飛ぶ
四月二十日の逓信記念日に永年勤続を表彰された課長代理が、問われるまま苦労話を披露した。報告がてら職場巡りをしている最中だった。
「勤続四十年とは驚きました。いろんなことがあったんでしょうね」
水を向けられると、もう止まらない様子だった。
「当時はね、臨時補充員という身分で入って、一年間じっくりと勤務態度を見られたもんだ。まあ見習い期間だから、必死に働いたなあ。・・・・きみらのように採用されてすぐ公務員になれるわけじゃない。郵政事務官なんて、わしらから見れば夢みたいな話なんだよ」
「そうですか。・・・・いまは誰でも事務官ですから、ありがたみは薄いですがね」
「給料だって、半月ごとの支払いさね。一遍に渡すと毎月晦日に足りなくなるから、やり繰りし易いようにという親心だったんだろうけど」
「へえ、堪らないスね。初めて聞きました」
明治四年に、前島密が海外で学んだ郵便制度を日本に導入した際、しばらくは「垂れ便」などと揶揄する輩がいたという。
こうしたエピソードは、草創期の苦労を伝えるものとして初期研修の場で教官の口から聞かされたものだった。
吉村は郵便にまつわる歴史を知るなかで、当時の郵便配達夫が置かれた身分の低さに思いを馳せた。飛脚、馬方といった職業の延長上に、出発点があったからかもしれなかった。
日本の近代化をリードした中枢の役人と違って、今に引き継がれる現業従事者の意識は、そのころからさほど変わっていないような気がするのだ。
春闘のたびに<三公社五現業>などと新聞紙面をにぎわすが、その中核として最大の構成員を抱えながら、身分に関する冴えないイメージはいつまでも払拭できないでいるのだった。
「郵政事務官という肩書き、名前だけ与えて誤魔化したんスかね。でも、それで気分がよくなったんなら善しとするしかありませんがね」
吉村は最近あった出来事を話した。「・・・・この間、大口小包の引き受け交渉で名刺を使ったら、訪問先の総務部の人が急に態度を改めたんですよ」
「ほう、ほう」
「つい最近まで、郵便配達員が名刺を出すなんて考えられなかったし、それより郵政事務官という肩書きを見てびっくりしたみたいスよ」
「事務官と聞くと、なんだか偉そうだしな・・・・」
「事務官も事務次官も、一緒のように思うんじゃないスか」
各省庁トップの役人と郵便配達員の落差を考えて、吉村と課長代理が顔を見合わせて大笑いした。
「それでも、多少社会的地位は上がったかね」
課長代理が自信無げに訊いた。
「近ごろの新人は、ほとんどが大学出だというし、郵便局の人気はけっこう凄いんじゃないスか」
吉村は、まもなく定年を迎えるであろう課長代理が、自分の職場に誇りを持って辞めていけることを、ともに喜んでやりたい気持ちだった。
わずか六、七年前のことが、はるかな過去に思える。彼が新規採用された郵便局で、局長を前に「宣誓」をしたときの場面が想い出された。
正確な文言は忘れたが、「国民全体の奉仕者として、公共の利益のために、不偏不党かつ公正に職務を遂行する」と誓ったのだった。
だからこそ使命感を持って仕事をしてきたつもりだが、最近の物品販売の強制には、ご時世とはいえ理不尽なものを感じていた。
レターセットや絵葉書セットのうちはまだ納得がいった。しかし米やラーメンまで扱うようになると、小包料金分は確実に割高になるのだから、多くの客に負担をかけるのは目に見えていた。
実際、一度は無理を聞いてくれても、次からは断られることが多い。仏の顔も三度までで、客との信頼が崩れて気まずい思いをすることもしばしばだった。
「営業に精を出すのも大概にしないと、誤配達や亡失事故が増えて信用をなくしちゃいますよ」
かつて吉村も課長に進言したことがある。
しかし当局の方針が変わるわけもなく、目標と称するノルマが次第にきつくなり、営業成績によって勤務評価が左右されるケースが増えていった。
「そういえば、昨日課長代理が式典に出ている留守に、派手な苦情申告があったんですよ」
吉村が話題を変えた。
「おお、あれね。聞いたよ」
課長代理がうれしそうに笑った。本来なら自分に回ってくるはずの苦情処理を、偶然免れることができた悦びだった。
代わりに申告者の家に向かった班長が散々な目にあったことは、すでに伝わっている。何度思いだしても我が身の幸運がうれしくて、自然に笑みがこぼれてしまうといった風情だった。
「その家、オートロックのマンションだったそうじゃないか」
「そうです。リビングルームに黒塗りのピアノがドンと置いてあったそうです」
「なんだかバリケード築いて監禁されたみたいな気がしないか」
「実際三時間近く、帰してくれなかったそうです」
原因は、昨日の午後六時開演予定だったイタリア歌劇のチケットが、当日の朝になってもまだ届いていないとの苦情だったらしい。
「キンキン声の小母ちゃんに、大分ごねられたらしいね」
「ええ、今世紀最後の日本公演だから、見損なったら次のヨーロッパ公演に行く飛行機代を出せと大変な剣幕だったそうです」
「一応、解決はついたんだよね」
「チケット業者に調べてもらったら、電話予約は承ったが入金が確認できなかったのでキャンセル扱いになっていると言われたそうです」
「じゃあ、客の落度じゃないか」
苦情を申し立てたものの自分の失態だと気付いた客は、引っ込みがつかなくなって業者にまで八つ当たりしたらしい。
呼びつけられた班長は、憤懣やるかたない気持ちを押し殺して、しばらく成り行きを見守った。客が劣勢になっていくのを、意地悪く見届けてやろうとする気持ちもあったようだ。
「じゃあ、これで失礼させてもらいます」
電話が切れたのを潮に腰を上げた。「飛行機代は業者に出してもらってください・・・・」
実際に口にしたのか、単にそう言いたかったのか。捨て台詞のくだりは笑いにかき消されて、吉村にはよく聞き取れなかった。
菜種梅雨とでもいうのか、雨合羽を放せない日々が続いていた。
郵便配達にとって、雨は歓迎すべからざるものだった。郵便物を濡らしてはいけない。配達に時間がかかる。なによりバイクはスリップ事故を起こしやすいので、神経をすり減らしながらも手早く仕事を済ませなくてはならない。一日の終わりに普段の二倍も疲れたと思ったことが何回もあった。
その日、吉村は速達二号便でバイクを走らせていた。
久美とのことも、遅くとも来年春ごろまでには具体化しなければならない。安い給料でやっていけるのだろうか。最初は共稼ぎで頑張ると久美は言ってくれる。しかし<ふくべ>に手当てを支払わせるのは心苦しい。
吉村の悩みはけっこう深かった。
こうしたときは山へ向かえばいいのだが、わずかでも結婚資金を貯めようと決心して、すでに財形貯蓄を始めている。
やむを得ず山行きを止めた欲求不満もないとはいえない。あれやこれやの苛立ちがぶつかりあって、吉村の配達ペースを鈍らせていた。
各戸の郵便受けの前で小刻みに停車を繰り返し、急に方向転換をして反対側の家の玄関先につけたりする。
腕時計の曇った文字盤を透かしてみると、すでに十五分ほど遅れている。昼休みに同僚と将棋をする約束があったことを思い出す。短い休憩時間では、一番指し終わることさえ難しくなってしまう。吉村の帰りを待つ同僚の、いかつい顔が明滅した。
速達の合間に、書留の配達が混じる。
ブザーを押し、玄関に人が現れ、印鑑を取りに奥へ戻り、それを持って彼の前に出てくるまでの時間が、やたらに長く感じられる。
少しでも手順を省かせるために、玄関先に立つと同時に「書留です。ハンコをお願いします」と呼び立てる。
返事がなければ短くブザーを押し、再び声をかける。
たまにはキビキビと反応してくれる家もあるが、吉村が急くほどには効果は現れなかった。
「どうもありがとうございました」
どんなときでも、彼は感謝のことばを置いてくることにしていた。
配達を急ぐ焦りが表情にも仕種にも出ているはずだから、それを緩和するためにも必要な処方だった。
「ご苦労さま、ひどい降りでたいへんね」
昼の支度を中断させられた主婦も、急に笑顔を取り戻して吉村を送り出してくれた。些細なことだが、吉村たちの日常も危ういバランスの上に乗っかっていたのである。
戸外に出た途端、ヘルメットの縁を回り込んだ水滴が首筋に入ってきた。
合羽の襟の内側にスポーツタオルを巻いているのだが、すでに汗と湿気を充分に吸った生地は、他愛なく雨滴の通過を許して吉村の胸板へツーっと這わせた。
肋骨の中心を通って鳩尾から臍まで滑り落ちる。ひとたび道ができると、水の滴りは気脈を通じたように次々と滑り降りてきた。
吉村はバイクから左手を放して、胸元を押さえた。
蒸れて暑がっていた皮膚が、異質の感覚を押し付けられて粟立った。
一瞬、注意力が散漫になったのか、前輪がわずかな段差に乗り上げた。予想もしない衝撃を受けて吉村の体勢が崩れた。放していた左手が空気を引っかき、バイクのハンドルを越えて宙を飛んだ。
飛びながら、吉村は以前からその光景を繰り返し脳裏に描いていたような気がした。・・・・半回転して、右肩から路上に叩きつけられる。ほうらね、と予想したとおり肩に衝撃を受け、時間を経ずにヘルメット越しに頭蓋を揺らす大音響を聴いた。
吉村は気を失っていた。
意識が戻ったのは、救急車のストレッチャーの上だった。耳元で呼びかける声がうるさくて顔をしかめながら目を開けた。
覆いかぶさるように男の顔面があった。白ヘルメットから伸びるベルトのせいで細面に見える隊員の、緊張した顔が印象的だった。
「郵便局さん、だいじょうぶですか」
救急隊員の問いかけに、吉村は深い息を漏らした。
生きてはいるようだが、大丈夫かどうかは分からない。そちらで判断してくれよと、逆にお願いしたい心境だった。
「吉村さんで間違いないですね」
うなずこうとして、ズキンと走る痛みにたじろいだ。
「あっ、動かないで! しばらく目を閉じていてください」
言われるままに瞼を閉じた。
吉村は、いま非現実的な空間を高速で移動していた。地上とはおもえない時空を裂いて、ひたすら後方へ引き寄せられていく。
サイレンの音が、彼の意識の両側を流体となって撫ぜていく。微かに音階を変えたように思うのは、気のせいだろうか。救急車で運ばれながら、車内でドップラー現象を知覚するなどあり得ないだろうと、その時の不思議な感覚をいぶかしんだのは大分後になってからのことだった。
救急車が本部と連絡を取り合っている。断続的に続く交信を、吉村はふむふむと吟味しながら聞いていた。
<現在、逓信病院へ男性一名搬送中。氏名は吉村洋三、二十六歳。血液型はA型。身体各所に打撲あり。頭部は強打の模様も、意識回復・・・・>
免許証を見れば、あらかたの情報は分かる。しかし、血液型はどこで確認したのだろう。
(そうか、合羽の裏に書いてあったっけ)
緊急時の備えに、氏名と血液型を記入する欄がある。念のために書き込んでおいた名札を見て、救急隊員が報告しているのだ。
「まもなく病院に着きますから安心してください」
隊員が再び吉村に呼びかけた。「・・・・脳震盪のようですが、ヘルメットが割れてますから、衝撃が吸収されたのかもしれません」
力付けるつもりなのか、専門的な見解を述べた。
吉村の方も、さほどショックを受けることなく隊員のことばを聴いた。
矢継ぎ早に話しかけるのは、意識を戻しておくためだったのかもしれない。すべてはこれからの検査で分かるはずだが、救急隊員の口ぶりから楽観的な気分をもらったのは確かだった。
救急車のサイレンが止み、ロータリーを半周したクルマは緊急受付の入口前で止まった。吉村はストレッチャーごと下ろされ、あわただしく廊下を滑走して診察室に運び込まれた。
顔のあたりでさわさわと空気が動き、医師と看護婦にバトンが渡されたようであった。CTスキャンで脳内出血の有無も調べられ、その結果を何人かで判定する声が視野の外から流れてきた。
「いまのところ異常は見られませんが、腫脹が心配なので一晩様子をみてみます」
「そうですか、よろしくお願いします」
「左大腿骨および右鎖骨付近に痛みがあるようですので、そちらの処置も行ないます」
「ありがとうございます。それで、付き添いなどはどのように・・・・」
どうやら課長代理が来ているようだった。
「いや、まったく必要ありませんよ。今日のところは、お帰りください。ただ、しばらく入院ということになりますので、明日にでも手続きをしていただくことになります。細かいことは受付窓口でお確かめください」
「家族への連絡などは?」
「緊急に呼び寄せるような状況ではありませんので、あとはそちらで判断してください」
「分かりました。一応、事故の様子だけは伝えておきましょう」
(そうか、家の方に電話がいくのか・・・・)
吉村は痛みのなかで懸命に善後策を考えた。できれば、おふくろに余計な心配をかけたくない。
「代理、家への連絡はもう少し待ってください」
「おお、聞いていたのか。だいじょうぶ、簡単に経過を説明するだけだ。心配は要らないからと念を押しておくよ」
なだめるように、声が近付いてきた。
「おふくろは血圧が高いんですよ。びっくりさせないように、自分で電話しますから、それまで待っていただけませんか」
「・・・・弱ったな。課長にも相談して、なるべくキミの言うとおりにするよ」
病人の懇願を、とりあえずは聞くしか方法がなかった。
「すみません」
管理者とすれば、まずは家族に連絡して責任を免れたいところだ。吉村は済まないと思いつつ、もう一つの気がかりにも言及した。「・・・・それで、ぼくの鞄はどうなりましたか」
「ああ、心配いらんよ。書留鞄はキミが身に付けていたし、郵便鞄も周囲の人が保護してくれた。荷台のファイバーもネットと雨覆いでガードされていたから、業務上の支障は生じなかったようだ」
まもなく課長代理は帰っていった。
その夜、吉村は点滴を受けながら夢と現実の間を往復していた。
――目の前に田園風景が広がっている。秋の夕暮れ時なのだが、一日の終わりを惜しむように西日が激しくあたりを照らしている。田んぼの稲は重い実をつけて、地面に触れんばかりに垂れ下がっている。
畦道をなにか動いていくものがある。おふくろが愛用する白いスクーターだ。
吉村は山の端にある家の二階からそれを見ている。悲しくて泣きたいのだが、息をつめるようにして堪えている。泣くと父親がさらに荒れ狂い、取り返しのつかないことになりそうで怖いのだ。
「あんたが出て行かんなら、わたしが出て行きます。どこぞへ落着いたら、洋三を引き取りに来ますから」
きっぱりと言い捨てて、荷台にスーツケースを積んだ母親が出て行った。前方を見据えたまま、振り返りもせずに畦道を進んでいく。
スクーターの音は、もう聞こえない。だんだん遠ざかり、海との境のあたりへ大きく弧を描いて溶け込もうとしている。
吉村の目から涙がこぼれる。
「かあさん・・・・」声にならない。
「・・・・かあさん」嗚咽が込み上げてくる。
それでも、母親の姿を見失うまいと目を凝らし続ける。
陽の光は、色を薄れさせている。黄金色が輝きを失くして、薄墨色が忍び寄っている。
いくつの頃のことだったか。そのとき、お兄ちゃんのことに触れない母親を不思議におもったのを覚えている。自分を連れに戻ってくると言った母のことばが、嬉しい反面なぜか崩れていきそうで、底なしの不安に打ちのめされた。
あの時の癒えることのない悲しみが、折にふれて甦ってくる。
(ああ、夢を見ていたのか)
点滴の針を刺した二の腕が痺れている。目尻から涙がこぼれ、無意識にそれを拭おうとしたのだろうか。
「すみません、看護婦さん」
「どうかしましたか・・・・」
「点滴が外れていませんか」
「もう少しで取り替えますよ。ゆっくり眠れますからね」
どういう意味なのか。しかし、深く忖度する気力もなくて、言いなりになることにする。やさしい声だから、それでいいやと任せたのかもしれない。
(女性がその場に居ると、どうして落着くのだろう)
吉村はぼんやり考えていた。久美と一緒のときも、彼女が発する温もりの磁場に包まれて、安らかな時を過ごすことができるのだ。
夢にまで見る悲しみの記憶も、自分を包む温もりとついに隔絶されてしまうことへの恐れから生じてくるのではないか。
(おふくろが居なくなる)
どんな理由であれ、子供にとって母親を奪われることは死の宣告に等しいのだ。
「不思議だなあ」
吉村は再び眠りに引き込まれながら、声に出して言った。
スクーターと共に消えて見えなくなった母が家に居て、いつからか父親が姿を消したのだ。
初めのうち吉村は、狐につままれた思いで母親をみつめたものだ。
「洋三、変な目で見るの、やめて」
母の困ったような表情が脳裏に焼きついている。
保険外交員として働きに出た母の留守を、母がわの祖母が面倒見することになった。兄はどうおもったか判らないが、吉村にとってはかけがえのない代理の母親だった。
父と母の間に何があったのか、本当のところを吉村は知らない。父に係わることを口にするのはタブーになっていて、疑問を抱くことすら心の中で規制していた。
「父さん、なぜいなくなったの?」
ただ一度質問したのは、中学生になってからだ。
「女と出て行ったんよ」
抑揚のない言い方の中に、母の意地が感じられた。
高校受験をすることになって、あらためて父親の存在を求められるようになった。未熟なりに競争社会に足を踏み入れたのだ。
母は働くだけでなく、父親にもなった。強い父親になろうとして、吉村が困惑するような振る舞いをすることもあった。
彼が長じてからは、父のことを訊くことはなかった。
母の中で、父は消し炭ほどの余熱も持っていなかった。
「父さんは、ぼくだけの父さんでなくてもいい。とにかく、幸せになってくれればいい」
何年か前から、そんなふうに思えるようになっている。「・・・・もしかしたら、ぼくと同じ東京の空の下にいて、駅とか盛り場とかですれ違っていたりして」
また涙が湧いた。感傷かもしれないと思った。
目を閉じていると、心も身体も浮遊しているような錯覚に囚われる。心地よい涙は、自分のためのモルヒネだ。鎮静剤が仕込んであるのか、体中を廻る輸液がせせらぎのように吉村を慰撫した。
いずれ久美が見舞いにくるだろう。
その時には、居なくなった父親のことを話すことができるだろう。
夢のように不思議な入れ替わりとなった現実の話を、涙なしで伝えることができるだろうと思った。
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