我慢できなくなって、ソファーから立ち上がった。この日二度目の切羽詰った感覚だった。
朝香満男は、そのまま歩き出そうとして不覚にもよろめいた。かなり足元が不確かになっていた。
慣れないカクテルを飲んだせいか、膝から下が麻痺したように力を失っていた。
ビールなら、どれだけ飲んでもこんなもどかしい状態になったことはない。テキーラに限らず、ジンやウオッカをベースにする酒も飲まされたから、いつの間にか足腰に来ていたのかもしれない。
「みすずさん、ちょっと肩を貸してくれませんか。・・・・そこまででいいですから」
否とは言えまいと踏んだとおり、美鈴は年増女の顔色を窺いつつも満男の介抱に立ち上がった。
店ぐるみの構図が見えたからには、なんとか裏をかかねばならない。それには美鈴を使って、一刻も早くこの場を抜け出すことだ。年増女との連携をはずしてしまえば、隙が生じるはずだ。
美鈴の肩に手を置くと、サマーセーター越しにふっくらした肉付きが感じられた。上手く口説き落とせば、これまでで最高の女になる予感があった。
男子トイレの前まで連れて行ってもらった。
扉を閉めて放尿し終わると、開放感とともに体の中が空っぽになった。この寂しさは何だろう。出て行くものの見返りにますます美鈴を欲しくなった。
この感覚には覚えがある。すでに一度たどった道筋を歩いている気がする。
昼間コンビニに立ち寄って以来、妄想じみた夢を見、パトカーが現われ、警官に尋問を受け、正体をあぶり出そうといたぶられた。
その結果、満男の否定にもかかわらず、警察は彼を胡散臭い奴として執拗にマークしているのだった。
そうした経緯の果てに、朝香満男はいま窮地に陥らされている。疑われたことで、それを払拭しようとすればするほど事態はどんどん悪い方へ傾いていく。
人間の心理なんて、複雑そうに見えて案外単純なのかもしれない。気持ち一つで悪い道筋を選択してしまうのだ。
わずかにできることは、迫り来る運命に気づいた時点で予防策を講じることだ。
満男は上着の内ポケットから封筒を取り出し、五万円だけ財布に入れて、残りを腰痛予防のために巻いているコルセットの下に忍び込ませた。
「ごめんよ。そんなところで待たせて・・・・」
トイレの外で立ったままの美鈴に、再び歩行の手助けを頼んだ。
寄りかかるように肩に手を回すと、ほんのり染まった美鈴の耳たぶに口を寄せて、一か八かの賭けに出た。
「みすずさん、二人だけでここを出よう。付き合ってくれたら、見返りの御礼はたっぷりするよ」
わずかに顔が動いて、切れ長の目がキッと吊り上げられた。こんな角度から、こんな間近に、女の目尻を見るのは初めてだった。
どっちに転ぶか。満男は美鈴の表情を窺った。
席に戻ると同時に、正気の顔で「帰る!」と言った。
年増女があわてて引き止めに出た。もっとグデグデになるほど酔わせて、身ぐるみ剥ごうとしているのか。
「いや、俺は帰る。もう帰らないとヤバイよ」
「しょうがないわね。じゃあ、おアイソね」
いつの間に用意してあったのか、年増女がトロピカルな彩色を施した紙製コースターの下から伝票を取り出した。
「えっ、幾らだって?」
満男は顔を近づけて、書いてある数字を声に出して読んだ。「・・・・一万二千円だな」
案の定12万円の請求額が書かれていた。それにしてもボルなあと呆れ返った。だが、暴利ボッタクリの気配は途中から分かっていたことだから、それほどは驚かなかった。
「お客さん、すっかり酔っ払っちゃたのねェ。でも、あんなに飲んで一万二千円はないんじゃない。よーく見てよ。十二万円て書いてあるでしょ?」
「とんでもない店だ。そんな金もってないよ」
「いくらならあるの?」
「財布に五万入ってるけど、納得いかなきゃ払う気はないよ」
「アンタ、なめてるわね。マスター来て!」
やや間があって、満男の前に思いもしない顔が現われた。
さすがにギョッとして見上げた。マスターと呼ばれた男は、湯畑で満男を誘ったあの客引きの若い男だった。
「お客さん、無銭飲食はいけませんよ。飲み食いした分は、きっちり払っていただきますよ」
「なんだ、いいところに案内するなんて嘘ついて、始めから騙す気だったんだな」
おい、いまなんて言った?
若い男の目が光った。マスターの顔でも、客引きの顔でもなかった。凄むことで彼の内面に隠されている加虐性が息づき始めていた。
「おまえ、ちょっと事務所へ来い!」
いきなり胸倉をつかんで、引きずり上げられた。
これはヤバイなと、本能が告げた。人目に付かない部屋に連れ込まれたら、何が起こるか分からない。
この若い男自身にも、どこまでで終わりにするのか計算できていない心配があった。
満男は、ひきづられた瞬間テーブルに脚をかけた。
女たちの悲鳴も間に合わず、ビールもカクテルも、オードブルの皿もみんな傾いでずれ落ちた。
「この野郎、ナメタ真似しやがって!」
その場で一発殴られた。
左の頬が切れたのか、口の中が生温かいもので満たされた。歯医者に歯周病と診断された歯もぐらついていた。
絨緞の上にペッと唾を吐いた。血液混じりの粘液が足元に飛び散った。どうせ連れて行かれるなら、痕跡を残しておいた方がいいだろうと考えていた。
カッとなって再び殴ろうとしたとき、ダメ、ダメと年増女がさえぎった。
「アンタ五万円で勘弁してあげる。サイフ出しなさい」
満男に命令した。
「いや、このままじゃ済ませねえ」
若い男が年増女を押しのけようとする。
それまで呆然としていた美鈴も立ち上がって、二人がかりで満男から若い男を引き剥がした。
シャツをつかんでいた手が離れ、満男の体がつっかえ棒を失った。彼はへなへなとソファーに座り込んだ。
ひらめいて、ソファーの上に脱いだばかりの背広に手を伸ばした。左ポケットにあるはずの携帯電話を探ったのだ。
(ない・・・・)
一瞬、狼狽した。名刺も小銭入れも、とっくに取り上げられているのだろうと自分に言い聞かせた。
が、すぐに彼は、トイレに立つとき携帯電話をズボンのポケットに移したことを思い出した。うつ伏せになり、体で隠すようにして110番を押した。
「どうしました?」
「助けてくれ、湯畑近くの○○でやられてる」
思い切って、店の名前を言った。それだけ伝えれば、分かるはずだった。
当然、聞きとがめられるのは分かっていたが、いまはパトカーの到着だけが頼りだった。
「おい、どこへ電話した?」
「アウウ、・・・・気分が悪いから、救急車を呼んでくれ」
新たに溜まった血液混じりの唾を、あたりに吐き散らした。
「ママ、このままじゃ具合悪いわよ。わたしがこの人を連れ出すから、うまく後始末をしてください」
やっぱり、この年増女がママなのか。
美鈴はやっと満男の誘いに応じる気になったのかもしれないが、この期に及んでは手遅れだ。
「医者だ、医者へ連れて行ってくれ」
「チェッ、大げさな奴だ。ロックアイスで冷やしてやれ」
あとを年増女に任せて、姿を隠すつもりのようだった。そして間もなく男はその場から消えた。
電話してから十数分後にパトカーが到着した。
ソファーに横たわる満男の頬に、タオルで包んだ砕氷の袋が載せられた直後だった。
「どうしました? 通報したのはお客さんですか」
何事が起こったのかと呆気に取られるママや美鈴を尻目に、満男は大きくうなずいた。
湯畑を眺めていたら、客引きの若い男にここへ誘い込まれたこと。自分は大した飲食をしたつもりがないのに、12万円の請求書を突きつけられたこと。
支払いを拒んだら、突然マスターに変身した客引きの若い男に殴られたこと。口の中を切って、かなりの出血があったこと。5万円入りの財布も奪われたこと。
「歯がぐらつき、頭も痛いんです。どこか、この時間でも診てくれる病院はありませんか」
たちまち救急車が手配された。
「おまわりさん、こちらの女性はたまたま居合わせたお客さんで、事件とは関係ありませんから・・・・」
美鈴には迷惑をかけられない。満男にできることは、そんなことぐらいしかなかった。
救急車に乗せられ、西吾妻福祉病院に運ばれた。
「口の中の傷は消毒しておきましたから、このまま出血が止まっていれば問題ありません。しばらく飲食は控えてください。特にアルコールは厳禁です」
止血に支障が生じる虞があること。そして、歯周病の治療も早めに開始してくださいと申し渡された。
頭が痛いというのが一番の心配なので、一晩病院に泊まって様子を見させて欲しいとのことだった。
一通り治療が済んだところで、警察の事情聴取が始まった。
殴られて怪我をした以上、当然告訴をすると伝えた。
正当な飲食代金は払うつもりだが、強引に財布を奪われたことにも腹を立てていると申し立てた。
警察と病院双方に、彼の勤務する会社への連絡を頼んだ。
一日のうちに、被疑者扱いされた満男のアリバイ問い合わせがあり、一転今度は被害者として病院で治療を受けているという。
今度の電話は初めの問い合わせのときと逆だが、警察沙汰になっていることには変わりないようだ。
おまけに集金した金の持ち逃げまで心配させられて、会社の幹部はおそらく状況を理解するまで戸惑いっぱなしだったに違いない。
「明日にはクルマを取りに行くからと、駐車場の方に連絡しておいていただけませんか」
戻っていくパトカー勤務のおまわりまで使って、ほぼやるべきことは終わった気がした。
満男自身にとっても、めまぐるしい一日だった。
そもそも軽井沢町の外れで、何ヶ月も前に出会った美しい猫が発端だった。あの日の出来事が、以来ずっと尾を曳いている。
(攫ってしまおうか・・・・)
そんな執着まで呼び起こす若い猫だった。
ノロノロと営業車を走らせ、時には物陰に潜んで美しい猫が現われるのを待った。人目を気にしながら、それでも振り返り振りかえり隣家の陰に消えた猫の残像を追った。
あの見返り美猫の意味するところは何なのだろう。
名づけた満男でさえ馴らせない魔物のような存在。何千年もの歳月、人間と共存しながら決して媚びなかった稀有な動物。
そんなつかみどころのない猫という魔物を、『見返り美猫』などと擬人化したのがそもそもの過ちだったか。
夢にまで見、欲情すら衝き動かされた。
小便をするたびに、尿道をさかのぼって潜り込んでくる生まれたての子猫たち。ミャー、ミャーと甘鳴きしながら人間を支配する欲望の天使。
(オレが欲しいのは、本当に女なのか?)
浮世絵の見返り美人が本当に美しいとも思えないが、見返った目つきの残像だけは何百年も存続し続けている。
あの女、この女、好色な目つきで睨目まわしてきたが、ここぞというところでいずれも思いを遂げることができなかった。
(そういえば、昼間出会った薬種問屋の内儀は、惜しかったなあ)
あと一息というところまで迫りながら、無粋な警官たちにぶち壊された。
こんな煮え切らない思いに悩まされるなら、衆人環視の中でもかまわず射精してしまうんだった・・・・。番頭に見られようが、おまわりに咎められようが、何もかもかなぐり捨てて、思いを遂げてしまうんだった。
「あっはっはっは・・・・」
突然の笑いに、当直のインターンと看護師がびっくりしたように満男を見た。
頭痛を訴えていた経緯から、やはり脳内出血の兆候でも出たのか。万が一のことがあれば、自宅に戻ったばかりの医師を呼び戻さなければならない。
パトカーも救急車も帰ってしまったあとだから、この酔っ払いが額面どおりの人間かどうかという心配もある。
人が前触れもなく狂気を発現する時代だから、いつ、どこにあっても安心してはいられないのだ。
(オレほどのワルもそうは居まい・・・・)
満男は、今度は胸の内でほくそ笑んだ。
今夜の出来事は、ある意味、ボッタクリ商売を繰り返して人を苦しめる奴らを懲らしめ、善良な市民を犯人扱いして苦しめた警察をおちょくる行為だった。
この流れは幸運にも恵まれていた。
自分が計画したのでは、こんなに上手くいくはずがない。
今夜はどんな夢を見るのか。深い森に抱かれた病院のベッドで、深い眠りに導かれるのも、得がたい経験になるはずだった。
(続く)
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満男は結局、ぼったくられた上に"見返り女"を失うのかどうか、あるいは"見返り美猫"とすり替わっていくのか、次回が楽しみです。
それにしましても文章の冴えは相変わらずお見事で、きれいに流れていくようですね。
さて、異様な物語はどのように収束しますか???
こんなふうにやっていったら、いつか必ず人生の坂を思ってもみなかったところへ転がり落ちていくに違いないですね。
ひやひやしながら毎回読ませていただいています。
なんだか怖いなあー。
それが窪庭さんの狙いなのかもしれませんが。
それにしてもあまり自分の人生を大切にしない主人公のようです。
どのような締めくくりがやって来るのか、楽しみなような怖いような・・・。
知恵熱おやじ