ピカビア通信

アート、食べ物、音楽、映画、写真などについての雑記。

2008年11月13日 | Weblog


今年は、柿の当たり年らしく、周辺のどの柿もオレンジ
の実がたわわに実っている。
重量があるので、本当にたわわという感じである。
家の庭の柿も例外ではない。
本来なら、喜ばしいことだろう。
確かに、見てる分には秋の風物詩としても楽しめ、ああ
収穫の秋か、と感慨に耽る、なんてことにもなるかもし
れない。
ところがだ、それを取らないといけない立場からする
と、そんなことは言ってられない。
おいおい出来すぎだぞ、と嘆息するのである。
しかも、渋柿ときている。

というわけで、高枝切りバサミを使い、渋柿を収穫し
た。
毎年のことではあるが、非常に面倒くさい。
しかも、今年はこの量である。
高枝切りバサミで七八個実った枝を切ると、結構な力
が手元にかかる。
一つ一つやれば良いのだが、早く終わらせたいがため、
まとめて切ろうとするのは、止むを得ない。
一つ一つでは、それこそ気が遠くなる。
しかも、上を向いての作業。
これも、結構疲れる。
家の場合、屋根に上って作業できるから、脚立を使う
作業よりはまだ楽かもしれないが、その分、屋根にた
まった葉っぱの撤去や、樋に詰まった葉の除去とか、
余計な作業がある。
要するに、どっちもどっちである。

新しい枝は、どんどん切っていく。
何故かというと、木全体を小さくしたいから。
要するに、実があまりできないことを望んでいるのだ。
なんだか、ネガティブな作業であるが。
ご存知のように(知らない人のほうが多いと思うが)、
柿というのは脆く、切る作業は他のものに比べると、
かなり楽だ。
よく、森を守るために、間伐なり、下枝を切るなどと
いう作業があるが、あれを手作業でやると、相当な重
労働だ。
柿でよかった、などと思いながら調子に乗って切り出
すと、それこそ柿の木そのものが消滅しそうだ(それ
でも良いが)。

何とか終わり、野鳥用の実を少し残した柿は枝ばかり
となり、そこだけもう冬景色であった。
今日は、寒くなかったのがせめてもの救いだ。

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池の住人

2008年11月11日 | 生き物 自然


最近「鯉の池」に、新人が入った。
一匹は、錦鯉の鰭の長いやつで、大きさは十四五センチ
といったところ。
「プラチナ黄金」という種類かと思う。
そしてもう一匹が、ちょっと珍しいもので、多分普通は
鯉の池で飼おうとは思わないものだ。
それは「チョウザメ」だ。
「コチョウザメ」という種類らしが、どちらも甥っ子が
持ってきたものなので、詳しいところは判らない。

「チョウザメ」と言えば、どうしても「キャビア」とい
うことになるが、甥っ子の言うところによると「コチョ
ウザメ」は「キャビア」は採れない、ということであった。
その意味するところは、当然卵は持つが、商品としての
「キャビア」にはならないということであろう。
それに、一匹だけだし、オスかメスかは判らないが、雌
雄同体でもなければ卵さえ持つ可能性もない。
大きさは、十二三センチといったところ。
他の鯉に食われないかと少々心配したが、いまのところ
無事に、底で生き続けている。
水面に出ることもあるらしいが、今現在は、水底の住人
である。
これが、50センチくらいになれば、いくら「コチョウ
ザメ」と言えど、迫力はあるだろう。
因みに、キャビアの「ベルーガ」(ロシア名)は「オオ
チョウザメ」で、他の「セブルーガ」「オシェトラ」も
それぞれ和名があるようだ。
大きくなればなるほど、キャビアは高いが、それはチョ
ウザメの品種によって決まっているのだ。
まあ、どちらにしろそれほど食べたいものではないの
で、「コチョウザメ」で充分だ。
なかなか姿が良い。

そんな「コチョウザメ」が来たので、観察のため底を
じっくり見ていたら、嘗て2センチほどの「小鮒」の
状態で、鯉の餌にでもなればいいと放流したものが、
なんと群れとなって泳いでいた。
一匹、生き延びたものは確認していたが、6匹も生き延
びていたのだ。
しかも、10センチほどになって。
確か、8匹か9匹放流したのだが、その内の6匹。
凄い確立で生き残ったものだ。
自然のものは、生命力が違うのか。
すかっかり地元民の顔をして、元気に泳ぎ回っている。
なんだか、五目池の様相である。

一方「滝壺ビオトープ」の最近は、その「コチョウザメ」
と一緒に、甥っ子が「ミナミヌマエビ」も大量に持って
きてそれを放したので、ちょっとしたエビ天国となって
いる。
流石に、この「滝壺ビオトープ」の大きさには多すぎる
ようで、日々本当の天国に召されている。
その遺体は、鯉の池に餌として投入。
ちょっとした食物連鎖である。
いずれ、淘汰され、適正の数に収まれば、今度は「ヤゴ」
との戦いが待っている。
今は、「ヤゴ」も冬に向かって活動が鈍くなっているが、
来年になればそれは本格化するだろう。
それにしても、「ミナミヌマエビ」はちょっと多すぎる。


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外れの日本映画

2008年11月10日 | 映画


例の航空幕僚長だが、太平洋戦争時であれば、本当に
頼りになる大将であったろう。
見るからに信念の人である。
しかし、信念の人というのは、時に思い込みが強い人
と同義語でもある。
自論に絶対的な自信を持つのは勝手だが、こういう立
場の人がここまで偏るのは、かなり問題だ。
本人は、そういう風に言う周りの状況こそが問題だと
思っているだろうが。
世が世なら、こういうタイプがクーデターの中心人物
だろう。
石原慎太郎などは、内心エールを送っているのではな
いか。
あと、本人は、歴代の首相の支持を得ているなどと証
言している。
同じ体質の首相として思い浮かぶのは、森(これは明
るみにでているし、同郷でもあるし、さもありなんで
ある)。
もう一人は、安倍ということになるか。
アパグループというのも、なんだか胡散臭さが付きま
とうし、この手の人間は今ひとつ信用できない。
過去の事実を、都合よく解釈する人間は、基本的に信
用は置けないのだ。
いろんな側面があるのが、物事なのだから。

「大日本人」という松本人志の映画があるが、確かこ
の映画、政治的な解釈で保守反動的と批判されていた
り支持されていたと思ったが、とりあえず、いろんな
見方がされる状況がより健全なのだと思う。
何故、いきなり「大日本人」かというと、ちょうど最
近、たまたま観たから。
そんな政治的な解釈は、多分、でてくる怪獣などを何
かの象徴として捉える故可能なのだろうが、はっきり
言って、映画自体はそれ以前の問題だった。

自分の遊びの延長で撮ったような作品でも、映画とし
て成立するのは成立するが、これは遊びのままだった。
映画のセンスを感じるところは、皆無に近い。
特別、シュールに感じるわけでもなく、耽美的でもない
し、物語として面白いわけでもなく、全体では悪評だ
らけだったが、この出来ではそれも仕方ない。
テレビ向きである。

実は、もう一本日本映画を観た。
「パビリオン山椒魚」という映画。
タイトルは面白そう。
しかし、...であった。
何となく、シュールなものを想像したが、これも「大日
本人」と同じく、全く観るべきところがなかった。
ひょっとすると「大日本人」よりもっと駄目かもしれな
い。
唯一の発見は、「オダギリジョー」はこの映画で「香椎
由宇」と出合ったのかということ。
それにしても、全てにおいて中途半端で、面白くないと
しか言いようがない映画だった。
なんだか、外れの日本映画を立て続けに観て、すっかり
損をした気分である。

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Yの落胆

2008年11月09日 | Weblog


ゲロゲロ少年Yが、血相を変えて(本当にそうだった)
やってきた。
何事かと思ったが、例のご贔屓の店の閉店に関しての
ことだろうことは想像がついたが、果たしてその通り
であった。
今さっきいつものようにその店にいったら、閉店の告
知があり、びっくりしてその報告でこちらに来たわけ
である。
思った通りの落胆ぶりで、どうしてですかと盛んに聞
いてくるが、こちらとしては詳しい事情を知っている
わけではないから、例によって適当に推測しながらY
に尤もらしい解説をした。

その店はパン屋なのだが、個人的にはチーズを食べる
時にはここの「バゲット」が欠かせない。
レトロタイプの「バゲット」で、間違いなくこの辺で
は一番の「バゲット」である。
元々が地元の人間ではないので、開業に当ってはそれ
なりの資金が必要だったろうし、いろんな面で大変だっ
たのは間違いない。
家族も出来、この先のことを考えての決断だと思うが、
あの「バゲット」が食べられなくなるのは、非常に残
念なことである。

Yのご贔屓の店が駄目になる法則は、以前書いたが、
実はそれは自分にも当てはまることでもある。
私のお気に入りで、流行ってるといったら、最近の「更
科」くらいなものである。
他は、消えていくばかりだ。
Yに魅入られると駄目になる、というのは、自分の残
念な気持ちをYのせいにして、何とかその気持ちを解
消しようとしての、かなり屈折した心理のなせる業だっ
たのである。
取り敢えずYのせいにしとけ、ということだ。
単に面白がって、とも言えるが。

そう言えば、唯一の本格チーズを売っているスーパー
だが、Yに教えたら、早速ご贔屓にしているらしい。
ということは、早晩、棚からそれらの「シェーブル」
は消えて、「カマンベール」や「ゴルゴンゾーラ」し
かない棚に変わることだろう。
厭な予感がする。
結局Yは、そういう役回りなのか。
これはもう、宿命だね。
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リーマンショック

2008年11月08日 | Weblog


はたまた昨日の続き。

「ところで、リーマンショックはどうですか?」(T君)
「いきなり経済の話?まあそれにしても日経平均はよく
落ちました」(私)
「これだけ落ちるとは誰も思ってなかったんじゃない
ですか」(T君)
「9000円くらいは予想してた人もいたけどね」(私)
「7000円を切るとはね」(T君)
「どっちにしろT君は関係ないんだから、もっと落ち
ればなんて思ってたんじゃないの」(私)
「確かに、でもあまり落ちると、例え株とか持ってな
くても景気が悪くなるわけだから、じわじわ影響が出
ますからね」(T君)
「そうなんだよね、結局誰にも何らかの影響があるか
ら決して他人事ですまないところがはた迷惑いえばは
た迷惑だ」(私)
「良い思いしてない人も巻き込むのが、腹立ちます」(T君)
「確かに」(私)

「しかし、今が買い時じゃないですか」(T君)
「そういう人に限って買わないんだけどね」(私)
「それはあります」(T君)
「こういう状況の時は、二三年持つつもりで、所謂優
良株を買うのが良いと思うけど、そういうことが出来
るのは結局金持ち、つまり、余剰資金が常に二三千万
あるような」(私)
「貧乏人は、今回の暴落で、完全に身動きが取れない
状態ですね」(T君)
「本当、世の中は上手く出来ていて、金持ちしか儲か
らないようになっている、というより、上手く出来る
人が金持ちになっているんだよね」(私)
「例えば、竹中平蔵とか」(T君)
「このところ風向きが悪くて、市場原理崇拝者として
いろいろ言われているけど、自分の資産運用は抜かり
ないんじゃないの、大衆心理をつかむのは上手そうだ
から、その逆を行く」(私)
「そうですかね」(T君)
「多分ね、しかし、経済学者も評論家も後付ばかりで、
あてにならない連中ばかりだよね」(私)
「いろんな理屈は言いますけど」(T君)
「サブプライム発端のクラッシュを前々から言ってた
のは、知る限り田中宙氏くらいだよ、考えてみると経
済評論家などそのシステムにどっぷりな人間は、それ
故よく見えないというのがあるんじゃないかな」(私)
「それは言えますね」(T君)
「しかし、資本主義経済の世界がなくなるわけじゃな
いから相場は続き、こんなカジノのようなものは長続
きはしないなどと言われても、お金があまれば再び加
熱し同じことが繰り返されるのは間違いない」(私)
「当分、静かですがね」(T君)
「欲がなくならない限り、絶対無くならないのが経済
活動、ということは、基本的に人間の業に根ざしたこ
とだから、理論どおりに展開しないのも当たり前と言
えば当たり前」(私)
「何だか、真面目な話題になりましたね」(T君)
「ところで、T君、勝負に出る?」(私)
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カフェ

2008年11月07日 | Weblog


昨日の続き。

「一番大変な仕事はパン屋だけど、逆に一番楽なのは
カフェというのはもう周知の事実、だよね」(私)
「まあ、だから皆やりたがるんだと思います」(T君)
「自分の趣味を生かせるし、圧倒的にのんびりと、と
いうイメージがあるし」(私)
「そうですよね」(T君)
「しかし、実際のんびりとしているということはそれ
だけ暇であり収入もないことを意味してるわけだから、
それだけで食っていくとしたら厳しいという現実もあ
る」(私)
「リタイアした人が、余裕の資金で始めるには最適で
すけど、採算を取ろうとすると難しいです」(T君)
「しかし、リタイアした人が開くカフェというより喫
茶店は、今ひとつ垢抜けないし、どうしても昔ながら
の喫茶店、珈琲専門店というイメージで、オープン
な感じがないんだよね」(私)
「カウンターに常連がいつもたむろしているってやつ
ですね」(T君)
「入り辛いことこのうえなしというあの空間」(私)
「そうなんですが、特に田舎の場合、カウンターとい
う存在はかなり重要なんですよ」(T君)
「結局、使う方は、空間を楽しむのではなく、マスター
との会話を求めているから、でしょう」(私)
「それなんですよ」(T君)
「いろんな人間の愚痴を聞く、ある種のカウンセラー
的立場が求められているわけだ」(私)
「全く興味のないことでも、合わせながらいろんな人
の相手は本当疲れます」(T君)
「確かに、仕事そのものは大したことなくても、人間
関係で疲れるというのがあるね」(私)

「結局、カフェと言っても、自分のイメージしている
ようなものは無理なんですよ」(T君)
「使う方に、そういうものを使う文化がないからって
ことだね」(私)
「ヨーロッパのように、生活の中にカフェが組み込ま
れているわけではないですからね」(T君)
「日本だとどうしても、常連の溜まり場、サークル活
動の拠点のような、一部の人のものという風になっちゃ
んうんだよね」(私)
「店主の個性を出せば、そういう趣味の人間が集まる
わけだから、僕の考えていたのも日本的な喫茶店と同
じことになっちゃいますけどね」(T君)
「ここは、同じカフェでも、ヨーロッパ型と、一時流
行った日本的な<まったりカフェ>を分けないといけ
ないね」(私)
「<まったりカフェ>にもならずに、結局は日本的喫
茶店という形になってしまう今の状況」(T君)
「そこが一番辛いとこか」(私)
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憧れの職業

2008年11月06日 | Weblog


カフェのT君と、女の子がやりたい店について話した。

「パン屋、ケーキ屋、花屋、カフェって所じゃないです
か」(T君)
「イメージで決めるわけだから、何となくおしゃれで
きれいなもの、でそういうことだよね」(私)
「イメージと実際じゃあ、違うんですけどね」(T君)
「理想の上司と同じで、この手のものは、自分の都合
のいいように作り上げての話だから、しょうがないよ」(私)
「実際の落差が一番なのはどれですかね」(T君)
「パン屋じゃないの、相当過酷な労働だから、よほど
パン作りが好きでなければ持たないでしょ」(私)
「そうですよね、設備費はかかるし、労働時間は長い
し」(T君)
「ああそれはちゃんと作ってという条件付きの話だけ
どね、今は冷凍物の業務用というのがあるから、一見
オリジナルのように見えて実は、というのが多いから」(私)
「確かに、カレーパンの中身とかだって、自分で作る
ところなんか滅多にないですよね」(T君)
「そこまで作ったら、それこそ24時間働かないと、
ということになるし下手に自分で作ると美味くないし
という問題もあるよ、でも今問題にしているのはパン
生地のことだから」(私)
「ああ、そうでした」(T君)

「で、ちゃんと作ったら、それがコンスタントに売れ
るかという経営的には一番重要な問題が控えてるわけ
だ」(私)
「翌日回しできないですからね、パンは」(T君)
「やってるところはあるけどね」(私)
「バゲットなんかは無理ですよね」(T君)
「ちゃんとしたところだったらね」(私)
「しかし、その日の分をきっちり売り切るのは難しい
ですよね、都会ならいざ知らず田舎では」(T君)
「そこが一番の問題だよね、たとえいいものを出して
も売れなきゃね、前回のブログと同じ話になるけど」(私)
「ええっ、何ですかそれは」(T君)
「実はちょうど、ブログにそういう内容のことを書いた
のよ」(私)
「そうだったんですか」(T君)

「でも、次から次とパン屋はできますよね」(T君)
「パン屋目指して修行している人はいるし、最終的
には店を開くが目標だから、次次にできる状況は当分
変わらないと思う」(私)
「しかし、どこも同じような店なんですよね」(T君)
「そこだよね、本当同じような店だよね、新たにでき
る店も」(私)
「個性を持つと受けないし」(T君)
「結局、客が分散し、それぞれにご贔屓が出来、どこ
そこの菓子パンが美味いという情報が飛び交ったりす
るようになるけど、どう見ても似たり寄ったりの戦い
という気がするし、こちらから見るとなんだか低レベ
ルの世界なんだよね」(私)
「調理パンなら、マヨネーズのグラタン味の戦いです
か」(T君)
「ライバルはコンビニ、のね」(私)
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潰れる法則

2008年11月04日 | Weblog


近所のカフカ君は(以後K)、いろいろやることが多
くちょっとお疲れ気味である。
そのやることというのが、仕事とは関係ない、いわば
雑用的なことなので尚更疲れを意識するようだ。
その疲れが、最近はすっかり顔に定着して、最早、そ
の冴えない状態が常態化している(ちょっとかけてみ
ました)ようにさえ見える。
それにしても、田舎というところは、いろんな雑用が
生まれるところである。
昔の人であったら、いい暇つぶしにもなったろうが。

また一つ、ある店の閉店情報が入ってきた。
本格ピザの「フォルマッジョ」のショックが癒えない
うちの新たな閉店情報である。
そこは、ゲロゲロ少年Yのご贔屓の店でもあり、彼は
殆ど毎週行ってるのではないだろうか。
多分、一番ショックなのはYのはず。
基本的に、Yに魅入られた店は経営的に駄目になるの
だが、今回もまた、それを証明することとなってしまっ
た。

その店は、「フォルマッジョ」と同じく、唯一、個人的
に美味しいと思うものを提供しているところだった。
同じジャンルの店は多いが、そこだけが頭一つ抜けて
いたのだ。
しかし、良い店はなくなるばかりである。
流行る店は、画一的な、最大公約数的店ばかりで、そ
れなりの個性を持った店は(こだわりのラーメンとか
ではなく、質の高いものを提供する店という意味)本
当に育たないところである、わが田舎は。
良いのは、自然環境だけだ。

まだ、Yはこの情報を知らないと思う。
知らされた時の反応には、ちょっと興味(下衆な)が
ある。
彼の生活のリズムには、その店も組み込まれているは
ずだから、他の人にとってのショックとは、その度合
いが違うのだ。
商売を続けていても将来性を感じないのなら、早めに
けりをつけたほうがいいと思うから、その店の閉店に
関してはしょうがないかと思うが、Yはそれでは納得
できないだろう。
こちらとしては、Yがご贔屓にしたから、駄目になった
んだよと言うだけである。
勿論冗談としてだが。
あとは、「クリヨー.ド.ヴァン」がその法則に当て
はまらないことを願うだけである。
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堕落の法則

2008年11月03日 | 食べ物


ある焼き鳥屋が、食中毒を出した。
これで二回目だ。
当然、営業停止になるわけだが、この辺は保健所も、
普段うるさい割にはゆるく、二度目と言えども三日程
度の期間である。
今回の場合、たまたまなのか、日常的に不備があるの
か、はたまた扱いに問題があったのか、よく知らない
が、悪質な場合を除いて、可能性としてはどこでもあ
りうることである。
いずれにしろ、店にとっては打撃であることにかわり
はない。
というのも、この店は、移転して新規オープンしたば
かりなのだ。
しかい、以前の店が流行ってなかったわけではない。
むしろ、人気の店であった。
ところが店主は、その規模の小さい点が不満であった
のだろう、大きい店にするために移転オープンを考え
た。
そして、食中毒だ。
オープンして二ヶ月でこの事態。
経費もかかるだろうし、何だか止めの一発という感じ
である。

一般的に焼き鳥屋のイメージは、小さな店舗で煙に包
まれむさぼるというものだが、それがまた魅力的でも
ある。
大きな店舗で、辺に洒落た内装は、むしろ馴染まない
と思う。
焼き鳥屋の風情というものは、そういう店では味わえ
ない。
前の店は、その点、ロケーションも良く(一軒家で、
周りは飲み屋街ではなく、ちょっと静かなところ)、
赤提灯的焼き鳥屋とも違い、ゆっくり味わえるなかな
か雰囲気のある店であった。
味も悪くなかった(比内地鶏だと思ったが)。
それで充分だと思ったが、店主が変な野心を持ってし
まったというわけだ。

繁盛した店が、店舗を広げた場合、殆どは質が落ちる。
これは、チェーン展開でも同じだが、そうした時点で
方針が質より量に変更したことを意味するから、内容
が良くなるわけがないのだ。
有名店で(いくつも支店のある)でいい店がないのは、
実に当たり前のことである。
職人が実業家になる瞬間だ。
それで成功すると、マスコミなんかで若手実業家など
ともてはやされ脚光を浴びる。
そんな姿を見ると、単純に憧れてしまうのだろう。
もっと儲けようという気持ちは、当然あるわけだから、
結果、大体同じ轍を踏むことになる。
そうやって、駄目になった例は、五万とあるのではな
いだろうか。
ここで問題とするのは、飽くまでも味で、駄目という
のは経営的な成功かどうかという意味ではない。

一般的な話としては、そういうことだと思うが、今回
の焼き鳥屋に関しては、もう以前の問題である。
移転の時に、周りの人間はほぼ100パーセント反対
したらしい。
食中毒は予想外であったが、経営的にも勝ち目がない
と皆思ったのだ。
客観的に判断すれば、誰もが解ることだった。
それにしても、厄介なのは野心である。

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鰯のパスタ

2008年11月02日 | 食べ物


「鰯のパスタ」を作ろうと思い、「オイルサーディン」
を探すが、見当たらないので近所のスーパーに行くも、
そこはあまりに品揃えがしょぼく置いてなく、仕方無
しに改めて自転車でデパートまで行く。
デパートと言っても田舎のこと、大きなスーパーには
あらゆる点で劣っているが、「アンチョビ」はなくて
も「オイルサーディン」くらいは置いてある、筈だ。
たかが「オイルサーディン」のために、ご苦労なこと
である。
予想通り「オイルサーディン」はあった。
160円。
これだけではあまりに寂しいので、何か他のものをと
思い棚を探索するが、ここが問題。
これだと言うものがないのだ。
デパートという名前が付いているが、あまりに寂しい
品揃えである。
いい機会だからと外国産の塩でも買うかと思ったが、
当然ない(買う人間がいないのだから仕方ないが)。
パスタは、他で同じものをもっと安く買えるし、ここ
でしか買えないものを、と思うのだが、本当にないの
だ。
しょうがないので、鰯のパスタに入れようと思い、黒
オリーブの瓶詰めを買った。
トータル600円ほど。
このくらいだったら、わざわざ来た甲斐もあった、か?

で、「鰯のパスタ」だが、パスタは「タリアテッレ」
を使うことにした。
理由は、残っていた量がちょうどだったから。
以前一回、オイルサーディンを使って作ったことがあ
るが、その時はいやに生臭くて美味くはなかった。
それで今回は、新しいレシピを参考に作ることにした。
「フェンネル」が合いそうなことは、経験上予想が付
いたが、シーズンも過ぎて手に入れられないのでそれ
は省略。
レシピに寄ると、最後に野菜も(ブロッコリーやトマト)
合わせるようになっていたが、それも省略。
今回は、飽くまでも鰯中心で行く。
ポイントは、鰯をパン粉と一緒にカリカリになるまで
炒めるところにあるようだ。

アンチョビペーストも使い、予定通りにカリカリになっ
た。
あとは「タリアテッレ」と合わせるだけだ。
黒オリーブも入れ、最終段階。
ちょっと、しっとり感が足りないが、完成。
さて、お味は。
カリカリの鰯は、旨味も凝縮して美味い。
臭みもない。
遠くにふりかけの味がする。
しかし、予想通りに、ちょっとぱさつく。
基本的には美味いのだが、水気がほしい。
レシピに野菜があったのは、こういうことか。
次回は、ジャガイモ(好みなので)を使ってより完成
形を目指そう。
それと、「タリアテッレ」との相性は良いと思う。
コメント (2)

蕎麦屋での粋な時間

2008年11月01日 | 食べ物


これだけ寒くなると、「滝壺ビオトープ」のヤゴは、
砂に潜ったままか、或いは、藻の中に隠れてたのか、
全く姿を見せない。
冬を越すまでは、もうこのままであろうか。
それより、ちょっと小石を移動して絡みついたゴミを
除去したのがまずかったのか、10ミリのヤゴ一匹が
ひっくり返って死んでいた。
移動した小石を戻したとき、圧死したのではないかと
思われる。
たかがヤゴ一匹であったが、非常に気分の悪い出来事
であった。
ヤゴ一号か二号か三号か判らないが、隊員を失った隊
長の気分はこういうものかと想像してしまった。

T君は、この前蕎麦屋(初めての)に行ったらしい。
元々がそれ程蕎麦が好きというわけでもないが、その
ときついでに蕎麦屋での過ごし方を教えようと思った
のだが(Y流の)、時間がなくて出来なかったのが心
残り。
それは、蕎麦屋での支払額の限度はどの程度までが許
容範囲なのかということにも関わってくる。
今回T君の頼んだものは、田舎蕎麦一枚1200円と
いうものだった。
これを聞いて、個人的には高いと思った。
脱サラ系モダン蕎麦屋では、この値段はそう珍しいも
のではないと思うが、珍しくはないかもしれないが、
食べに行こうとは思わない価格である。

今回のT君が行った店は、こういう脱サラモダン系で
はないらしく、古民家をそのまま蕎麦屋にしたという
店。
こういうのも、田舎には結構ある。
そして、そういう店は二タイプに分かれる。
蕎麦そのものも、田舎のおばちゃんが打つ、素朴なタ
イプを提供する民宿型と、外見は古民家でも、中はちょ
っと洗練された内装で、出す蕎麦も田舎、セイロ、更
級といくつか用意した洗練型の店とに。
で、今回のT君の行った店は、どうもこの中間のよう
なものであるらしい。
民宿型であったら価格はせいぜい800円まで。
価格からすれば、完全に洗練型或いは脱サラモダン系
だ(格好つけすぎと嫌う人間も多い)。
そして、店内はどうかというと、どうやら民宿型の、
普通の家そのままの雰囲気らしい。
ところが、出す蕎麦は、三種と脱サラモダン系(一茶
庵系というべきか)なのだ。
ということは、器は民宿型、中身は脱サラモダン系と
いうハイブリッド蕎麦屋であったのだ。

と、どうでもいい蕎麦屋分析はこの辺にして、一番T
君に言いたかったことは、その蕎麦屋での粋な時間の
過ごし方についてなのだ(Y流の)。
やはり、おつまみをいくつか頼み、お猪口を口に運び
時間を気にせずゆったり過ごすのが、粋な蕎麦屋のつ
かいかたなのだ。
支払額は、七八千円も厭わない(しつこいようだがこ
れがY流)。
つまり、1200円で高いなどと言ってたら、蕎麦屋
で粋な時間を過ごすことなど到底できないということ
なのだ。
私は、一生無理である。
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