思ったより観念するのが早いやと、万吉は内心ほくそ笑みながら内儀の顔を盗み見た。恐怖と隣り合わせの状況がかえって欲情を高めるのか、最後の嗜みをかいくぐって女の口から熱い息がもれた。
万吉は腕の重みを支えながら、一方の手で着物の裾を割った。どこへ横たえようかと行李や籠で狭められた板張りの床を目で探っていた。
獲物に体を重ねようとしたとき、ぴったりと閉めておいた薬庫の引き戸がカタカタと揺すられ、外から様子を問いかける控えめな声が聴こえてきた。
おそらく番頭が何かの気配に気づいてやってきたのだろう。遠慮がちな中にも確かめずにはおかない強い意思が感じられた。
困ったな、どのように言い訳しようか。・・・・万吉は焦っていた。
「内緒でこの人に売薬を融通しようとしていたのよ」と内儀に言わせれば、一応の筋は立つ。
踏み込まれたら、自ら誘導して内儀に認めさせようと腹を決めた。
それにしても、せっかく首尾よく思いを果たせるところだったのに、とんだ邪魔が入ったものだ。
その気になった下半身が火照っている。閉じかけた足の間に膝を挟んだまま、逸る心に水をかけられて憮然としていた。
「お客さん、お客さん・・・・」
クルマの窓をノックする耳障りな音に、満男は眠りから引きずり起こされた。
「お休みのところ恐縮ですが、この場所に長時間クルマを停めるのは駐車違反なんですがね」
満男は窓越しに覗き込む二人の警官の顔を認めた。何がどうなったのか、ぼんやりとした頭で状況を理解しようとした。
「分かりますか。駐車違反なんです」警官の一人が繰り返した。
「・・・・ああ、はい。そうですか、道路からなるべく避けるようにして停めたんですが」
「この場所は、持ち主の方からクルマの違法駐車やゴミの投げ捨て等で再三苦情申し立てがなされておりまして、警察としては立場上不法侵入の疑いで調べなくてはならないんです。道交法違反より、そちらの方がよろしいですか」
ふざけた物言いだが、神妙にするしかないようだった。
「すみません・・・・」
満男はしぶしぶ頭を下げた。
「免許証を拝見させてください」
若い方の警官が窓越しに提示を求めた。
その間もう一人の年嵩の警官が、ふたりの背後から動向を監視するように見守っている。
「お客さん、住所地は遠方のようですが、この近辺へはよく来るんですか」
「はい、たまに」
「そうですか。・・・・ちょっとお伺いしたいことがありますんで、車検証を持ってこちらへ移ってくれませんか」
警官はパトカーの後部座席に満男を連れ込んだ。
さっそく車検証を見ながら、年配の警官が本部と連絡を取リはじめた。
クルマのナンバー確認、盗難車リストとの付き合せ、過去の事故歴まで調べてどこかに見落としがないか確かめているようだった。
(なんということか・・・・)本部の係官は満男のアリバイ確認まで要請しているようだ。
両者のやり取りを聞いていると、一週間ほど前にこの近くの住宅地で強制わいせつ事件があり、目撃情報をもとにパトロールを強化している様子だった。
「・・・・それじゃあ、事件のあった日には下仁田にいたというんですね?」
「はい、荒船温泉の近くで商売してました・・・・」
会社へ出した報告を確認すれば、彼のアリバイは証明されるはずだった。
しかし、住民から寄せられた不審者情報の中に時季を跨いで目撃された満男のクルマのナンバーが挙げられていて、警察の疑いの目を避けるることはできなかった。
会社の規模やら扱い品目に関する質問を織り交ぜながら、当日営業で回った集落の家々とその時刻を申告させられた。
そうこうしているうちに、本部から会社に問い合わせして彼の日報を確かめたらしく、とりあえずアリバイは証明されたようだ。
「朝香さん、今日のところは帰ってもらいますが、呼び出しがあったら出頭できるように携帯電話の番号を教えておいてください」
「まだ疑ってるんですか」
「いや」
否定はしたものの、すっきりしない年嵩警官の態度に何か含むものが感じられた。
日頃クルマを走らせながら訪問先を物色する彼の行動が、下見を繰り返したり、誰かを待ち伏せする行為のように誤解されたのだろうか。
他人から見れば不審者と間違われやすい動きかも知れないが、セールスマンならその程度は当たり前ではないか。
一点説明しづらいのは、あの美しい猫に出会ったときのストーカー的行動だ。執着心にとらわれ、誘拐まで考えた頭の中は誰にも明かせない。自分でも説明のつかないほど惹かれるのは何故なのか。
振り返り振りかえり歩み去った猫の存在が、結果的に満男の存在を胡散臭いものにしているのはたしかだった。
せっかく高額商品を売って好い気分だったのに、気分は最低に落ち込んでいた。このまま高崎にある本社まで帰るわけにはいかないし、こちらから電話するのも億劫な感じだった。
放って置いても向こうから連絡してくるはずだ。携帯電話をマナーモードに切り替えたまま、あとの予定を考えあぐねていた。
どこでもいい、とにかくこの場所を離れたい。この地域は彼にとって鬼門なのだろうか。セールスの首尾からいっても、相性はあまり好くないようだった。
先に帰っていったパトカーの存在を意識しながら、もと来た道をたどってバイパスとの交差点を横切った。
いったん国道18号に乗ったが、中軽井沢駅前の信号で止まったとき急遽ひらめいて146号線へと左折した。
(そうだ、草津へ行ってみよう)
頭の中が混乱しているのか、何一つ計画が立てられなかったが、思いついた言葉に誘導されるように、気持ちが安易な方向へ流れていく。
星野温泉を過ぎ、急坂の千ケ滝地区をくねくねと登る。
この辺りは霧の季節には十メートルの視界もなくなることがあるが、汗ばむほどの陽気となったいまは緑の風に迎えられて心の憂さも吹き払われるようだ。
さらに高度を上げると木々の間から浅間山が見えてくる。峠を登り切って峰の茶屋に差し掛かる頃には、アリバイまで調べられた動揺も多少収まって、自分が草津へ向かっているのだという現実をはっきりと意識した。
そういえば、いつか父殺しをした少年が草津の旅館に投宿していたというので、話題になったことがあった。
テレビでもラジオでも格好のニュースとなって、数日に亘って事件の真相を暴き立てた。新聞や週刊誌もこぞって取り上げたが、果たして真相究明はなされたのだろうか。
いまとなっては記憶の片隅に押しやられた事件だが、「一度は温泉に入ってみたかった」と供述した少年の言葉が思い出されて、いまさらながら父殺しに走った彼の心中に哀れを覚えたのだった。
(犯罪に関わると温泉に行きたくなるのかな・・・・)
事件との遭遇でぽっかりあいた心理の隙間に、少年と同じあっけらかんとした願望が湧くのを理解できた。
「不謹慎な・・・・」と世間の人は思うだろう。「自分の起こした罪の深さをまったく認識していないのか」と。
自ら正視できないほどの惨劇だから、無意識のうちに事実を消し去ろうとする病理上の仕業なのだ、とも。
朝香満男は、もしかしたら自分も無意識のうちに罪を犯していて、温泉街の持つ曖昧さの中に身を置こうとしているのかもしれないと疑い始めていた。
昼間の共同浴場に入ったとき、彼はこの町に住む人々の多様さに驚いたことがある。老人が多いのは当然として、それら一人ひとりの外観や言動からとても堅気の人生を送ってきたとは思えない者もいた。
皺で変形した太ももの刺青、凄みの増した顎の傷跡。そうした顕著な痕跡を抜きにしても、目の光や声の質に片鱗が残っている。
生き方に貴賎はないが、ときおり紛れ込む壮年の男や女の中には、ひそかに人目を避けて生き延びる輩も居るのではないか。
疑うのは本意ではないが、湯煙の底に沈む温泉地特有の瘴気が犯罪者の欲望を強く刺激するのではないかと、道行く人にまで警戒の目を向けることがあった。
満男は、午睡の夢に翻弄された体の火照りが、まだ不如意なままどこかに残っているのを意識した。
警官に水をかけられた火の熾きが、一時の困惑の陰からぶすぶすと燻りだしているのを感じていた。
こんな事態に引きずり込まれたのは、ニャーっと目を細めて振り返った猫の存在抜きには考えられなかった。
満男の網膜に貼りついた優美な猫は、艶めかしい姿態を撓らせていつまでも誘いつづけるのだ。
草津をめざして鬼押し出しラインとの分岐を右に取った満男は、ロマンチック街道の表示板に案内されてひたすら目的地に引き寄せられていた。
商談が進んでいるので帰りが遅くなる・・・・。
会社へは嘘の電話をして、湯畑近くの駐車場にクルマを停めた。
共同浴場の一つ『白旗の湯』はすぐ近くだ。目に付きやすい場所にあるから休日などには混雑するが、この日はたまたま空いていて、尋問でかいた冷や汗まで流すことができた。
石鹸も使わない。シャンプーも用いない。それでも頭から熱い湯をかぶると心身がしゃきっとする。
あがりには小さい湯船のとびきり熱い湯に入るのが満男の習慣だ。二分と我慢できないのに、ぎりぎりまで頑張ろうとする。子供じみてはいるが、そうした癖はいつまでたっても変わることがなかった。
駐車場は時間制の料金体系ではないから、気兼ねなく停めておくことができる。それでもあらかじめ奥の方に駐車したのは、出入りのクルマや係員の目を避けたいという思惑があったからかもしれない。
ハンドルに濡れたタオルをかける。靴も靴下も脱いでリクライニングシートを倒す。背中を伸ばすと、一日の疲れなのか、温泉の癒しなのか、彼は再び眠りに落ちていった。
ぐっすり眠って目覚めると、すでに日が傾いていた。
夢に脅かされずに眠れたのは意外だった。そのことで満ち足りた思いが甦ってきた。
急に空腹を覚えた。
会社に帰る前に、温泉街の食堂で腹ごしらえをしていこうと駐車場を抜け出した。
湯畑を取り巻く遊歩道に上がると、周囲の飲食店が見渡せた。そば屋に寿司屋、うなぎ屋もあるし、焼き鳥屋もある。
昼は焼肉弁当だったから、今度は麺類がいいだろうと、ひそかに心に決めている。探していると、ラーメンの文字を白抜きした旗が二本道路に乗り出しているのが目に入った。
遊歩道を下りてまっすぐに店に向かう。近づくと店前の立て看板に本格的な中華料理のメニューが掲げられていた。
二、三組の先客が居るのを確かめて店内に入った。
「いらしゃいませ・・・・」
中国人らしい太った女が近づいてきた。
満男が席に着くと同時に、太い腕が水の入ったコップをドンと置いた。
「何をいたしましょうか」
大きな声で注文をうながす。満男の横に立ったまま、早くしろとばかりに見下ろしていた。
目の前に置かれたお冷やは、コップ全体が黄ばんで見える。洗っても落ちないのだろうか、とうてい飲む気にはなれなかった。
「とりあえず、ビールで・・・・」
しかたなく瓶ビールを注文した。
「おビール一本」
オーム返しに、女の声が頭上を飛ぶ。
「それから、海老チャーハン」
せかされて、思いもしないメニューを口走っていた。
「エビのチャーハン一丁」
麺が食べたいとあれほど決めていたはずなのに、ビールの摘まみにもなろうかと一瞬迷ったことが悔いを呼んだ。
女が復唱してしまった以上、変更はもはや不可能である。
奥の方へと引き返していく女の背中を見送りながら、満男は自らの脆弱さを苦々しい思いで見つめていた。
(続く)
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のっけは、美人猫に惹きつけられる話。これだけで一遍の物語としても面白い。
そして、しかし次から次へと新展開。そのいずれも、まだ決着はついていないみたいです。
話はどこまで広がり、閉じていくんでしょうか?
なんだか長い小説になるようですが、心躍らせお待ちしていますよ。