会話を楽しむ, 加島祥造, 岩波新書 (新赤版)197, 1991年
・口下手な私としては「会話のハウツー本」的内容を期待したのですが、実際は西洋と日本の文化の対比を軸とした会話についての考察といった内容です。
・著者はフォークナーの作品の翻訳を手がけたり、最近では詩集『求めない』が話題になった方です。
・「楽しい会話が出来たらいいな」とは思っていても、結局は「今のままでも日常生活には支障ないから、まぁいいか」と開き直ってしまう所が問題のようです。貪欲さが足りない。「会話を楽しむ」ためにはどうしたらよいか? まず手をつけるとしたら、ネタの収集でしょうか。会話はよくキャッチボールに例えられますが、ボールが無けりゃそもそも成立しませんし。次は、受け取ってもらえるかも分からぬ人へ、まずはボールを投げる勇気を持つこと。そして、ボールの上手な投げ方・受け方は後からじっくり研究することにして。
結論→「よく遊び、よく学べ」。
・「私が中心とするのは「生きた会話」であり、「楽しみと喜びの会話」であり、そこから会話の本当の姿をとらえようとする。それがこの小さな本の主題だとまず言っておきたい。」p.7
・「私たちの日常生活はいかに「楽しくない会話」や「喜びのない会話」に占められていることか。私たちの会話はいかにただの実用だけの会話に終わっていることか――この現実にまず目を向けておきたい。」p.10
・「あえて言えば、平凡な会話などなくて、その状況が死んでいるだけだ。平凡な話し手があるのでなくて、その人の心が死んでいるだけだ。」p.23
・「しかし少し進んだレベルでのこととなると、日本人の英会話下手は相変わらずである。呆れるほど下手だと言いたい。」p.26
・「ひと口に言えば、私たちは会話に対してかなり無意識で無自覚であるのだ。 欧米の人の会話意識は、私たちに比べるとかなり濃い。」p.27
・「私たちは弁舌よりも寡黙のなかに深い意味の伝達方法をさぐってきた。たえ間ない饒舌よりも言葉の連鎖のあい間や余韻のなかに、言葉の美を求めてきた。明るい派手な表現よりも、地味で簡素な表現をさぐってきた。 それは日本伝来の諸芸能と通じる美質だ。「道」という名のつく諸芸はみなこうした寡黙な伝達を重んじた。花道、茶道、香道、歌道から武道諸芸にいたるまで、「道」と名のつくものは、語りえないところを伝達することをもって「道」としてきたのであった。」p.33
・「良寛の戒語に共通するのは、すべて言葉に気をつけろということであり、それは自己中心になるな、手前勝手に喋るな、という点でもある。ところがこうした態度の反対側の態度こそ、英語の会話のなかでは、むしろ大切なのだ。」p.38
・「私は日本人が伝来してきたこの洗練、この美意識を尊敬している。私たちが「会話」の面白さを犠牲にして保ってきた清和な喜びや諧和の喜び――これは大切な美質だ。」p.38
・「わが国では女性のほうが、いっぱんにこういった「つけ足し」の表現を用いる。しばしば人間的タッチの言葉を使う。女性のほうが、ずっと「英語での会話」にちかい会話をしている。」p.46
・「アメリカの文人 O.W.ホームズの言うように、「よく喋る(スピーク)する人というのは、けっして話さ(トーク)ない」。トークは「話」を指し、スピークは「一人合点のお喋り」を指す。ついでにスピーチとカンバセーションの違いについても一例を出しておこう―― 「彼女には手を焼くよ、なぜって彼女は会話(カンバセーション)の能力は無いのにお喋り(スピーチ)の力はあるんだからね。」(バーナード・ショー)」p.58
・「会話の最大のこつは相手の話を聞いてやることだ。これはよく言われることで、また間違ってもいないが、なかなか実行しがたい。」p.70
・「なかに「退屈屋」 a bore と仇名される人がいる。 a bore とは意訳すれば「人を退屈させる人」である。私たちの常識では、退屈な人といえば、口下手で話がはずまない人のことだが、彼らはひとり勝手に喋りまくって人を退屈させる人も指す。 欧米人は「退屈さ」に対してとても意識的であり、その原因となる退屈な人を敏感に感じとる。」p.100
・「自然は人間に舌をひとつ、耳をふたつ備えてくれた。なぜかというと、人は自分の喋る量の二倍だけ相手の話を聞くように、つくられたからだ。 ――エピクテイタス――」p.127
・「自分はどう感じるか、自分はどう考えるか――これが会話意識の中心であるべきなのに、相手はどう感じているのか、どう考えているのか――この方向に意識が働きがちなのである。」p.138
・「私たちは「言ってはならぬこと」を意識しすぎて自制し、その結果、黙りがちとなり、会話が活発にならず、それで互いが退屈する。そういう傾向のほうがつよい。(中略)まずそういう心のなかの「枠はずし」によって、生きた会話の復活にむかいたい。」p.141
・「欧米の人たちは会話を「楽しむ」――少なくとも「楽しもうとする」意識を持つが、現代の私たちは、会話に最も大切な「楽しむ」ためのルールも技術もまったくない。」p.147
・「社会生活というものは、どんな体制の社会にしろ、またどんな時代にせよ、閉じがちな心を基本にして成っている。(中略)私たちのなかに「会話」が次第に衰えてきたのは、いくつもの原因があるが、この一点も見のがせない。」p.164
・「実際、会話とは自分の考えをのべることを第一とするが、同時に他の人々の意見や考えを受け容れることが第二のルールだ。」p.166
・「ダブル・スタンダードを持つことは日本人が漢文化を受け容れた時にはじまった。そして長い歴史を通じて次第にその使い方を深め、洗練し、ほとんど無自覚に生活のなかで使い分けるまでになった。(中略)このように衣食住にわたって見事に自国文化と外国文化を使い分ける器用さは、比類のないものだと言えよう。」p.168
・「このように私たちの心は縦割りと横割りの区別意識や差別意識に縛られている。細分化されている。まずはその自分の心理の現実を知ることだ。(中略)心を開くということを具体的に説くとすれば、まず自分の縦割り意識と横割意識のドアーを、開けることだ。(中略)「会話」という尊い人間交流の磁場は、「人間的対等観」と「開いた心」の二本柱が大切なのだ。この二点をわずかでも心にしまっている人たちが、会話の生命力を維持してゆく。」p.177
・「私たちの会話での第一の心理的障害はなんだろうか。 「こんなことを喋ったら、人にどう思われるか分からない」」p.179
・「私たちは日本語での会話の時のおもんぱかりをすべて捨て、心理的束縛をすっかり切り離し、自分の英語の下手さかげんも忘れて、「胸中にあること」を喋ってかまわない。たぶんその程度のことが、西洋人の会話におけるスタンダードなのだ。」p.180
・「ここでヴォルテールの有名な言葉を再び出しておきたい。――「私は君の言うことを承認しない。しかし君がそれを言う権利は死を賭しても守ろう」」p.181
・「たぶん現在までが(二十世紀の終わりまでが)、日本人の形式的会話の最盛期であり、次の世紀になれば、わが国でもこの形式会話はぐんと減少するのではなかろうか。」p.190
・「会話とは宇宙エナジーを感じる場として、どんな芸術よりもナマでジカな場なのである。対話にしろグループでの間にしろ、それは各人の前人格が呼気(ブレス)を通して交流する場なのだ。」p.197
・「まず変な実例から入ってゆくが、英会話に私が上達した原因は「独り会話」にあった。」p.206
・「すべてはその場の状況と条件によるのであり、会話には一定のルールはない。死んだ会話はルールでいっぱいだが、生きた会話はルールがない。ルールで縛れば死ぬのだ。あえて挙げるとすれば、実利実用の目的を忘れること、おのれの自我(エゴ)を忘れること――これだけは生きた会話へ導く水路の関門といえよう。あとは私たちの興味や心のまま、静かな話に、陽気な話に赴けばいいのであろう。」p.214
・口下手な私としては「会話のハウツー本」的内容を期待したのですが、実際は西洋と日本の文化の対比を軸とした会話についての考察といった内容です。
・著者はフォークナーの作品の翻訳を手がけたり、最近では詩集『求めない』が話題になった方です。
・「楽しい会話が出来たらいいな」とは思っていても、結局は「今のままでも日常生活には支障ないから、まぁいいか」と開き直ってしまう所が問題のようです。貪欲さが足りない。「会話を楽しむ」ためにはどうしたらよいか? まず手をつけるとしたら、ネタの収集でしょうか。会話はよくキャッチボールに例えられますが、ボールが無けりゃそもそも成立しませんし。次は、受け取ってもらえるかも分からぬ人へ、まずはボールを投げる勇気を持つこと。そして、ボールの上手な投げ方・受け方は後からじっくり研究することにして。
結論→「よく遊び、よく学べ」。
・「私が中心とするのは「生きた会話」であり、「楽しみと喜びの会話」であり、そこから会話の本当の姿をとらえようとする。それがこの小さな本の主題だとまず言っておきたい。」p.7
・「私たちの日常生活はいかに「楽しくない会話」や「喜びのない会話」に占められていることか。私たちの会話はいかにただの実用だけの会話に終わっていることか――この現実にまず目を向けておきたい。」p.10
・「あえて言えば、平凡な会話などなくて、その状況が死んでいるだけだ。平凡な話し手があるのでなくて、その人の心が死んでいるだけだ。」p.23
・「しかし少し進んだレベルでのこととなると、日本人の英会話下手は相変わらずである。呆れるほど下手だと言いたい。」p.26
・「ひと口に言えば、私たちは会話に対してかなり無意識で無自覚であるのだ。 欧米の人の会話意識は、私たちに比べるとかなり濃い。」p.27
・「私たちは弁舌よりも寡黙のなかに深い意味の伝達方法をさぐってきた。たえ間ない饒舌よりも言葉の連鎖のあい間や余韻のなかに、言葉の美を求めてきた。明るい派手な表現よりも、地味で簡素な表現をさぐってきた。 それは日本伝来の諸芸能と通じる美質だ。「道」という名のつく諸芸はみなこうした寡黙な伝達を重んじた。花道、茶道、香道、歌道から武道諸芸にいたるまで、「道」と名のつくものは、語りえないところを伝達することをもって「道」としてきたのであった。」p.33
・「良寛の戒語に共通するのは、すべて言葉に気をつけろということであり、それは自己中心になるな、手前勝手に喋るな、という点でもある。ところがこうした態度の反対側の態度こそ、英語の会話のなかでは、むしろ大切なのだ。」p.38
・「私は日本人が伝来してきたこの洗練、この美意識を尊敬している。私たちが「会話」の面白さを犠牲にして保ってきた清和な喜びや諧和の喜び――これは大切な美質だ。」p.38
・「わが国では女性のほうが、いっぱんにこういった「つけ足し」の表現を用いる。しばしば人間的タッチの言葉を使う。女性のほうが、ずっと「英語での会話」にちかい会話をしている。」p.46
・「アメリカの文人 O.W.ホームズの言うように、「よく喋る(スピーク)する人というのは、けっして話さ(トーク)ない」。トークは「話」を指し、スピークは「一人合点のお喋り」を指す。ついでにスピーチとカンバセーションの違いについても一例を出しておこう―― 「彼女には手を焼くよ、なぜって彼女は会話(カンバセーション)の能力は無いのにお喋り(スピーチ)の力はあるんだからね。」(バーナード・ショー)」p.58
・「会話の最大のこつは相手の話を聞いてやることだ。これはよく言われることで、また間違ってもいないが、なかなか実行しがたい。」p.70
・「なかに「退屈屋」 a bore と仇名される人がいる。 a bore とは意訳すれば「人を退屈させる人」である。私たちの常識では、退屈な人といえば、口下手で話がはずまない人のことだが、彼らはひとり勝手に喋りまくって人を退屈させる人も指す。 欧米人は「退屈さ」に対してとても意識的であり、その原因となる退屈な人を敏感に感じとる。」p.100
・「自然は人間に舌をひとつ、耳をふたつ備えてくれた。なぜかというと、人は自分の喋る量の二倍だけ相手の話を聞くように、つくられたからだ。 ――エピクテイタス――」p.127
・「自分はどう感じるか、自分はどう考えるか――これが会話意識の中心であるべきなのに、相手はどう感じているのか、どう考えているのか――この方向に意識が働きがちなのである。」p.138
・「私たちは「言ってはならぬこと」を意識しすぎて自制し、その結果、黙りがちとなり、会話が活発にならず、それで互いが退屈する。そういう傾向のほうがつよい。(中略)まずそういう心のなかの「枠はずし」によって、生きた会話の復活にむかいたい。」p.141
・「欧米の人たちは会話を「楽しむ」――少なくとも「楽しもうとする」意識を持つが、現代の私たちは、会話に最も大切な「楽しむ」ためのルールも技術もまったくない。」p.147
・「社会生活というものは、どんな体制の社会にしろ、またどんな時代にせよ、閉じがちな心を基本にして成っている。(中略)私たちのなかに「会話」が次第に衰えてきたのは、いくつもの原因があるが、この一点も見のがせない。」p.164
・「実際、会話とは自分の考えをのべることを第一とするが、同時に他の人々の意見や考えを受け容れることが第二のルールだ。」p.166
・「ダブル・スタンダードを持つことは日本人が漢文化を受け容れた時にはじまった。そして長い歴史を通じて次第にその使い方を深め、洗練し、ほとんど無自覚に生活のなかで使い分けるまでになった。(中略)このように衣食住にわたって見事に自国文化と外国文化を使い分ける器用さは、比類のないものだと言えよう。」p.168
・「このように私たちの心は縦割りと横割りの区別意識や差別意識に縛られている。細分化されている。まずはその自分の心理の現実を知ることだ。(中略)心を開くということを具体的に説くとすれば、まず自分の縦割り意識と横割意識のドアーを、開けることだ。(中略)「会話」という尊い人間交流の磁場は、「人間的対等観」と「開いた心」の二本柱が大切なのだ。この二点をわずかでも心にしまっている人たちが、会話の生命力を維持してゆく。」p.177
・「私たちの会話での第一の心理的障害はなんだろうか。 「こんなことを喋ったら、人にどう思われるか分からない」」p.179
・「私たちは日本語での会話の時のおもんぱかりをすべて捨て、心理的束縛をすっかり切り離し、自分の英語の下手さかげんも忘れて、「胸中にあること」を喋ってかまわない。たぶんその程度のことが、西洋人の会話におけるスタンダードなのだ。」p.180
・「ここでヴォルテールの有名な言葉を再び出しておきたい。――「私は君の言うことを承認しない。しかし君がそれを言う権利は死を賭しても守ろう」」p.181
・「たぶん現在までが(二十世紀の終わりまでが)、日本人の形式的会話の最盛期であり、次の世紀になれば、わが国でもこの形式会話はぐんと減少するのではなかろうか。」p.190
・「会話とは宇宙エナジーを感じる場として、どんな芸術よりもナマでジカな場なのである。対話にしろグループでの間にしろ、それは各人の前人格が呼気(ブレス)を通して交流する場なのだ。」p.197
・「まず変な実例から入ってゆくが、英会話に私が上達した原因は「独り会話」にあった。」p.206
・「すべてはその場の状況と条件によるのであり、会話には一定のルールはない。死んだ会話はルールでいっぱいだが、生きた会話はルールがない。ルールで縛れば死ぬのだ。あえて挙げるとすれば、実利実用の目的を忘れること、おのれの自我(エゴ)を忘れること――これだけは生きた会話へ導く水路の関門といえよう。あとは私たちの興味や心のまま、静かな話に、陽気な話に赴けばいいのであろう。」p.214