peaの植物図鑑

草や木の花や木の実(果実)、特に山野草が好きで、デジカメを持ち歩いて撮っています。2024年3月、85歳になります。

平家物語ゆかりの地を巡る旅 京都42:三十三間堂

2010年03月10日 | 平家物語ゆかりの地を巡る旅

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 三十三間堂:後白河法皇は広大な離宮「法住寺殿(ほうじゅうじどの)」を造営し、そこで政務を執ることが多かったという。その一角に平清盛が建立したのが三十三間堂(蓮華王院)。境内に法住寺殿址碑が立っている。

http://sanjusangendo.jp/s_1.html [国宝 三十三間堂]

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 2010年2月6日(土)、「平家物語ゆかりの地を巡る旅」第3日目。六波羅蜜寺~清水寺~正林寺と巡って、三十三間堂へ。清閑寺を尋ねる予定が、だいぶ歩かなければならないとのことで、目的地が変更された。予定時間は12:00時までの30分。

http://sanjusangendo.jp/h_1.html [蓮華王院 三十三間堂 拝観ご案内]

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 本堂につながっている「参道閣」という建物の参拝入口から靴を脱いで上がる。

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三十三間堂(本堂東南面):京都市東山区三十三間堂廻町657にある仏堂。建物の正式名称は蓮華王院本堂。同じ京都市東山区にある天台宗妙法院の境外仏堂であり、同院が所有・管理している。元は後白河上皇が自身の離宮内に創建した仏堂で、本尊は千手観音である。洛陽三十三所観音霊場第17番札所。

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 後白河法皇が院政を執った法住寺殿跡碑:院が管弦で遊んでいる最中、文覚(もんがく)が押し入った。このことで院の不興を買った文覚は伊豆に配流となる。

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法住寺殿(ほうじゅうじどの)跡:法住寺殿は、保元3年(1158)8月、その皇子・二条天皇に譲位して上皇となった後白河院が約30年にわたり院政(上皇が天皇に代って政権運営をする特異な政治形態)を行った政庁です。上皇になると天皇の住う御所とは 別の所に専用の”院御所(いんのごしょ)”を造営するのが通例で、先例の白河・鳥羽の両帝の続き、その度に大規模な土木工事が行われました。後白河院は譲位直後に御所の造営に着手、東山の麓から西は鴨川河岸まで、南北は八条坊門小路(現・東海道線南・大谷高校辺)から六条大路(現・六条通り)に及ぶ広大な地域で、その地名を取り「法住寺殿」と名付けたのでした。構内は政治的な施設の「北殿(きたどの)」と”常の御所”と呼ぶ、住居に三十三間堂をはじめとする宗教的堂塔が集中した「南殿(みなみどの)」に分かれ、東山を背にする丘陵に地中から湧き出たような大建築が甍を並べたといいます。

 永暦2年(1161)4月、月明かりの夜に、上皇はここに移り、以後20年住まいとします。しかし、賑(にぎ)わいをみせた院の御所も、寿永2年(1183)11月、対立するようになった木曽義仲の夜襲にあい焼失しました。800年の昔に変わらぬ姿でこの場所に伝承されてきた三十三間堂は、その時代をしのぶ稀有(けう)の物証といえるでしょう。

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(下)南大門・太閤塀(ともに重要文化財):当時、交通の要所だったこの地に目を向け、後白河院や清盛の栄華にあやかろうと思い立った秀吉は、その権勢を天下に誇示するため奈良大仏を模した大仏殿方広寺を三十三間堂の北隣に造営し、お堂や後白河上皇の御陵をも、その境内に取り込んで土塀を築いた。今も、その遺構として南大門・太閤塀が残っている。

 http://sanjusangendo.jp/r_1.html [蓮華王院 三十三間堂(創建と歴史)より]

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 国宝:本堂、木造千手観音坐像(附:木造天蓋)、木造風神・雷神像、木造二十八部          衆立像。

 重要文化財:南大門、太閤塀、木造千手観音立像(1,001躯)。

 http://sanjusangendo.jp/b_1.html [仏像:千手観音坐像と千体千手観音立像]

  http://sanjusangendo.jp/b_2.html [仏像:風神雷神と二十八部衆]

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%8D%81%E4%B8%89%E9%96%93%E5%A0%82 [三十三間堂ーWikipedia]