作品集「霧の犬」を読んで
2014年11月23日、作品集『霧の犬』は鉄筆社創立記念特別書き下ろし小説として他の短篇3作とともに出版された。
先に書評風ポエムとしてぼくが取り上げた「カラスアゲハ」と、「アブザイレン」「まんげつ」などが所収されている。
上記短編小説は、比喩や象徴の多い表現に彩られてはいるが、一定のストーリー性があって割合に理解しやすいように思う。
ところが、いざ「霧の犬」を読み始めると、表題さながらたちまち霧の中に引き込まれてしまった。
<霧であった。無蓋貨車がゆっくりとはしっていく。夜がゆれる。シロツメグサがぬれている。バリケードもぬれている。いつからかずっと霧だった。・・・・すべては霧にひたされつづけた。男はとてもおちついていた。男はすこしも痛くはなかった。街は霧にとじこめられていた。すべては霧にひたされつづけた。霧の空をアメフラシの群れが一列にゆっくりとはっていた。・・・・アメフラシは霧にかすんでいた。アメフラシが霧をはいているのか。霧がアメフラシをはいているのか。あまりはっきりしない。霧はアメフラシと気脈をつうじていた。呼応しあっていた。霧はその内がわからもりあがったり、ふくらんだり、うねったりした。はるかとおくから、かすかに男の声がながれてきた。なんの声かわからない。霧は絶えることがない。霧をぬって声はあった。ひとすじの声があられた。・・・・>
まず、冒頭の霧の場面は、だれかの目に映った現実の風景なのだろうか。
シロツメグサがぬれ、バリケードもぬれている。そして、少なくとも痛いと認識する感覚を持ち合わせた男が登場してくる。
暗示的ではあるが、どうやら現実に即しているらしい、と思いかける。
男はなぜ「おちついて」いるのだろう。なぜ「すこしも痛くは」ないのだろう。
落ち着きの状況はなんなのだろう。痛みをもたらすような何かがあるのだろうか。
いったい、無蓋貨車は霧の中をどこへ向かってはしっているのだろう。
ところが、次の瞬間、「霧の空をアメフラシの群れが一列にゆっくりとはっていた」と描写され、おっ、これは心象風景なのかな? と思いなおす。そして、最後の引用部分に出合って戸惑うことになる。
霧に包まれてはしる無蓋貨車の風景は、不穏な現実を孕みつつ、一方で、アメフラシが海の中で吐いた紫汁腺の霧を描いているのだろうかと迷わせる。
だがそのあとに、決定的な表現「ひとすじの声があられた」のである。「・・・・声があらわれた」のではない。「・・・・声があった」のでもない。
これはどういうことなのだろう。畏れ多くも・・・・あられた。あの「あられた」なのだろうか。
もう少し引用をつづける。
<声はとぎれた。霧にすわれて声は消えたりうかんだりした。・・・・イトミミズが霧の底で赤くよわく発光していた。霧はそれじしん、なにかをおもっていた。それは、もうはじまっていた。おわっているのかもしれなかった。・・・・男は霧にかすむとおくの灣(いりえ)をおもった。そこには、ときおり水柱があがった。男は灣のむこうの大海原をおもった。・・・・おもうのはとてもかんたんだった。おもわれたものはかんたんに消えた。灣の松林をおもった。灣が霧に消えた。ついで松林も消えた。それから、犬をおもった。霧にぬれた犬の犬くささをおもった。・・・・霧をとぼとぼとあるいていく一匹の犬をおもった。犬は三本肢だった。・・・・三本肢の犬があるいていた。犬はゆれた。しかたがないのだ。よろよろとあるいていた。犬は男のなかの霧をあるいていた。犬はときどき、霧にとけた。消えた。霧はたえずあった。男は、だが、霧があるとはおもわずに、霧にあられる、とおもった。受けみで。あるのではなく、あられる。あるのではなく、気がついたら、すべては、あられてばかりなのだ。すべてのあられ。万物のあられにかこまれるのだ。・・・・>
そうか、「あられ」とは、そういう状態の表現なのか。
ときおり、とおくの灣であがる水柱に、はて、迫りくる不穏の気配なのかと我に返る瞬間はある。
それでも、起こりつつある光景は言葉によるものだ。「霧にあられる」のだ。
「ある」のではなく、「あられる」には対象を敬うヒビキがあるとおもっていたが、必ずしもそうではない。「あられてばかりなのだ」といくばくかの憾みがにじみ出る。
ここまで、言葉の意味は方向感覚を失っているように見える。読む側も戸惑いを隠せない。
無蓋貨車もシロツメグサもバリケードもアメフラシもイトミミズも、正体のわからない霧のなかで本来の意味の持つ機能を無能化されている。
その一方で、霧はそれじしんなにかをおもっている・・・・と告げられる。
霧は男を覆っているのだが、その霧は男のなかにあり、男のなかの霧を三本肢の犬があるいているのである。
そして、「男は、霧にあられる、とおもった。」と綴られる。「すべては、あられてばかり・・・・万物のあられにかこまれる」結果となる。
もはや言葉は意味を希薄にし、ヒビキの役割が増しているように思える。
それがさらに明らかになるのが、まもなく登場する「あ」や「ゑ」や「ふ」や「き」や「ん」だ。
これらは記号のように使われているが、本来は人を指し示す固有名詞であるはずの性格を付与されている。
一人ひとりに個性があるように、「あ」にも「ゑ」にも「ふ」にも「き」にも「ん」にも、存在の気配が色濃く示される。
だが、分かりそうに思う端から、意味は霧に消されていく。
言葉は方向感覚を奪われ、長いあいだ積み重ねられてきた概念が、たぶん作者によって意図的に毀される。
例えば、無蓋貨車には長い砲身を隠そうともしない戦車が積まれているのだが、その貨車は霧の奥へとはしっていく。・・・・と、行く先は不明のままだ。
<世界と名のつくごたいそうなものは、名前とそれぞれがそれにいだく印象だけで、もともと世界なんかなかった。んなかりた。のだ。あるかないかは、ものごとの基本だったのに、あるとないはものごとの基本ではなくなっていた。>
なるほど、概念を紛れのないように示そうとしてきた言葉の機能は、印象を導き出すだけのものだったのか。
特に「意味」は、ある観念の輪郭を明確にしようと苦闘をつづけてきたが、その末路は「哲学」のゆくえに暗示されているのかもしれない。
つまり、世界と名のつくごたいそうなものは、あると思い込んでいるだけで、もともと世界なんてものは「んなかりた」のだ。
われわれが開闢以来信じ込んできた「あるかないかの基本」概念は、「すでに基本ではなくなっていた」と告げるのだ。
開闢・・・・で思い出した。
この霧の風景は、創世記「天地創造」に呼応しているのではないか。
「光あれ」と、暗黒の地に昼と夜をもたらした神は、第6日目にアダムとイブを創造し同時に知惠の実という試練を与えた。
神と共にあった言葉は、人間に寄り添い今日までさまよい続け、とうとう疲れ果ててしまった。
言葉の運命は、生まれた当初から意味とヒビキの不協和音を孕んでいたのだろうか。
本来の気高い言葉を取り戻す。作者はいよいよ原始地球の霧の世界へ言葉を放とうとしたに違いない。
全編を貫く異能の言葉たちは、作者が言葉で遊んでいるのではなく、言葉を再構築しようとしている試みだろうと思う。
ーー例えば、つぎのように。
この話ともいえない話は、<丸刈りの女がかがんで男の足をあらっていた。・・・・女は「あ」という女だった。・・・・>という書き出しではじまる。
そして、ページが進むにつれて、男が女の足をあらうという展開になる。それは交互にサービスを提供するといった功利から行われるのではなく、この話の底部を流れる水音のように止む気配がない。いわば、通奏低音といった趣である。
先にふれたように、登場人物は「あ」のほかに男「ゐ」であり熱帯魚店の主人「さ」であり、スーパー銭湯パラダイスパの常連「ぬ」や、すなっく「ほ」のママ「な」や老いた彫り師「て」それに訪問整体師「ゑ」など次々に増えていく。
その中でも、隻眼の不審者「ん」は最も意味ありげな登場者である。おそらく霧のなかをゆっくりとはしっていく無蓋貨車にも、三本肢の犬にも、霧のおもいにも深くかかわっている。
顔の大きな大柄な女「け」は、ツルリとした顔の青年「は」を連れて現れる。はっきりした目的意識を持って〈と思い込んで〉。
おお、そうか。霧に覆われた街と、その中でうごめく「あ」~「ん」の人びとは、大海原につながる灣があって、無蓋貨車が戦車をのせて通り抜けようとする象徴の場所にいるのか。外との境界線が漠然とながら示されたことで、ぼんやりと見えかけてきたものがある。
<バス路線のすべては休止し、タクシーも数えるほどしか走っていなかった。タクシーは客をのせて走るのでなく、運転手が私用で、つまり街からの脱出のためにつかっていたにすぎない。>
やはり、ここは「あの街」なんだ。そう、フクシマに違いない。大津波と放射能で壊滅的な被害を受けた街の人びとの阿鼻叫喚図なのだ。〈いや、霧が介在することで、声はくぐもり、誰も嘆かず、叫んでもいないように見えるが〉
言葉はさまよいながらも、明確な意図をになっていた。
「かくていしたじじつ・・・・たぶん、世界はもうこわれていた。世界ははじめからこわれていたのかもしれない」
締めくくりに『霧の犬』の帯に記されたフレーズを紹介する。「わたしのなかの霧を、三本肢の犬があるいていた。・・・・それはもうはじまっていた。」ーー美しくも寂しく怖い。この世の果ての風景。
ぼくがシンパシーを感じた創世記の情景は、見当違いだったのだろうか。
この世の果ての風景は、この世のはじまりの風景とあまりにも似ていないか。
言葉の意味では捕えきれない世界〈そんなものは、んなかりた、だ〉を、蘇生した言語感覚で掬い取っていただきたい。
言葉は宇宙とともに生まれ、死にかけ、蘇生し、やがて・・・・この世の果ての風景はかくも寂しく美しい。
〈おわり〉
<辺見庸について、より理解するために> ドキュメンタリー映像をご覧ください。
http://kizasi.jp/show.py/lets?cat_name=C.psn.%E4%BD%9C%E5%AE%B6.%E8%BE%BA%E8%A6%8B%E5%BA%B8
メッセージをいただきありがたく感謝しています
蜻蛉も朝夕の眠りにつく頃と目覚め前は素敵なモデルさんです
ブログを見ていただきうれしく思います
迫りくる闇に呑み込まれる寸前の、うっとりするような一刻を見せていただきました。
しかし窪庭さんのこの書評で相当わかりやすく親切に腑分けされた状態で読ませていただいたおかげで、少しだけわかった気になった(本当はきちんと理解できたわけではありませんが)ことを基に、ちょっと見当違いなことを呟かせていたければ「霧の犬って・・・なんじゃこりゃー」というのが正直なところです。
多分文学的には何か立派な作品なのでしょうが、私のアタマのレベルでは理解不能です。
言葉の個人的解体によって、私たちの先入観念化している世界の意味を問い直そうということなのかもしれませんが、もしそうだとすればそれを言葉で描く散文という方法(小説)でやるというのは自己矛盾ではないでしょうか?
成功例を一つだけ挙げるとすれば、それは赤塚不二夫の一連の漫画作品ではなかったでしょうか。『天才バカボン』などで赤塚さんは言葉に付与されてきた意味の解体を徹底的に成し遂げましたし、そのことを多くの読者に理解させました。
そう、言葉の解体は映像や音楽や漫画といった非言語的な方法でこそわかりやすく行えるのではないか。
もしそれを言葉でできるとしたら詩とコマーシャルのコピーとある種の映画作品くらいのものではと、考えるのですが、方向違いでしょうか?
いやそれも方向違いかもしれませんが…書いているうちによくわからなくなってきました。
とほほほ・・・ごめんなさい!
知恵熱が出そうだ。
窪庭さんの考えを教えてくださいませ。
責任を感じ、名医はいないかと探した結果、見事な診断を見つけましたので、ぜひお読みください。
http://teppitsu.blogspot.jp/2015/01/blog-post_23.html
中国新聞に載った「霧の犬」の書評で、ぼくが手探りで撫でていたものを明快に絵解きしてくれます。
ただ、この作品で見られる言葉の変形・変容については、誰も具体的に診断していません。
課題として考えていくことにします。よろしく。
それは、あらすじだったりテーマだったり、モチーフだったりを手短に説明する作業で、文学的に本体の作品を超えることはできない。
しかし、「霧の犬」のように難解な作品では、理解のための水先案内人が必要だ。
そこで、先に中国新聞に載った評論家・横尾和博氏の「不安な現代の兆しと気配を体現した傑出した書」の他に、もう一本の杖を立てかけておく。
(http://kimugoq.blog.so-net.ne.jp/2014-12-11)
いずれも「鉄筆通信」という公式ホームページからの引用である。
二つの書評には、共通する認識と、微妙に異なる見解が示される。
当然といえば当然のことで、それぞれを杖にして本体作品に近づき、読者それぞれが独自の理解にたどり着くことを願っている。