(でも、なんだか妙だな)
ビールを注文する破目になった流れに、性格由来のものだけではなく仕組まれた運命のようものを感じていた。
クルマの運転があるから飲むのはまずいなと考えている。その一方で、ビールぐらい何だという気持ちが強くなってきた。
運命といっても、この程度のことならば受けて立とうではないか。
アリバイを疑われた仕返しに、やつらをおちょくってやろうかという反発心が腹の辺りで熱を帯びた。
ビールを七分目ほど満たして、店の明かりで透かし見た。
今度のコップはきれいに磨かれていた。お冷やのときと違って現金なものだ。呆れる一方で可笑しさがこみ上げた。
(えーい、飲んじまえ)
海老チャーハンも口に入れてみると満更でもなかった。具材に油がからんでふっくらと仕上がっている。
ひょっとしたらコックは中華料理の経験があるのかと、看板に掲げたメニューの方を信用する気になった。
むしろラーメンの方が、にわかメニューで旨くないのかもしれない。
小皿についた搾菜も本場モノのようだ。初めは注文の失敗を悔いていたのに、むしろこっちの方が好かったかと成り行きに妥協しかけていた。
朝香満男は、二本目のビールを注文した。こうなると、嫌いな方ではないから自制が効かなくなる。
チャーハンの残り具合を確かめながら、二本目も飲み切った。
自分の吐く息がもやもやしている。好い気分には違いないが、アルコールを満たした腹の底がどうも妖しい。きょう一日がどうも怪しい。
風に触れたくなって、ふらふらと立ち上がった。
「ありがとございました」
太った女がレジに駆け込んで、満男に半端なお辞儀をした。あり得ない動作だが、店主にでも言い渡されているのか。
「・・・・また、いらしゃいませ」大きな声で送り出された。
酔いを醒まさなければ運転はできない。
おまわりへの反発はあっても、酒気帯び運転は割りに合わない。近頃の罰則強化で、検問にでも引っかかれば給料二ヶ月分ぐらいはすっ飛んでしまう。
飲むのは構わないが、捕まるのはご免だ。おちょくるつもりが、再び罠にかかったのでは目も当てられない。
自動販売機で缶ジュースを買い、無理やり喉に流し込みながら湯畑を一周した。
(会社にもう一度電話した方がいいかな?)
商談が進行中との連絡をした手前、今度電話すれば首尾を報告しなければならない。
おまけにきょう集金した介護用ベッドの代金を何時に持ち帰るのか、会社としては大いに危惧しているはずだった。
柵に寄りかかって湯煙に見入っていた。蒸気がその正体をあらわにフワーっと流れたかと思うと、捩れあい縺れ合って人魂のように二階家の窓を掃いた。
「・・・・」
誰かの声を聴いたような気がした。
母に聞いた話では、幼い従兄弟を残して叔母が死んだとき、深夜仏間の雨戸に何かがドーンとぶつかったそうだ。物音で目覚めると、女のか細い声が満男の母を呼んだという。
「きっと妹が幼い吾が子を頼むと言いに来たのよ」
叔母が息を引き取った時刻と、音で目が覚めた時刻が一緒だったそうで、身内の者でその話を疑う者は誰も居なかった。
そんな神秘体験を伝えた満男の母も、数年後に白血病で死んだ。
死の数週間前、しだいに衰えていった母は、見舞いに行った満男をエレベーター前まで見送ったあと、振り返り振りかえり廊下の奥に戻っていった。
突き当りの窓から差し込む逆光の中、母の顔が白々と眼裏に残った。
(ニャーオ・・・・)目を細めて振り返った猫の顔が、またも脳裏に甦る。
夜になって、湯畑を取り巻く灯りが焦点の定まらない明るさを投げかけている。茫漠として夢の中の出来事のようだ。
湯煙が動くと、何かの加減で人影がよぎったように見える。
あるいは、その影が動物だったかもしれないと思ったりする。
満男はいま自分に迫ってくる不穏なものを感じている。そのものの正体を、懼れつつも切に知りたいと願っていた。
(来るなら来てもいいさ・・・・)怪しい気配の到来を避けられないなら、甘んじて受けようと覚悟している。
何年か前に出て行った女房の後ろ姿まで甦ってくる。・・・・夜になって気温が下がってきたようだ。
頼りなく立ち尽くす満男の横に、何かがスッと寄り添った。白っぽいジャンパーを着た若い男だった。
「オレも時々ここへ息抜きに来るんですよ。・・・・ところで、お客さん、きょうはお泊りですか」
「いや、いずれ帰るつもりだよ。なんで?」
満男の返事に、声を掛けた男が目で笑った。
「いずれ、どこへ帰るんですか」
「会社かもしれないし、家かもしれないな。誰だって物事はっきり決められないことがあるだろう」
ハハハ、面白い人だなあ。・・・・若い男は、しげしげと満男の顔を覗き込んだ。
「行き先が決まるまで、ちょっと遊んでいきませんか」
「おまえ、やっぱり客引きか」
満男が語気を強めた。
「まあ、そんなところです。だけど、お客さんが面白い人だから、商売抜きで楽しんでもらいたい気分になりまして」
「へえ、そんな好いところが残っているのかい?」
場所のことなのか、性格を言っているのか、満男の謎かけに、若い男が浮かぬ顔をした。
気を取り直した男の説明によれば、いっとき大流行だったフィリピン・パブが、人身売買につながるというので規制され下火になった。
日本中の盛り場にあふれていたフィリピン女性が、興行ビザの発給を制限されて入国できなくなったのだ。
「・・・・ところが、お客さん、うまく生き残った店がありましてね。そこで働く女たちは、日本人と結婚しているかその家族だから、身元がはっきりしていて安心して遊べるんですよ」
「へえ、さすがに温泉場の客引きだね。人を煙に巻いたかと思うと、きっちり泉質の分析までやってのけるわけだ・・・・」
相手にウケるわけもないのに、自身は悦に入っていた。
十分後、満男は若い男に連れられて温泉街の一角にあるけばけばしいパブに吸い込まれた。
客引きは、満男をやり手婆に引き渡してどこかへ消えた。
一瞬不安になったのは、道中いつの間にか若い男に気を許し、依頼心が生じていたせいかもしれない。
一見はしっこそうで、実は頼りなげに肩をすぼめる青年が、若い頃の自分を見るようで親しみを抱いたのだ。
すぐにボックス席に案内された。
時間が早いせいか、客は満男のほかには誰も居なかった。そして、ホステスも・・・・。
満男の横に付いたのは、やり手婆と瓜二つの年増女だった。こっちが妹で、さっきの大年増は姉かもしれないと見当をつけた。
化粧が濃いからよくは分からないが、たしかに額からこめかみにかけての特徴が東南アジア系だと告げていた。
「なんだよ、若い娘が居るというから来たのに、インチキかよ。それなら俺帰るからな」
満男は腰を上げかけた。
「ダメ、ちょっと待って。もうすぐご出勤するから落ち着いて」
「ほんとか?」
疑いながらも待つ気になる。
「落ち着いて、落ち着いて・・・・。カクテルでも飲んで待ちましょう」
「俺はビールがいいんだ」
「オーケー、オーケー。お摘まみもね」
ビールと乾きものが出てきたが、しばらくすると琥珀色の飲み物が届けられた。広口グラスの中にレッドチェリーが沈められている。カクテルピックに刺したままなので、すぐにも食べろと言っているようだ。
「お店からのサービスよ」
「なんだ、俺は要らんよ」
「じゃあ、ミーがいただくわ。いいかしら?」
アハハ、何がミーだ。満男は思わず苦笑した。
「どうぞ、ご遠慮なく」
声の調子が軽蔑的なものになった。
「うわア、美味しい。ご馳走様、このカクテル最高よ・・・・」
満男の反応など無視して年増の女がはしゃいでいるところへ、三十代半ばと思われる女が入ってきた。
「あら、いらっしゃい」
満男の席から立ち上がって、一つ離れたボックス席へと案内して行く。
ソファに腰を下ろした女は、ふわっと髪を巻き上げて白いうなじを見せている。
満男は一目見て、体がブルブルッと震えた。
「みすずさん、今日はお休み?」
聞き耳を立てるまでもなく、女の鼻にかかった声が流れてきた。「それがさあ、あたし女将さんと喧嘩しちゃって干されてるのよ」
「まあ・・・・」
年増女が大げさに驚いている。
「詫びを入れればいいんだけど、気が治まるまではお茶っぴきもしょうがないわ」
これだけの美形なら、卑屈にならなくても引く手あまたと思われた。
おしぼりとビールを運び、再び満男の席に戻ってきたとき、年増の女が言いよどんだように満男の表情を窺った。
「なに?」
「みすずさん、一人みたい。寂しそうだから、お邪魔でなければ・・・・」
思いは同じだった。というより、機会があればこちらから誘いをかけようとウズウズしていたのだ。
「ああ、いいよ」
何食わぬ顔でうなずいて、次の展開を待った。
「みすずさんも、こっちへ来ない? こちらのお客さんからオーケーが出たわよ」
あくまで満男の方を立てる言い方が、彼の自尊心をくすぐった。
こんばんは、美鈴です。・・・・自己紹介したあと、元の席から持ってきたビールを満男に勧めた。
「おっ、これは申し訳ない」
満男はうれしそうにコップを差し出した。
グラスを触れ合わせて、初対面の挨拶はすんだ。
美鈴は、ぐっと一息に飲んだあと、年増ホステスの前に置かれたカクテルグラスを見つけて、「・・・・あら、マンハッタン、あたしも欲しいな」
年増ホステスの方を流し見た。
「いい?」
年増女が満男の了解を求めている。ということは、飲むもの食うものすべてこれからは彼の勘定に載せられることになる。
「いいよ」
それとなく背広の内ポケットを探った。きょう集金した介護用ベッドの代金が、封筒のままずっしり入っている。
自分の持ち金で足りなければ、一時的に拝借しても何とかなるだろうと脳みそを回転させた。
それを潮に、エイヒレや生ハム、フルーツ盛り合わせ、寿司、焼きソバ等が運ばれてきた。夕食一切をここで済ませる気だ。
そのうえ女たちが色とりどりのカクテルを飲むのを見て、「俺はテキーラ!」と敵愾心をあらわにした。
「それじゃ、マルガリータね。テキーラ濃い目に作ってもらうわ」
どこかに潜んでいるバーテンダーに伝えに行く先手を打って「マルガリータ!」と大声を上げた。
緑色の酒はさすがに存在感があった。
女どもの赤や青など足元にも及ばない禍々しさだ。生命力と毒々しさが綯い交ぜになった迫力で、いまの満男にぴったりのカクテルだった。
ビバ、メキシーコ!
聞きかじりのイタリー語を叫んで、グラスを差し上げる。
テキーラだからメキシコを称えるというだけの安易さだ。シッチャカメッチャカと分かっていても、その場の気分で声を張り上げたかったのだ。
美鈴という女も、このパブの一員かも知れないと思った。お茶っぴき芸者を装って、スケベな男から金を巻き上げるためのサクラかもしれないと疑った。
食いっぷり飲みっぷりが、年増女に影響されて、はしたなかった。
本来はどうなのかと善意に考えようとはしたが、店のボッタクリ幇助の罪はけっして軽くはない。
まだ、そうと決まったわけではないが、この先一波乱が予感された。
(しかし、ワルの程度がどうであれ、美鈴の後ろ姿には奮いつきたくなる)
未知の今でもそうなのだから、ワルと見極めがつけば余計モノにしたくなる女だ。ふっくらとした頬、桜色の耳たぶ、こめかみに掛かるほつれ毛・・・・白いうなじから続く女の領域は、すべてふくよかで匂い立つようだった。
(モノにしてやる!)
欲情と闘争心が一緒くたに燃えている。
おまけにビールを飲み続けた尿意が重なって、下腹部は決壊寸前だった。
(続く)
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坂道をどんどん転げ落ちていくような気もするし、ひょっとしての好転が待っているようでもあるし。
でも、何年前に妻が去ったとさりげなく記されているあたりに、何かカギが秘められているような予感もします。
あるいは、美猫がまたどこかで出現し、物語は意外な方向に行ってしまうかもしれないし。
要するに、読む者を引きつけてならない何かがある小説のように思えます。
早く次回を読みたい!