先日、伊勢神宮の「式年遷宮祭」のビデオを見る機会
があった。
最初70分とか言われ「勘弁してよ」と思ったが、見
始めるとそれなりに興味深く、ついつい真面目に見て
しまった。
尤も、30分程したところで、DVDプレーヤーの調
子がおかしくなってきて、結局「今だ」と思って退散
したのだが。
何が興味深かかったかと言うと、その儀式の尤もらし
さとかそういうものではなく、儀式を執り行うための
道具とか、付随する建築などに関してだ。
その前に、それらの儀式を見て改めて感じたことを。
決まりきった儀式は何のためにやるかと言うと、儀式
そのものをするためだ。
つまり、何のための儀式ではなく、儀式のための儀式
であるのだ。
意味の存在をあるかのように臭わすことが重要なので、
儀式という具体的で視覚的なものを作り、関わる人に
分かり易く知らしめる。
人間というのは単純なもので、例えば「厳かな」とか
言われるとそういうものかと思い、そこに具体的な儀
式が加わると(尤もらしければ尤もらしいほど良い)、
身体的にも精神的にもそういう気分にさせられる。
その先の意味を考えるなどという行為を無化する効果
がある。
つまり、思考の放棄。
その結果、身も心も洗われるという不思議な感覚を持
つことが出来る。
そうやって考えると、儀式は、一種の魔術かもしれな
い。
で、興味深かったことについてだが、それらの道具と
か建築物が、日本の伝統的な美術として神道と共に発
展したことだ。
独特な儀式のための道具類、それを作る職人、宮大工
に代表される技術者は、それなくして存在しなかった
わけだから、「神道」そのものは良く知らないが、日
本の文化のある部分を創ったと言う意味で、非常に重
要であったと思われる。
そういう技術は、絶やさないようにしなくては、と思
うが、神道的な部分が強くなると、どうしても「輝け
る日本」などというある種の幻想が持ち出され、ナショ
ナリズムに直結する傾向があるので、そうなったらこ
れまたコントロールが難しくなる。
いつでも暴走するから。
技術は技術で伝承、そう行けば一番良いのだが。