Re:ゼロから始める異世界生活
第25話 ただそれだけの物語 とただのまとめ △++
信用の物語
基本的に無力なんすよね、スバルくん。
そう「自分ひとりでは何もできない」のだ、よく言うように
そして「何もできなかった時」に彼とその周りの人達にどんな
災厄がふりかかるのか、よく知っていることとおもわれる
いや、むしろ「そっちを見るのがたのしみ」っちゅう不謹慎な
御仁もおられたこととおもわれる。
そういうギャップによるカタルシスを得る為に
「繰り返す時」っちゅう設定はまことに適合しているとおもう
というか「小説」の王道ですらあるような、そんな構造ではある。
そしてそこで弱音をはき、呪詛をとなえるのに正しく値するのは
「無力なニート」っちゅうきわめて現代的な「主人公」なんだろう。
そして「現代」が舞台ならそのままにやればよいところを
「異世界生活」で「異邦人」に正しくふりかかる「ひでえ目」が
精確で、すばらしかったとおもう。しかも「環境」が替われば
その非道い目のあいかたも千差万別で、実にたのしかったかと。
「このすば」で戯画化していたものがちゃんと襲ってくれば
そりゃ「コンテニュー」でもしないとやってられないわな。
ただ、その酷い状況を逆転する「鍵」もそこで知見になる
「キャラ」とそのなりにかかっているわけで
彼等の力量と魅力の際立ち方のなんとも見事なもので
そういう人達の「信用」をかちとる為の努力と血と涙によって
このおはなしは綴られていたとおもう。
あとはま、そのスバルを支える2つの面「エミリアを助ける」っていう目的と
「レムに助けられる」っていう支援、なんともオトコノコとしては
うらやましい状況ですわなあ、そういうところも「異世界」においては
「あり」として成立していたかとおもう、閻魔の靴も
女神の尻も両方嘗めたような、そういうはばの大きさに
くらくらさせられたね、毎週。
Rewrite 第13話 君とかわした約束 とここまでのまとめ △(+)
「何かが足りなかった」のかそれとも「どの道こうなる」のか
よく分からなかったけど、とりあえずこうなりましたという。
たしかにまあ「うるわしき青春」も「やけつくような恋」も足りなかった気がするわな
それは「1クール」っちゅう縛りってのもあるし「Key」的に
「繰り返し」てきた「青春劇」をどこかで当の作り手側が信じ切れなく
なっている、ってのがあるのかもしれない。
かといってこの状態を最後の1話でひっくり返すようなハナシをしたら
多分物語のつくり手を無茶苦茶軽薄するようなことになったろうから
「やむをえない」とは思うのね、そう「諦めた」結果なんだ、これは。
作り手側としては当然こうなるのが分かっていたから「滅びの歌」を
描くためのおはなしだったわけだわな、あんましはしゃぐと怒られるから
粛々と進行していたとおもう、まあ「オトナ」だったわな。
で、それでいいんか
そうじゃないわな、「そうでない」のが次のおはなしのはずだ
その為に男共とは一層の友情を、そして女の娘とは愛情を深めるのだ
まずは、そうだなあとりあえず「乳でも揉んでおけ」とおもう
念のために言っておくが男のほうじゃないぞw
ReLIFE 第13話 告白 とまとめ △+
正直「やり直し」の設定がないとそれこそ及第点すらあぶないような
そんなとこだわな、ただその「平凡さ」が「オトナになったあとの視点」だと
まぶしく感じるのがミソなわけで、設定のうまさがある。
最終話の玲奈と和臣、そして新太と千鶴の関係性の対比がうまいね
感情のままに行動できるほうと、そうできないほう、両方にうまみがある。
この「リハビリ」によって大分社会的にずたずたになってしまった
当邦の情操の回復をはかろうっていうそれ自体は冷たい社会の治療行為だけど
それを実地にやっている人間には幾分か暖かい血がかよっていたかとおもうね
このあまりはしゃぎすぎないおはなしにはじっと見られる何かがあった
社会人になった人が見ればなおのことよく分かるというものだ。
クオリディア・コード 第12話
燦然世界のクオリディア とまとめ △(+)
こどものつくりかた
「敵」にダマされていた「子供」とか結構めんどうくさいことを
やってのけたねえ、それこそ「首ねっこを掴まれていた」わけだ。
あとは「東京」「神奈川」「千葉」でそれぞれに視点が変わっていたね
「退場者」があったからで、それにもダマされたようなかんじやね
いっくんも、そして視聴者も。
これって別に「アンノウン」なんて異邦人を出すまでもなく
「子供」は「大人」にある程度までは「騙されて」いて
それを別の「大人」が暴いたにすぎないってことなのかもしれない。
ただまあ「豪快に騙して逆転する」ような時間もリソースも
ないから決められた枠の中での転倒劇みたいな、そういう味わいだったね。
けっきょくは「決められたことだけするいい子」みたいなな
それは「創作者の想像を越える作品(子)」をシンプルに期待しえない
そういう当世の空気があるのかもしれない
そして期待しなければ、子供も「それなりに」ということになりそうだ。