peaの植物図鑑

草や木の花や木の実(果実)、特に山野草が好きで、デジカメを持ち歩いて撮っています。2024年3月、85歳になります。

平家物語ゆかりの地を巡る旅 京都36:清水寺(1)

2010年03月04日 | 平家物語ゆかりの地を巡る旅

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2010年2月6日(土)、「平家物語ゆかりの地を巡る旅」の3日目。この日最初の目的地・六波羅蜜寺での時間が予定(8:20~9:10時)よりだいぶ早く終わったので、清水寺(きよみずでら:京都市東山区清水)の大駐車場に着いたのは8:55時。

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清水寺の参道(清水坂)を登りながら、道の両側に並んでいる土産物店などの写真を撮る。宇治茶や京扇子、八ツ橋の店が目立ちました。

  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E6%B0%B4%E5%AF%BA[清水寺-Wikipedia]

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 一足先に歩き出した修学旅行の生徒たちを追い越して行きます。

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 清水寺(きよみずでら)は、京都府京都市東山区清水にある寺院。山号を音羽山と称する。本尊は千手観音、開基(創立者)は延鎮である。もとは法相宗に属したが、現在は独立して北法相宗大本山を名乗る。西国三十三箇所観音霊場の第16番札所である。[出典:フリー百科事典「ウィキペディア(Wikipedia)」より、以下の写真説明を含む。]

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 仁王門(重要文化財):境内入口に建つ朱塗りの門。三間一戸楼門、入母屋造、檜皮葺きで、正面左右に鎌倉時代末期の金剛力士(仁王)像を安置する。室町時代の建立で、馬駐(うまどめ)、鐘楼とともに寛永6年(1629)の大火を免れた。

  http://www.kiyomizudera.or.jp/niou.html [仁王門]

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隋求堂(ずいぐどう):仁王門から参道を進んだ正面に位置する。もとは塔頭慈心院の本堂で、慈心院を中興した僧・盛松により、享保20年(1735)に建立された。本尊の秘仏・大隋求菩薩像は八臂(ひじ)の坐像で、享保18年(1733)の作である。脇侍として吉祥天立像と毘沙門天立像(重要文化財)を安置していたが、後者は宝蔵館に移されている。堂の地下の暗闇を歩く「胎内めぐり」が行われている。

http://www.kiyomizudera.or.jp/zuigudou.html

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 西門(重要文化財):仁王門を潜って右方の小高い位置に建つ。寛永8年(1631)の建立。切妻造、檜皮葺きで、形式的には八脚門だが、正面に向拝、背面には軒唐破風(のきからはふ)を付し、内部には床板と格天井を張る特殊な形式の門である。全面朱塗り、軒下の組物や蟇股(かえるまた)などは極彩色とするなど、門というよりは神社の拝殿のように見え、特殊な用途をもった建物と推定されている。

  http://www.kiyomizudera.or.jp/seimon.html [西門(せいもん)]

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(左奥)三重塔(重要文化財):西門の先に建つ和様の塔。寛永再興時の再建。高さ30.1m。昭和62年(1987)に完了した解体修理により、外部の極彩色が復元されている。内部には、曼荼羅の密教世界が造形されて、中央には大日如来が安置されている。

  http://www.kiyomizudera.or.jp/sanjyuu.html [三重塔]

(手前右)経堂(重要文化財):三重塔の隣に建つ入母屋造、瓦葺きの五間堂。寛永再興時の再建。内部には釈迦三尊像(脇侍は文殊菩薩と普賢菩薩)を安置する。堂は工芸品などの展示場として使用されることもある。

  http://www.kiyomizudera.or.jp/kyoudou.html [経堂]

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 田村堂(重要文化財):経堂の隣に建つ入母屋造、瓦葺きの三間堂。開山堂とも称する。寛永再興時の再建。内部には開放形の厨子内に坂上田村麻呂夫妻像を安置し、その向かって左に行叡と延鎮の像を祀る。いずれも清水寺創建に関わる人物である。堂内は通常は非公開。

http://www.kiyomizudera.or.jp/kaizan.html [田村堂(開山堂)] 

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轟門(普門閣):寛永年間(1630年代)の建立。

  http://www.kiyomizudera.or.jp/todoroki.html [轟門] 

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「出世大黒天」

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  http://www.kiyomizudera.or.jp/hondou.html [本堂(清水の舞台)]

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 (上)本堂(国宝):徳川家光の寄進により寛永10年(1633)に再建されたもの。「清水の舞台」とも呼ばれる。屋根は寄棟造、檜皮葺きで、正面(南面)左右に入母屋造の翼廊が突き出し、外観に変化を与えている。建物の前半部分は山の斜面にせり出すようにして建てられ、多くの長大な柱(139本という)が「舞台」と呼ばれるせり出し部分を支えている。(釘は使われていない。)このような構造を「懸造(かけづくり)」、あるいは「舞台造」と言い、観音菩薩は補陀洛山(ふだらくさん)に現われるという「法華経」「観世音菩薩普門品」(観音経)の所説に基づくものである。洛陽三十三所観音霊場第12番。

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 (上)本堂前の清水の舞台。(下)下から見た「清水の舞台から飛び降りるつもりで」と形容される「清水の舞台」

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清水の舞台:思い切って物事を決断することを「清水(きよみず)の舞台から飛び降りるつもりで」と言うが、清水寺の古文書調査によれば、実際に飛び降りた人が1694年から1864年の間に234件に上り、生存率は85.4%であった。明治5年(1872)に政府が飛び降り禁止令を出し、柵を張るなど対策を施したことで下火になったという。

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(上)清水の舞台から見た奥の院

「平家物語」と清水寺:父後白河法皇と対立する二条天皇は、強引に故近衛天皇の后を入内させるが<二代后(にだいのきさき)>若くして崩御し、六条天皇が即位する。葬送の夜、墓所にかける額の順序をめぐり興福寺と延暦寺の衆徒が衝突する。<額打論(がくうちろん)>。その結果、山門の大衆は、興福寺の末寺清水寺を焼き払う。後に、後白河法皇が山門に平家追討を命じたのだとの風聞が流れる。<清水寺炎上(きよみずでらえんじょう)>。

http://www.kiyomizudera.or.jp/ [音羽山 清水寺 公式ホームページ]


平家物語ゆかりの地を巡る旅 京都35:六波羅蜜寺(2)

2010年03月04日 | 平家物語ゆかりの地を巡る旅

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 平清盛坐像 鎌倉時代(重要文化財):平家一門が栄華を極めていた時期、清盛並びに平家一門が住んでいたのは、平安京の東にあった六波羅である。六波羅は東山の麓に開けた穏やかな傾斜地で、清盛の邸宅である泉殿を始め、一門の居館がずらりと建ち並んでいたといわれる。

 もっとも六波羅は、墓地だった鳥辺野への葬送地であり、人々から忌み嫌われていた土地であった。それを承知で、六波羅を選んだのは、都に近く、様々な街道に通じる交通の要所であったからだ。慣習より実用性を重んじる点が、清盛らしい選択といえるだろう。さぞ広大な光景が広がっていたであろうと思うが、現在は居館跡はない。

 現在は京都市東山区となっているかつての六波羅付近を歩いてみると、商店や住宅が建ち並ぶ一画に六波羅蜜寺がある。六波羅蜜寺は、平氏がこの地に住む以前から建立されており、平氏が住むようになって縁ができたといわれる。[以上、山と渓谷社発行、見延典子著”「平家物語」を歩く”より]

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平氏一門の屋敷跡に建つ六波羅蜜寺本堂(正面)

 http://www.rokuhara.or.jp/ [六波羅蜜寺]

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 阿古屋塚:阿古屋の菩提を弔うため鎌倉時代に建立す。石造宝塔(鎌倉時代)で、その下の台は、古墳時代の石棺の石蓋を用いている。浄瑠璃、壇ノ浦兜軍記三段目”阿古屋の琴責め” 平家の残党、悪七兵衛景清の行方をさがすため、想い人で五条坂に住む白拍子、阿古屋を捕え、代官、畠山重忠は、彼女が景清の所在を心に秘めていることを知っていたが、弾かせた三味線、琴などの調べに一点の乱れのないことに感動し、彼女を釈放する。

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嵯峨天皇と弘法大師:嵯峨天皇(786~842)の時代というから、平安遷都から20数年後(820年前後)のこと、弘法大師(774~835)が六波羅に地蔵堂を建立し、自作の地蔵菩薩を安置した。

 地蔵さまは六道にいる人間の苦を救う仏で、この世からあの世へ、またあの世からこの世へ、さ迷える魂の送迎をする。それは重要な役割を担う神で、地獄に落ちた亡者を救えるのは唯一、地蔵菩薩しかいないのでる。

 こんな昔話が残っている。「小野妹子の先祖に小野篁(たかむら)がいるが、冥府にいた篁が満米上人と地獄へ出かけた。火の中を一人の僧が走り回っている。『亡者を助けるために、苦患を受けているのだ。』それが六道の地蔵菩薩だったという。」

 弘法大師は時の嵯峨天皇と親交を深め、大覚寺の前身・嵯峨離宮建設に協力したり、逆に天皇から高野山開創の勅許、東寺の下賜と恩竉を賜っている。

http://www5e.biglobe.ne.jp/~hidesan/rokuhara-mituji2.htm [名所旧跡めぐり:六波羅蜜寺]

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