ぴかりんの頭の中味

主に食べ歩きの記録。北海道室蘭市在住。

【食】BRASSERIE PAUL BOCUSE Le Musee [洋食@東京・六本木]

2011年02月23日 22時02分39秒 | 外食記録2011
BRASSERIE PAUL BOCUSE Le Musee(ブラッスリー ポール・ボキューズ ミュゼ)[洋食@東京・六本木][HomePage][国立新美術館][食べログ]
2011.1.5(水)11:00入店(初)
注文 本日のランチセット 1800円 +コーヒー380円

  
・東京六本木の国立新美術館にて展覧会を鑑賞後、美術館に付属のレストランで食事をとることに。美術館の広大なロビーの真ん中にたつ、巨大な逆円錐の台の上に店舗があります。
  
・案内されたのは円錐の縁に沿ってずらりと並んだテーブルの一席で、いかにも美術館といったしゃれた雰囲気です。席数は正確には分かりませんが大小あわせて少なくとも30卓はありそうで、かなりの広さ。目の前はガラス張りの壁面で、日の光がさんさんと差し込みます。
 
・テーブルセッティング。こちらはフランスに本店を置く、東京を中心に展開するフランス料理のチェーンの支店です。"Restaurant" よりも気軽に料理を味わうことのできる "Brasserie" という位置付け。入口のメニューを覗き、いちばん簡単なランチセットが1800円だったので、「この値段なら」と入店。

・メイン料理『豚ロース肉のロースト リヨン風グラタン添え ソース・シャルキュティエール』
   
・メインとデザートのみの簡単なセット料理なので、いきなりメイン料理が登場。目測約150gの豚肉ステーキ。マスタード風味のする白ワインソースがかかり、卒の無い味。付け合せのグラタンには大きなマカロニとチーズが入っています。味とともに量的にも上品で、丼いっぱいかきこみたい気持ちに。

・背景に黒いリュックが入り、台なしになってしまった写真例。背景など、実はあれこれ気を遣いながらの撮影です。
 
・付属の棒状のパン。表面はカリカリで、手でちぎるとパンクズでかなり散らかってしまい、食べるのに難儀しました。パンだけやたら多く感じましたが、他のレポートを見ると、二名の場合も同量のようです。また店員さんより「フランス産の特製バターを500円でお付けできますが……」とのお勧めもありましたが、「バターが500円!?」と動揺しつつも丁重にお断りしておきました。

・デザート『"ムッシュ ポール ボキューズ" のクレーム・ブリュレ』
  
・クレーム・ブリュレは大きな皿で登場しますが、その厚みは目測8mmほど。店の雰囲気から想定内の量だったので、特に驚くことも無く。
  
・デザートが出てきたときに、店員さんからの「別料金で飲み物もお付けできますが……」との言葉を聞き、飲み物も当然付いているものだと思っていた私は、「うわっ! やられたー!」と心の中で絶叫。しかし表面上は平静を装い、「じゃあコーヒーお願いします」とそのまま注文。よっぽど値段を確認しようかと思いましたが、妙な見栄心から聞くことができず、「700円くらい取られたらどうしよう……」とドキドキしながらコーヒーをすする。結果、380円と普通の値段でホッとしましたが、二千円以内で済むと思っていた代金が思わぬ形でかさんでしまい、ちょっと釈然としない気分に。コーヒーは、テーブル上でポットからついでもらう形で、味のバランスがよくなかなか美味しいコーヒーでした。カップは、取っ手に穴の無い変った形状をしていましたが、これが意外にも持ちやすくできており、その造りに感心してしまいました。
・食事中に見かけた客は私の他に一組のみと、明らかに客よりもスタッフの方が多く、「こんな客の入りで大丈夫なのだろうか」とちょっと心配になるような店の様子でしたが、年始の平日の早い時間帯でたまたま空いていただけなのでしょうか。

  
[Canon PowerShot S90]
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【本】ローマ人の物語 21・22・23 危機と克服

2011年02月23日 19時01分59秒 | 読書記録
ローマ人の物語 21・22・23 危機と克服(上)(中)(下), 塩野七生, 新潮文庫 し-12-71・72・73(7782・7783・7784), 2005年
・古代ローマの長大な興亡記。前巻の皇帝ネロの時代に引き続き、今回はガルバ(在位 紀元68~69年)、オトー(69年)、ヴィテリウス(69年)、ヴェスパシアヌス(69~79年)、ティトゥス(79~81年)、ドミティアヌス(81~96年)、ネルヴァ(96~98年)、の7皇帝、約30年間の様子を描く。
・これだけ話が長くなると、そろそろ何が何だかわからない状況に。カエサルの時代を頂点にして、その後は話のグダグダ感が強くなる一方です。それでも全15集のうちの第8集めと、ようやく中間点に来たところ。まだまだ先は長い。
・「また、危機とは常にネガティブな現象か、という疑問だって生じてくる。まずもって人間には、自らが生きた時代の危機を、他のどの時代の危機よりも厳しいと感じてしまう性向がある。そのうえ、ローマの歴史とて、すべてが良い調子で進行したから興隆し、その後はすべてが悪く進んだから衰退したのではない。ローマ人とは、紀元前753年の建国以来、幾度となく襲ってきた危機を克服していくうちに興隆を果たした民族なのである。」上巻p.19
・「ローマ人の歴史とは、「危機と克服の歴史」と言い換えてもよいとさえ思う。  ただし、興隆途上の危機とその克服はさらなる繁栄につながったが、衰退期に入ると、危機は克服できても、それはもはやさらなる繁栄にはつながらなくなってしまう。危機は克服したのになぜそれはさらなる反映につながらなかったのか、への答えの追求こそが、ローマ帝国の滅亡の要因に迫ることではないかと、この頃では考えるくらいだ。」上巻p.21
・「勝敗を分けたのは、ヴィテリウス側の指揮官たちの力量がオトー軍の将たちの力量をしのいでいたからではない。ローマ軍では最強と評判の高い「ライン軍団」の兵士たちの戦闘力を見せつけて、混成軍のオトー軍を圧倒したのでもなかった。同胞相手に戦うことへのためらいが、オトー軍の兵士たちのほうにより強かっただけである。」上巻p.109
・「古代のローマでは、四十代から五十代が男の盛りとされていた。」上巻p.121
・「それでも断ったのは、ローマ人は、自分たちの間では争っても、それに他国を引き込むまではしないことでは一貫していたからである。マリウスとスッラのときも、カエサルとポンペイウスの時代も、アウグストゥスとマルクス・アントニウスのときも、他民族を巻きこんだ例は皆無だった。紀元69年のこのときも、三人とも、断るのに迷いもしなかったと確信する。」上巻p.144
・「戦闘という人類がどうしても超越できない悪がもつ唯一の利点は、それに訴えることで、これまで解決できないでいた問題を一挙に解決できる点にある。」上巻p.181
・「あらゆる分野でラテン語使用を強要しなかったローマ人だったが、軍隊内の用語だけはラテン語で統一している。出身部族がちがう兵士が潜入しても、ラテン語で話すかぎりは言語で露見する危険はなかった。」中巻p.50
・「(ユダヤ民族の)特殊性の第二は、彼らがすこぶる優秀な民族であることだった。支配者から見れば、優秀な民族のほうが支配しにくいのである。優秀でなければ、底辺に押さえこんでも反抗する能力も気力もないからだ。」中巻p.85
・「敬虔なユダヤ教徒がよく口にするのは、次の一句である。「唯一神のみが、われわれの主人である。その神を奉じた政体の国家の樹立にこそ、われわれの自由は捧げられるべきなのだ。ゆえに、この自由のないところでは、死さえも取るに足らないことでしかない」  ユダヤ教徒にとっての自死は、彼らの考える「自由」が得られない場合のごく当然の帰結なのであった。」中巻p.114
・「ユダヤ人ほどではなくても、ローマ人だって迷信深かった。にわとりの餌のついばみ方がよければ、吉兆だと兵士たちは喜んだのだ。しかし、ローマの指導層は、共和政・帝政を問わず常に醒めていた。前日からにわとりに餌をやらないでおくようにと、陰では命じていたのだから。」中巻p.118
・「誰かが演出した、日本でいう "やらせ" だと思うが、これより四十年ほど前にイエス・キリストが行った奇跡も、盲人に視力を回復させ、いざりに立ちあがらせるのではなかったか。奇跡も、内蔵の病を治すなどというのでは不適当なのだろう。快癒のパフォーマンスも、はっきりと誰にも見えるたぐいでないと効果は見込めないにちがいない。ローマ皇帝ヴェスパシアヌスも、イエス・キリスト並みの奇跡を行ったことになる。」中巻p.150
・「ローマの武将たちの多くに共通する特色は、武人らしい見栄、ないしは虚栄心に無縁であった点である。彼らは、少数の敵を多数で攻めることに何のためらいもなかった。」中巻p.153
・「私が、指導者としてのヴェスパシアヌスの力量に最高点を与える気になれないのは、法制化しようと所詮は完全な解決などありえないことの、法制化を決行したからである。法律といえども、それを考えた人の人格を映し出さないではすまないのであろう。」中巻p.180
・「現代でも、都市ローマをイラスト一つで表現したいと思えば、誰でもコロッセウム(イタリア語ならばコロッセオ)をもってくるだろう。これを建設させたのがヴェスパシアヌス帝である。」中巻p.198
・「ローマ帝国の国家財政の詳細については、研究者たちの必死の努力にもかかわらず、現代に至ってもなおわかっていない。おそらくこれからも、明確になるのは望めないだろう。(中略)広く浅く取ることを目指した税制こそが善政の根幹であることを熟知していたローマの皇帝たちが、基本的にはシンプルな税制を維持しながらも個々ではケース・バイ・ケースで臨んだために、それらをすべて把握するに充分な資料が遺っていないからである。」中巻p.206
・「あるときに宮沢喜一氏と同席したので、この経済の専門家に、年来の疑問をぶつけてみたのである。ローマ帝国に比べれば現代の先進国はいずれも税率が高いのですが、なぜでしょうか、と。宮沢氏の答えは、社会福祉費のせいでしょうね、というものだった。  では、古代のローマには、社会福祉のための歳出はなかったのであろうか。」中巻p.211
・「ローマ帝国時代の首都ローマを復元した地図の中で、病院と並んで存在しないもう一つの大規模な公共施設は、学校なのである。」中巻p.220
・「このカエサル方式は、ローマ帝国が存在した間機能しつづける。医療と教育を民活にゆだねることで一貫したこの方針が、ローマの社会福祉費が国家財政を圧迫するまでには至らなかった要因ではないかと思う。要するにローマ帝国は、国家がやらねばならないこと以外の全ては民間に委託するという方針で一貫したがゆえに、現代でいう「小さな政府」を実現化できたのではないか。」中巻p.222
・「医療に関してのローマ人の考え方は、彼らの死生観に起因していたのではないかと思う。(中略)ローマ人は、自らの生命をいかなる手段に訴えても延長しようとする考えには無縁であったのだ。社会的にも知的にも高いローマ人になればなるほど、頭脳的にも精神的にも肉体的にも、消耗しつくした後でもなお生きのびるのを嫌ったのである。だからこそ、生命ある間を存分に生きる重要さを説いた、ストア哲学の教えが浸透したのではないかと思う。」中巻p.224
・「ローマ人は、寝台式の台の上にマットレス状のものを敷き、その上に片ひじでささえる形で横になった姿勢で食事をしないと、食事の名には値しないと考えていた。テーブルを前に椅子に坐って食べるのは、子供か奴隷の食事の仕方で、食堂に一室をさける程度の家に住む人の食事の仕方ではないと思っていた。ただし、こうもくつろぐ食事の愉しみ方は、ローマ時代でも夕食に限られていた。」下巻p.44
・「元老院による「記録抹殺系(ダムナーティオ・メモリアエ)」とは、元老院による報復措置ではなかったか。報復とはしばしば、理性ではなく感情の所産であることを忘れるわけにはいかないのである。」下巻p.60
・「歴史家ギボンは、ローマがなぜ滅亡したのかと問うよりも、ローマがなぜあれほども長く存続できたのかを問うべきである、と言った。多民族、他宗教、多文化という、国家としてはまとまりにくい帝国であったにかかわらず、なぜあれほども長命を保てたのか、ということのほうを問題にすべきだ、という意味である。だが、それに対する答えならば簡単だ。ローマ人が他民族を支配するのではなく、他民族までローマ人にしてしまったからである。大英帝国の衰退は各植民地の独立に寄るが、ローマ帝国では、各属州の独立ないし離反は、最後の最後まで起こっていない。」下巻p.69
・「ローマ人の考える「フォールム化」とは、四辺のうちの一辺には神殿を建て、残りの三辺のすべてを列柱回廊で囲むということである。列柱回廊の奥は店か事務所かに使われるのが通例のこの建築様式は、ローマ人が好んだ空間の利用法でもあった。」下巻p.75
・「考えてみれば、ローマ帝国全体が、共同体が考えて行うことと個人が考え行うことの双方で運営されていたように思う。国家としては未発達であるのかもしれないが、これで意外とよく機能していたのだから面白い。」下巻p.106
・「こうしてローマは、国境の外にもいくつかの友好部族をもつ政略をつづけていた。「分離し、支配せよ」の政略(ストラテジア)であった。  それゆえ、国境の外に住む部族の存在が脅威だったのではない。それらの部族が団結することが、脅威であったのだ。」下巻p.138
・「作家だからと言って勝手気ままに書くわけではなく、対象に選んだからにはそれについての調査と研究が必要になる。ゆえに、調査研究の必要度ならば学者も作家も差はないのだが、それに取り組む姿勢となると、学者と作家とではちがうように思う。そのちがいを一言で片づければ、学者には史料を信ずる傾向が強いが、作家は、史料があっても、それらを頭からは信じない、としてよいかと思う。」下巻p.142
・「学者ではない私自身の人間性への観方だが、ローマ史を書きつづけるに際して私が、自分の判断の基準にしたことが一つある。  それは、最高統治者である皇帝が成したことが共同体(レス・プブリカ)、つまり国家にとって良いことであったか否かを判定するにあたって、タキトゥスをはじめとする歴史家の評価よりも、その皇帝の後に続いた皇帝たちが、彼が行った政策ないし事業を継承したか、それとも継承しなかったか、のほうを判断の基準にすえたのである。  この「計器」を用いれば、ローマ史上最高の統治者は、何と言ってもやはりカエサルとアウグストゥスである。ローマ帝国とは結局、この二人が創ったのだ。ローマ人もこの二人だけを「神君」と呼びつづけたのだから、同感であったのにちがいない。」下巻p.143

《関連記事》
【本】ローマ人の物語 17・18・19・20 悪名高き皇帝たち(2009.10.20)
【本】ローマ人の物語 14・15・16 パクス・ロマーナ(2008.10.13)
【本】ローマ人の物語 11・12・13 ユリウス・カエサル ルビコン以後(2008.1.9)
【本】ローマ人の物語 8・9・10 ユリウス・カエサル ルビコン以前(2007.6.20)
【本】ローマ人の物語 6・7 勝者の混迷(2007.3.10)
【本】ローマ人の物語 3・4・5 ハンニバル戦記(2006.11.25)
【本】ローマ人の物語 1・2 ローマは一日にして成らず(2006.5.26)
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【社】亀の子石(横浜・本牧三之谷)

2011年02月23日 08時01分58秒 | 参拝記録
亀の子石(横浜・本牧三之谷) 参拝日 2010.4.3(土) [Yahoo!地図]

・前出『三渓園』から幹線道路沿いのバス停に向かう途中、気になる場所があったので立ち寄ってみました。三渓園の入口より100mほど離れた道路沿いです。
 
・家一軒分も無いような狭い敷地にたつ、赤くて小さな鳥居にかかった額には『亀の子様』の文字。鳥居の脇には『亀の子石の由来』と題した看板が。

・敷地内にあった水盤。
  
・亀の子石の石碑。

・石碑の前にはタワシがいくつか転がっていました。亀の子石の本体とは、このタワシが乗ったデコボコの石を指すのでしょうか。

・石碑前より振り返った図。今回は神社に分類してよいのかどうか微妙な雰囲気の場所でしたが、一応【参拝記録】のカテゴリーへ。案外、神に仰々しい名など付かない方が、神社古来の姿なのかもしれません。

[Canon EOS 50D + EF-S17-55IS]
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