日々是好日
マリオン・クロックの前は、人ごみでごった返していた。
有楽町駅から流れてくるJR利用客と、真近の地下鉄銀座駅から湧き出てくる乗客が一緒になって広場にあふれていた。
久美はこの場所なら待ち合わせに最適と考えたのだろうが、吉村は人出の多さに不安を感じていた。
待ち合わせ時刻の十一時までに、久美の姿を見つけることができるだろうか。
吉村は車道と歩道を隔てる金属フェンスに寄りかかって、伸び上がるように久美を捜した。
折りしもビルの壁面に設置された大時計がせり上がり、小人の音楽隊がキラキラとメロディーを奏でながら正時を告げはじめた。
西欧仕込みのカラクリが、この時刻を待って集まってきた人びとの期待に応えて、ひとしきり夢の世界を紡ぎだしてみせた。
これまでに幾度も装いを変えた広場は、人と人との出会いをたくさん見てきた。名もない群衆の一人ひとりを、分け隔てなく見守ってきたともいえる。
時には、出会いの果ての別れも見たことだろう。時間が織り成す哀歓と、涙の色も・・・・。
むかし、『君の名は』というラジオドラマが、日本中の女性を虜にしたという。その後映画も作られ、ヒロインの氏家真知子と女優の岸恵子が一体のものとなって記憶されることになった。
吉村の母も祖母も九州のはずれに生きながら、数寄屋橋でのすれ違いに胸を熱くしたという。ふたりで思い出を語り合っていた情景を、吉村はしっかりと覚えている。
<有楽町・・数奇屋橋・・>なんと楽しげで、不思議な出会いを予感させる地名であろうか。
子供心にもそこが特別の場所のように感じられて、密かに胸をふくらませたものである。
あるいは勝手に「好きや・・橋」などと思い込んでいたのかもしれない。頭の片隅に、そんな甘い感情が残っているような気もする。
誰もが知っていて、飽きるほど口にされた知名の地だが、吉村の中を通過していった想いは、それはそれでバカにできないものだろうと懐かしくおもうのだった。
一度は東京の有楽町に行って、後宮春樹と氏家真知子の悲しい恋に立ち会ってみたい。・・・・母の人生を振り返ると、狂おしいまでに自分の心を重ねたいと願った時期があったはずなのだ。
父との軋轢で鬱々と悩んでいた日々、きっと本音で生きることを求めていたに違いないと憶測するのであった。
その母はいまも働きずくめに働き、祖母はすでにこの世にいない。そして、数寄屋橋も面影さえ留めず、その名を残すのみとなった。
時の流れは気まぐれで、残酷なこともある。
軍靴の響きも、パンプスの音も、ともに高らかに石畳を蹴った。時代の趨勢におもねり、流行に流されて今日に至っている。
広場が見てきた幾多の歓びと哀しみの集積は、いまも同様のスタンスで人びとを待ち受けている気がした。
(久美は何処にいるのだろう)
長身の吉村はさらに爪先立って、動き始めた人の流れを目で追った。
「よっ!」
いきなり腰の辺りを叩かれた。意表を衝かれて見開いた吉村の目に、久美の笑顔が飛び込んできた。
「びっくりさせて、もう・・・・」
文句を言いかけた吉村に、久美の腕が絡んできた。
「ミーアキャットみたいにキョロキョロ捜していたけど、見張りとしては失格よ。あたし豹のように忍び足で近付いて、ガブッと噛み付いたんだからね」
わたしの勝ちよといわんばかりに、絡んだ腕で吉村のわき腹をぐりぐりと押した。
「どうして見つけられなかったんだろう」
吉村はほんとうに不思議そうな顔をした。「・・・・分かった。他人の背中に隠れてきたんだろう?」
デートの度に、久美のことを好きになっていった。
きょうの久美は、着物のときとは違って髪型まで変えている。ブルーのコートの肩まで垂らした髪が、冬の陽を浴びて艶々と輝いていた。
いきなり白馬の雪渓までついてきた久美の行動力は驚きだった。あれから大した年月が過ぎたわけでもないのに、所帯を持つのはこの人と決めている。久美の側の期待も吉村以上で、家族ぐるみで二人の結婚を待ち望んでいるのだった。
久美の思い切りの良さと家族おもいのやさしさは、共に吉村の宝物だった。そして彼女のこころの中でも、すでに吉村は家族の一員なのだ。
「さ、行きましょう?」
行き先も言わずに吉村を引っ張って、日比谷側へ渡る交差点に向かって歩き出した。
お堀の見える通りに出て右に曲がった。まもなく立ち止まった久美が大きな建物を振り仰いだ。
「ここよ」
帝国劇場だった。
吉村は威風堂々とした建物に圧倒されて押し黙った。
「ごめんなさい。あたしの都合で付き合わせちゃったけど、実は公演の指定席券をもらったものだから一緒に観ていただきたいの。いいでしょう?」
確かめるまでもなく、評判のミュージカル『ラ・マンチャの男』が、大きな看板となって客を迎えていた。
市川染五郎のモノトーンの印象が、ロングランを支えた気迫を伝えてくる。
映画にしろ、演劇にしろ、自ら進んで劇場を見歩くほどの興味はなかったが、原作者セルバンテスや登場人物ドンキホーテとサンチョパンサの名前ぐらいは想い浮かべることができた。
初めは緊張していた吉村だったが、地下のレストランで食事を摂り、開演を待つ間に幸運を自覚した。
一週間ほど前、<ふくべ>に立ち寄った演劇関係の馴染み客が、久美の恋人出現を嗅ぎつけて観劇券をペアでくれたのだという。
散々からかわれた久美には気の毒だった。・・・・おばあちゃまが口のチャックを締め切れずにおしゃべりするものだから、明日にでも挙式をするものと勘違いされて大変だったと久美が憤慨してみせた。
「これは洋三さんにも責任があるんだから、今日はあたしの言うことを聞くしかないことよ」
強引に事を運んだのは、ちゃんと理由があってのことだと押し切る勢いであった。「・・・・その人おばあちゃまの知り合いで、歌舞伎の人とも交流があるらしいの」
チケットを贈られた経緯はなんとなく分かった。久美の祖母の立ち居振る舞いからも、どこかしら品のよさを感じていただけに、<ふくべ>を基点にした人脈の厚みのようなものを認識させられた。
久美から渡されたパンフレットを読んで、吉村はにわか演劇通になった。自分には縁遠いものと思っていたが、こうして啓蒙されてみると一度も覗いてみたことのない世界が身近に感じられる。
郵便局員としての壁に、久美が風穴を開けてくれたのだ。
雲間から射す日矢を目の当たりにしたような昂ぶりが、舞台の進行とともに高まっていった。
『ラ・マンチャの男』がラマンチャ村という地名に由来するなんて、考えたこともなかった。日本のミュージカルを胡散臭いものと思っていたのに、いつしか引き込まれてしまった。サンチョ・パンサ役の太っちょはなんという役者だろう。生の音楽演奏はどうしてこんなに心地よいのか。
吉村はオーケストラボックスから湧き起こる圧倒的な音量と、主人を失った従者の軽妙な嘆きの歌に吸い寄せられながら、久美に気付かれないように手元のパンフレットを盗み見た。
(小鹿番・・・・)
可笑しくって、可笑しくって。
舞台が跳ねてお堀端の道をふたり肩を並べて歩きながら、吉村は自然に久美の手をとった。外気に触れて冷たくなった皮膚の下から、久美の温もりがじんわりと甦ってきた。
「サンチョパンサみたいな人、郵便局にもいるよ」
「えっ?」
「リボンの表紙みたいな少女マンガを描いているんだけど、けっこう現実的なんだ」
「どんな風に?」
「このごろ郵便配達中に、ふるさと小包の注文を取らされているんだけど、みんな適当にやっているのに、その人夢中で営業してくるんだ」
「いけないの?」
「上司の点数稼ぎに狩り出されるところが、なんとなく似ている気がして」
「郵便局も変わろうとしているのね・・・・」
ほどなく日比谷公園の入口に差しかかった。足が自然にそちらへ向かっていた。園内には午後のひと時ふたりで肩を寄せ合うカップルが多く見られた。
ベンチに腰を下ろす男女、ゆらゆらと歩き続ける恋人たち、馴染んだ水のなかを安心して泳ぐ水鳥のように、幸せの時間を楽しんでいた。
大きな樹木のさらにその上に、ビルの頭が見え隠れしていた。東京を砂漠に見立てて、この一帯をオアシスという人もいる。最初に誰が譬えたのか、陳腐におもわれる事柄でも自ら肌で感じとってみると、表現者のこころの動きがみずみずしく伝わってくる。
心字池をめぐると日比谷茶廊が見えてきた。
「あなた、喉が渇かない?」
「コーヒーが飲みたいな」
冬枯れの庭を通って、しゃれた雰囲気をもつ建物にはいった。
日曜日のせいか、ここで一休みする先客が五、六組いた。おいしそうなオムライスを前に、おしゃべりを止めない少女が居る。
(早く食べないと不味くなりますよ)
お節介かもしれませんが、作った人もハラハラしているんじゃないですか。
いつもなら憤慨するところで、気持ちが羽毛のように膨らんでいる。
(今日のおれはどうかしているぞ)
なんだか幸せ人間の仲間入りをしたみたいで、見るもの聞くものすべてが自分に微笑んでいるように思えた。
久美は紅茶、吉村はブレンドコーヒーを頼んで、長年親しまれてきたという日比谷茶廊からの眺めを楽しんだ。
ここは東京の息継ぎ場だ。地方から飛んできた若者が、同じ種類の渡り鳥をみつけて羽をやすめる場所だ。吉村も東京に出たてのころ何度かこの公園に来たことがある。遺跡のような野外音楽堂を眺めながら、果たしてこの舞台が使われることはあるのだろうかと、半信半疑のおもいを抱いたことがあった。
つい想い出をまさぐっているところへ、久美が小さな紙袋を取り出した。
「これ、洋三さんに。・・・・開けてみて」
言われるまま袋の口を開くと、真っ白なマフラーが畳んでしまわれていた。
「えっ、ぼくに?」
「ありふれているけど、買ったものよりいいと思って」
「そうか、ありがとう。・・・・でも、忙しいのによく時間がとれたね。それに、この毛糸ずいぶん細いから、編みあがるまでに普通以上の手間が掛かったんじゃないの?」
「あら、よく気がついたこと。太い毛糸だと首に馴染まないのよね。それで、ウールと木綿の混紡を使ったの。夕方になって冷えてきたら巻いてみて・・・・」
うん、と頷いて久美の瞳を見た。「・・・・来年中には、式挙げようか」
何度もプロポーズの意思は示していたが、具体的に言葉にしたのは初めてだった。
久美は恥ずかしそうに笑みを浮かべて、テーブルの上に手を差し延べた。吉村の指に指を絡ませて、彼のことばを確かなものとして受け止めた。
公園をひとめぐりして、人気のない木の陰で初めてのキスをした。
手をつないで歩いているうちに、足を止めた久美がふっと寄って来るような気配を感じて抱きとめたのだ。
距離を測り損ねて歯と歯がぶつかりそうになった。小柄な久美と長身の吉村では、何につけ融和の体勢を身につけなくてはならない。熱い息と唇の感触を受け取りながら、どこかで聞いたことのある失敗例をなぞってしまった自分を、しょうもない奴だと許していた。
信号を渡って日生劇場の前に出た。帝国ホテルとの間を通ってみゆき座の方向へ曲がったとき、ちょうど入れ替え時刻だったのか女性客が続々と吐き出されてきた。
吉村と久美も流れに乗るようにゆっくりと進んだ。
直進する人、シャンテシネ側へこぼれる人、群れが二手に分かれた。吉村は久美に従って右に進路を取った。こちらの方がひと通りが少なかった。
おそらく久美も人影の疎らな方を選んだのだろう。吉村は久美の判断を好もしく思い、姉さん女房の気楽さを替えがたいものとして受け容れていた。
「あら、屋台が出てる!」
ガード下の空間を屋根代わりにして営業する赤提灯の店を、久美が目ざとく見つけた瞬間だった。
「ああ、いいなあ。あたし一度でいいから屋台を経験してみたかったんだ」
ねえ、寄っていこうよというように吉村の顔を見る。
焼き鳥もおでんも人を誘うように匂いをたなびかせ、そろそろ空腹を覚えはじめた人びとを呼び込もうとしている。「・・・・あたしたち、いつもお客さんにお料理を出す立場だから、逆にあれこれ注文してみたいのよ」
ビールを頼み、二人でまず乾杯した。おでんを頬張りながら、再びグラスを合わせた。
名物親爺なのだろう、休日というのに客の集まりも悪くなかった。久美はたちまち慣れて、ねじり鉢巻の店主にビールの相伴をさせた。
「きょうは最高の日だわ。みなさんの健康を祝してカンパーイ」
元外国航路の船乗りだったという老人が割り込んできて、自慢話を始めた。焼き鳥の皿を引き寄せて、なんとか久美の気を引こうとしている。
「おじさん、ぼくたちにも焼き鳥をお願いします」
こちらはこちら、あなたはあなた。
食べかけのレバーはともかく、まだ完品の串焼きを久美に勧められる前に、吉村はかなり露骨なバリアーを張った。
「東京オリンピックのときは、どこの港でももてたなあ。ジャポン、ジャポンといってなあ。寄航するのを待ちかねて、目も眩むような女が迎えに来るんだ」
老人は一度ことばを切って、頭の中のストーリーを反芻したようだ。傍目には判らないはずだが、上目遣いに二、三度瞼をしばたく仕種が老人の思考の経路を映し出して余りあった。
「金髪、シルバー、いろんなのが居たよ。もちろん茶色や黒い毛の女もいた。それがさ、上も下もおんなじだから笑っちゃうんだ。わしは・・・・」
先を言いかけたとき、店主からストップがかかった。繰り返し聞かされている常連も含めて、次の展開は分かっているのだろう。
「キャプテン、孫のような別嬪さんが来てくれたんだから、そこまでだよ」
老人は残念そうに首を振りながら、元の位置に尻をずらした。
吉村はカウンターに置かれた焼き鳥を久美との間に移動し、スナギモの串を一本口に咥えて横にしごいた。急に萎んでしまった老人を見ていると、先刻のバリアーが過剰すぎた気もする。久美のことになると、ついつい過敏になってしまう自分を見出して、先がおもいやられると反省した。
『日々是好日』
特別のことはなかった気もするが、心の鏡に照らして曇りなく生きてきたことが本日という好い日につながっている。
きょう一日をたどってみても、ありふれた出来事の連続のようでいて、吉村にとっては非常に意味深い出合いの不思議を示唆してくれたのだ。
現象は夢まぼろしのごとく立ち現れるが、恐れず嘆かず感謝の気持ちで受け止めるのが大事なのだと、死んだ祖母が教えてくれた気がする。
(何があっても、久美を守る)
吉村はそろそろ<ふくべ>の家族に久美を連れ帰らねばと算段していた。
吉村君の出来事が、やっとひとつのヤマ場を迎えた観がします。同時に数寄屋橋や帝劇の出し物で、その時代が浮かび上がってきましたよ。思えば、良き時代でした。それを緻密に映し出しているところに、作者の非凡な才能がのぞていているようです。
もし、これからもこの物語が進展していくようでしたら、吉村君と久美はどうなっていくのでしょうか? そんなことも空想しながら楽しく読ませてもらいます。