『米長邦雄のさわやか人生』
西武新宿線の準急停車駅「鷺宮」近くに十数年間住んだことがある。
線路と直角に交わるバス通り沿いに商店街があり、昔ながらの電気屋や蒲団屋、文房具屋、それに時計屋、雑貨屋、貸本屋といった店が軒を並べていた。
現在は○○店と呼ぶのが習わしのようだが、当時の雰囲気はどうしても上記のように書かないと伝わらないのでご容赦願いたい。
ぶらり街歩きをしても、あるいは自転車で出かけるにしても、間口二間ほどの店が肩を寄せ合っている歩道を通ることになり、その街並みを行くと心が和んだ。
決して繁盛しているわけではないが、かといってどの店もシャッターを下ろすことなく客を待つ店主の姿があった。
休日には駅前のレストランで親子連れだって食事をしたり、フルーツパーラーで甘いものを頬張ったりした。
昭和の匂いを残した町だから、寿司屋もあればラーメン屋もある。
和菓子屋もケーキ屋もお茶屋も、それぞれ家業一筋でがんばっていた。
あまり発展しそうにないところが、この街の良さといえば言えた。
ところで、この商店街は西武線と妙正寺川によって分断されている。
バス通りを阿佐ヶ谷方面へ向かうためには、踏切と小さな橋を渡らなければならないのだ。
渡った側には銀行とか家具屋とかがあり、賃貸アパートが主の不動産屋などもあった。
新刊本の書店や名の通った蕎麦屋もあり、商店街はちょっと雰囲気を変えて延びていた。
もっとも町の名はもう鷺宮ではなく、似てはいるが川に降り立つ白鷺の名がついている。
一本裏手に入ると大きな寺があり、散歩道にはかつての豪農の屋敷に沿って樹齢の古りた欅の木が保存されていた。
そのあたりの住み心地がよかったのか、『二十四の瞳』の作家壷井栄の屋敷跡があったり、芥川賞受賞の女流作家が住んでいるとも聞いていた。
もう一人思い出すのは、当時最盛期にあった将棋の棋聖・名人米長邦雄氏のことである。
ある日奥さまと連れだって八百屋に立ち寄っているのを見かけたことがあるからだ。
よくテレビに出演して顔が知られていたから、女房がみつけて教えてくれたのだ。
「さわやかな感じの人ね」
商店主と気さくに話していたうえ、端正な顔は目立ったようだ。
ぼく自身も将棋に熱中している頃で、米長の「さわやか流」などという呼称を知っていただけに、なんだかお株を奪われたようで生返事をしたのを覚えている。
『将棋世界』の愛読者だったから、棋士の情報はよく目にしていた。
それによれば米長氏自身は「さわやか流」と呼ばれるのをよしとせず、自分は「泥沼流」だと斜に構え世間の見方を往なしていたのを知っている。
そのあたりがいかにも米長流と思っていたが、彼自身の内面にはぴったり来ない事由があったようだ。
ある時期名人位を取るために、自分の子供ほどの年齢の棋士たちに教えを乞い、その研究会に加わって戦法を学んだことに起因しているとも思える。
不利な状況の中で、自陣に駒を補強して相手の読みを撹乱する戦法を採ったのもそのころからだ。
そこまで勝ちにこだわるから「泥沼流」なんだというわけである。
理屈は通っているが、ぼくはやはりどこかで斜に構えている気がする。
「米長玉」とか「鷺宮定跡」と呼ばれる囲いの一種も、どこかガチガチの戦型を笑い飛ばしているようなところがある。
なかなかのモテ男と噂され、ラジオ局の企画で自身の女性遍歴を連載(ケータイサイト)したこともあるそうだが、不思議にスキャンダルには無縁だ。
内弟子だった林葉直子が後に大騒ぎを引き起こしたが、米長の周りにはそういった噂はない。
先崎学と林葉直子の修業がいつまで続いていたのか分からないが、ある時期ふさわしい判断がなされたのだろう。
シャイで茶目っけの多い言動からは窺い知れないが、読みの深さが働いている気もする。
生前に立派な墓を用意して、「おまえの人生は、はかない人生ではない。これからは墓ある人生だ」と奥さんに言ったとか言わないとか。
その昔、「兄たちは頭が悪いから東大へ行ったが、自分は頭がいいから将棋指しになった」とのたまわったというエピソードがまことしやかに出回った。
テレビ等でも面白おかしく紹介されたが、米長氏自身が認めたという話は聞いていない。
風船のように空に飛ばして遊んでいるのではないかと思ってしまう。
「ふふ~ん」と笑って、否定も肯定もしない姿が似合っている。
『ボンクラーズ』というコンピューターソフトと対戦して負けたのは、そう遠い昔でもない。
普通の棋士だったら二の足を踏むところを、高段者でありながら敢然と立ち向かう。
永世棋聖であり名人位にも就いたことのある男が、負けるかもしれない戦いに挑んだことを「将棋界の権威を失墜させた」と評する意見もあった。
しかし、彼の思いはもっと深いところにあるのだろう。
考えてみれば、天文学研究に用いられるスーパーコンピューターとまともに張りあったところで勝てるはずがない。
将棋は確かに複雑であるが、コンピューターソフトは日々進歩している。
だから人間が機械に負けるのは沽券にかかわる、ということ自体がおかしいのだ。
真実を見てから、人間のことを考えればいいのではないか。
おそらく、米長氏はそう思ったにちがいない。
株の投資や女性付き合いなど俗世にも関わりながら、天真爛漫にしていつも飄々たる人生を歩んでいる。
これが泥沼流でもあり、さわやか流なのだと思う。
12月18日突然の訃報に接し、将棋愛好家の一人として哀悼の意を表したい。
まして、ささやかな縁ではあるが親近感を覚え、憧れていた人であった。
前立線がんの全摘手術を躊躇しなければ・・・・と惜しむ声もあるが、「ぼくは最後まで男だったぞ」と言い返す声が戻ってきそうな気がする。
すっかりご無沙汰してしまったが、千駄ヶ谷の将棋会館に行き、帰りに鳩森神社の杜を散策したくなった。
心の声が木魂となって還って来るような人も場所も、近ごろでは少なくなってしまった。
「あっちから来ると思ったら、こっちから来た・・・・」
これは、ぼくの尊敬する作家大森光章氏の言だが、米長氏は天の邪鬼であったろう生き方が長く心に残る「さわやか人」であった。
「合掌」
(おわり)
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今年も1年間たっぷり読ませていただいたブログのクライマックスに相応しい文章で・・・。
先日クリスマスの夜は、気のおけない仲間数人で心置きなくおしゃべりを愉しませていただきありがとうございました。
お互い元気で年の瀬を迎えられ、焼酎もいつもをはるかに超え快調ペースでした。
来るべき2013年も窪庭さんの詩の世界と面白い小説を読ませていただけるのを楽しみにしています。
ひょっとすると来年はブログ発表作品が本になるようですが、発刊されましたらぜひ1冊よろしくお願いします。
1年間ありがとうございました。
どうぞお元気で輝かしき新年をお迎えください。
2012.12.30 18:35pm 知恵熱おやじ
「水の会」のメンバーも、一人減り二人減りとうとう三人になってしまいましたが、久しぶりに談論風発大いに楽しみました。
その席で、パソコンがそろそろ限界近いのではないかと申し上げましたが、なんと三日後にダメになりました。
スタート画面に横縞のような乱れが生じ、早速修理に出しました。あいにくの正月休みにぶつかり、年明け10日過ぎまでブログは諦めなければなりません。
他のパソコンから自分のブログを閲覧し、コメントも書かせていただいております。
「編集画面」に入る方法を模索中です。ありがとうございました。
棋聖とも称された故・米長名人の人生を年の瀬に取り上げたなんて、いかにも窪庭さんだと感心しました。
将棋のことは小生、まったく暗いんですが、この一文を読ませていただき、あらためてその人物像の大きさに感嘆したものです。
思い返すと、この筆者は長年、さまざまな人物を取り上げ、創作にせよ評論にせよ、深く、温かく取り上げてきたものと思います。
その情熱やエネルギーがどこから出てくるのでしょうか。
作家魂を蔵しているといえばそれまででしょうが、加えて博識なところも痛感させられます。
ともかくこの一年、単行本にしてみれば幾冊かの傑作を生み出したのではないでしょうか。
それに触発されていうのはなんですが、少しでも足元に近づけられるよう、当方も〈ブログ生活〉を進めていきたいと念じております。
(なお、パソコンが不調になったとのこと、気がかりですが、拙コメントが抹消されても仕方ありませんね)
昨日は故障したのとは別のパソコンに「年賀状ソフト」を呼び出し、それをプリンターに接続するのに一日がかりとなってしまいました。
それでも、なんとか印刷ができほっとしました。
さて、旧年中は貴ブログ「丑の戯言」に励まされ、お陰様で頑張れたたことに感謝しているところです。
慣れ親しんだパソコンが修理でjきましたら、またよろしくお願いいたします。
新春早々の貴ブログを楽しみにしています。
年を越してのお礼となってしまいましたが、ご容赦ください。