前回は、音楽セラピーのカモメちゃんが、いろいろなスパイスをちりばめたような、複雑で奥深い声で歌唱する様子を伝えて終わった。
「次は子守唄メドレーなので、眠たくなったら、本当に眠っちゃってくださいね」
<眠りに落ちる寸前の場所で、私はカモメちゃんの歌を聞き続けた。甘く切ない歌声に抱っこされたまま、ほのかなまどろみを満喫していたかった。
カモメちゃんが、アコースティックギターから最後の音を解き放つと、世界は虹色の静寂に包まれた。>
(雫さんは、マドンナやカモメちゃんに見守られて、やすらぎの中にあった。)
体の痛みに関しては、モルヒネワインを飲むことでなんとか誤魔化していた。
<モルヒネワインを飲むようになったのは、タヒチ君とドライブに行った頃からで、モルヒネなんて最初はなんだか怖かったけど、タヒチ君が手がけたワインを飲んでいると思うと、怖さが目減りした。飲んでみると、それまでの疼痛が魔法のように消え、体が楽になった。
モルヒネ自体はほんの少し苦い味がするものの、赤ワインと一緒にして飲むとそんなに苦さを感じなくなり、晩御飯の時にモルヒネワインを飲んで、そのふわりとした浮遊感に包まれたまま眠る、というパターンが続いていた。でもだんだん、モルヒネワインだけでは効かなくなってきた。夜中に、痛みで目が覚めて、眠れなくなってしまうのだ。>
「雫さん、夜の間だけ、眠れる森の美女に変身してみませんか?」
音楽セラピーがどうだったかを聞きに来たマドンナは、ついでのようにさらりと言った。
「眠れる森の、美女ですか?」
「はい、美女です。でも、ここで大事なのは、眠れる、の方ですけど。夜間セデーションといって、夜寝ている間だけ、睡眠薬を使って深く眠ることができます。セデーションというのは、鎮静です。・・・・」
マドンナによると、夜中に眠れなくなるのは、体の痛みもあるが、不安によって引き起こされる面が強いのだという。
不安とは、すなわち妄想で、妄想にがんじがらめになってしまうと、人は眠れなくなるらしい。・・・・妄想を無視するために、体を強制的に眠らせるのが、セデーションなのだと説明した。
雫さんは、夜間セデーションを行う条件として、「引き続き、六花と寝てもいいですか?」と聞いた。
「もちろんです」
「よかった。私、それだけが心配だったので」
「六花は、雫さんにとってモルヒネ以上の存在です。雫さんのセラピー犬ということになれば、離れ離れにはできません。いつでも、一緒です」
マドンナからその言葉を聞いて、急になんだか元気になる。
ライオンの家には、似顔絵セラピーというスタッフもいた。
プロのイラストレーターが、ボランティアで似顔絵を描いてくれるのだという。
<これまでの人生で一番楽しかった時のことを思い浮かべてください、と言われ、ふとにっこり笑ったら、はい、今の笑顔を元に似顔絵を描きますから、もう楽なポーズに戻って結構です、と言われた。
リクエストはないかと聞かれ、私はとっさに、六花も描いてほしいと訴えた。・・・・イラストレーターさんが私たちの似顔絵を完成させている間、私は横になって本を読む。・・・・>
「こんな感じでどうでしょうか?」
しばらくして顔を上げると、イラストレーターさんができたばかりの絵を見せてくれた。
六花が、笑っている。しかも、私をお姫様抱っこして、その腕に抱っこされた私もまた、笑っていた。現実にはありえないことだったけど、でも、この色紙の中の光景の方が、真実だと思った。
だって、私は絶えず、六花に守られている・・・・>
タヒチ君は、ボランティアのことや、マドンナのことを、雫さんに話してくれた。
「マドンナ自身は他所から来た人なんだって。マドンナのお父さんがすごい資産家で、この島にも土地を持っていたのかな。確か。でも、病気になって、それをマドンナが看病したって聞いたことがある。マドンナは、お父さんの実の娘じゃなくて、養子かなんかで。で、お父さんは本当は家に帰りたかったんだけど、病院で最期を迎えることしかできなかったらしい。だから、自分みたいな悲しい思いをする人が少しでも減るように、っていう思いで、自分の財産をホスピスの運営に使うことを希望したらしいよ。それでマドンナは、看護師とカウンセラーの資格をとって、この島にホスピスを作ったみたい」
「すごい人なんだね。マドンナも、それにお父さんも」
<実の親が誰かもわからない自分を養女にして育ててくれたお父さんへの恩が、マドンナのすべての原動力になっているんだと思う。だからマドンナは、積極的に、身寄りのない人とかも、ライオンの家に受け入れているんだって。>
「そうだったんだぁ」
だから私もライオンの家に入れたんだ、と雫さんは納得した。
「それより、この島とか、近くの島の人たちが、ボランティアでたくさん来てくれるのが、すごいなぁと思って」
音楽セラピーのカモメちゃんも、昨日来てくれた似顔絵セラピーのイラストレーターさんも、ボランティアだ。
「それもやっぱり、マドンナの吸引力っていうか。でも、マドンナ曰く、それじゃダメなんだって」
だから、ボランティアの人の気持ちに甘えるだけじゃダメで、ちゃんと給料を払って、プロとして、ホスピスとか病院に常駐して、サービスを提供するようにならないといけないと思っているらしい。
ライオンの家には、さまざまなゲストが迎え入れられている。
「バカヤロー」と大声を張り上げ、「テメーが俺の人生をめちゃくちゃにしたんだろー!」と見舞いの前妻に当たり続ける老人もいる。
部屋には「先生」という表札が掲げられている。限られた人生の残りの日々すら、先生でいたいのだろうか。そんなふうにしか生きられないその人が、可哀想というか、気の毒だなと、雫さんは思う。
六花を抱いて、自分の部屋の前で戸惑っていると、マドンナが先生の部屋から出てきた。
「・・・・誰もが皆、現状を受け入れ、穏やかに時間を過ごせるとは限りません。あの方のように、ジタバタして、なんとか運命を逃れようとする人もたくさんいます。でも、人は生きている限り変わるチャンスがある。それもまた、事実ですから、期待しましょう」
マドンナは、いつも通りの落ち着き払った声で言った。
<先生の顔と名前が一致したのは、翌日のおやつの時間だった。先生は、車椅子に座って現れた。・・・・先生は、有名な人だった。数々のヒットソングを世に送り出した人気作詞家として、たまにテレビなどにも出演していた。・・・・>
(ぼくの経験でも、老人ホームの個室にいた元大学教授の老人が、スタッフを威気高に怒鳴りつけている場面に遭遇したことがある。)
一方、「もも太郎」と書かれた部屋で闘病する、幼い女の子のひたむきさは、スタッフとゲストの泪を呼んだ。
「私は将来、調教師をしながら、イルカ語の研究をして、イルカと話ができたらいいと思っています。・・・・」
おやつの時間に登場した両親の、深々としたお辞儀の後に流されたテープだ。
<百は今、ライオンの家で人生最後の日々を過ごさせてもらっています。
先ほど皆さんに聞いていただいた百の肉声は、こちらに来てすぐにおやつの時間の存在を知った百が、部屋にこもってひとりで録音したものです。・・・・
その時から較べると、百はだいぶ状態が悪くなってしまいました。それでも百は、今でも、生きる気満々です。精一杯病と闘って、生きようとする百を、どうか一緒に応援してください。>
時々言葉に詰まりながらも、百ちゃんのお父さんは最後まで毅然とした態度を貫いた。>
(ライオンの家では、生も死も、その重みが違うのだなあと、我が身に引き較べて考えるのであった。)
(つづく)
「ライオンのおやつ」の3分の1ぐらいを残したところで書いています。
雫さんの最後の日を見ることになるのでしょうが、今は何もわかっておりません。
思わぬ奇蹟が起こればいいな、と思いながら、一日一日の推移、一秒一秒の変化を見守っています。
こうした読み方がいいのか悪いのか、それも見当がつきません。
ありがとうございました。
今回、その様なマドンナさんの過去の背景も明らかになりました。
私は、いざとなると、現状を受け入れられずジタバタして、なんとか運命を逃れようとするグループに入る様な気がします・・・(-_-;)
モルヒネワインだけでは効かなくり夜中に痛みで目が覚めて眠れなくなるなんて、絶望的な気分になります。
しかし、その様なステージになっても、夜寝ている間だけ睡眠薬を使って深く眠るという次の方法があるんですね、成程。
百ちゃんについては、この様な物語のストーリーとしては、読者はつい、奇蹟を期待して、ハッピーエンドになったらいいな、と思ってしまします。
ほとんどの方が、ジタバタするんでしょうね。
登場する「先生」の存在は、非常に身近に感じられます。
百ちゃんに奇跡が起こることはなかったですが、多くのものを残したようです。