):西門の先に建つ和様の塔。寛永再興時の再建。高さ30.1m。昭和62年(1987)に完了した解体修理により、外部の極彩色が復元されている。内部には、曼荼羅の密教世界が造形されて、中央には大日如来が安置されている。
http://www.kiyomizudera.or.jp/sanjyuu.html [三重塔]
(手前右)経堂(重要文化財):三重塔の隣に建つ入母屋造、瓦葺きの五間堂。寛永再興時の再建。内部には釈迦三尊像(脇侍は文殊菩薩と普賢菩薩)を安置する。堂は工芸品などの展示場として使用されることもある。
http://www.kiyomizudera.or.jp/kyoudou.html [経堂]
田村堂(重要文化財):経堂の隣に建つ入母屋造、瓦葺きの三間堂。開山堂とも称する。寛永再興時の再建。内部には開放形の厨子内に坂上田村麻呂夫妻像を安置し、その向かって左に行叡と延鎮の像を祀る。いずれも清水寺創建に関わる人物である。堂内は通常は非公開。
http://www.kiyomizudera.or.jp/kaizan.html [田村堂(開山堂)]
轟門(普門閣):寛永年間(1630年代)の建立。
http://www.kiyomizudera.or.jp/todoroki.html [轟門]
「出世大黒天」
http://www.kiyomizudera.or.jp/hondou.html [本堂(清水の舞台)]
(上)本堂(国宝):徳川家光の寄進により寛永10年(1633)に再建されたもの。「清水の舞台」とも呼ばれる。屋根は寄棟造、檜皮葺きで、正面(南面)左右に入母屋造の翼廊が突き出し、外観に変化を与えている。建物の前半部分は山の斜面にせり出すようにして建てられ、多くの長大な柱(139本という)が「舞台」と呼ばれるせり出し部分を支えている。(釘は使われていない。)このような構造を「懸造(かけづくり)」、あるいは「舞台造」と言い、観音菩薩は補陀洛山(ふだらくさん)に現われるという「法華経」「観世音菩薩普門品」(観音経)の所説に基づくものである。洛陽三十三所観音霊場第12番。
(上)本堂前の清水の舞台。(下)下から見た「清水の舞台から飛び降りるつもりで」と形容される「清水の舞台」
清水の舞台:思い切って物事を決断することを「清水(きよみず)の舞台から飛び降りるつもりで」と言うが、清水寺の古文書調査によれば、実際に飛び降りた人が1694年から1864年の間に234件に上り、生存率は85.4%であった。明治5年(1872)に政府が飛び降り禁止令を出し、柵を張るなど対策を施したことで下火になったという。
(上)清水の舞台から見た奥の院
「平家物語」と清水寺:父後白河法皇と対立する二条天皇は、強引に故近衛天皇の后を入内させるが<二代后(にだいのきさき)>若くして崩御し、六条天皇が即位する。葬送の夜、墓所にかける額の順序をめぐり興福寺と延暦寺の衆徒が衝突する。<額打論(がくうちろん)>。その結果、山門の大衆は、興福寺の末寺清水寺を焼き払う。後に、後白河法皇が山門に平家追討を命じたのだとの風聞が流れる。<清水寺炎上(きよみずでらえんじょう)>。
http://www.kiyomizudera.or.jp/ [音羽山 清水寺 公式ホームページ]