どうぶつ番外物語

手垢のつかないコトバと切り口で展開する短編小説、ポエム、コラム等を中心にブログ開設20年目を疾走中。

<おれ>という獣への鎮魂歌 (15)

2006-03-21 18:56:39 | 連載小説

 おれが、もっとましなアパートを借りたいと言うと、ミナコさんは一も二もなく賛成した。
 もちろん、すぐに住居を変えることなど出来るはずはなく、おれも真剣に働いて早くそれを実現したいとの願望を述べただけだった。
 ところが、ミナコさんは、来月にも引っ越しが出来るように、明日から部屋探しを始めようという。仕事の合間を縫って、おれを手助けしてくれるつもりらしい。
 自動車内装会社の経理責任者として、また、認めたくはないが、週の半ばに訪れる社長を待つものとして、時間の重なりをどう捌くつもりなのか。
 おれの願いが、期せずしてミナコさんの立場を狂わせ、事態をこじらせ始めたことに、まだ気が付いていなかった。
「新しいアパートに移ってから、ゆっくりと仕事を探せばいいわ。お給料が入るまでは、わたしが立て替えておきます」
 それで好いかと、一応おれに念を押した。
 おれは、気兼ねしつつもミナコさんの申し出に従った。いま現在の意欲さえあれば、いずれ恩返しが出来るはずだと信じていた。
 中野の鍋屋横丁に近いアパートに入居したのは、五月の初めだった。国鉄中野駅から歩くと鍋横交差点の手前、青梅街道からも三味線通りからも百メートルほど内側の路地奥に建つバストイレ付きの二間の部屋だった。もとより簡単な台所もあり、自炊も可能だった。
 休日になると、ミナコさんが来て大量のカレーを作ってくれた。日持ちがするというだけでなく、温めるたびに味が深まる料理の特長から、おれが頼んで作ってもらったのだ。
 やがてミナコさんは、土曜日の夜に来て翌日まで、おれと行動を共にすることが多くなった。知り合った当時の激しい思慕こそ均されてきたが、おれにもたらされる安堵の気持ちはますます厚みを増していた。
「ミナコさん、ぼくたち前世でも一緒だったと思いませんか。・・何かの加減で長いこと離れ離れになっていたけれど、幅の狭い淵に吸い寄せられて一気に合流した水みたいな気がするんです」
 おれは思ったままを口にした。
「あなた、またそんな言い方をして・・」
 ミナコさんは、言葉を継ぐ代わりに、おれの頬を両手で挟んでぐりぐりとゆすった。
 引越しをしてきたといっても、大きな家具があるわけでもなく、荷物の整理はすでに済んでいた。
 一番あとまで整理がつかなかったのは、おれの身に染み付いた長年の習慣だった。
 部屋の広さの感覚になじめず、落ち着かない時間をおくることが多かった。環境の変化が気にならなくなるまでには、多少の時日が必要だった。
 おれは毎朝、中野駅まで散歩をし、駅売りの朝刊を買い求めて、求人欄に目を通した。帰りがけに杉山公園に立ち寄り、まだ人気の少ないベンチに腰をおろして、新聞を広げることもあった。
 これまでにも幾多の職業を経験してきたおれだから、理容師やボイラーマンなど資格の要る求人には見向きもしなかった。事務員募集も多いが、経理堪能の方などと条件をつけられては出る幕がない。
 結局、書籍運送会社の運転手か、コーラのルートセールスの仕事にでも就こうかと決めかけていたとき、おれは見慣れない広告を発見して気持ちが揺らいだ。
 <写植初心者歓迎>
 わずか三行の広告の中に、心をそそる文字が躍っていた。
 飯田橋にある有限会社たたら出版は、古びたビルの三階にあった。応対に出た公家顔の男は、せいぜい五十歳を過ぎたばかりと見える印象で、社長の多々良ですと名乗るまでは、手隙の社員が出てきたのだろうと思い込んでいた。
 おれの脳裏にある理想の社長像は、髪が薄く、赤ら顔の、やや腹の出た老人である。目の前で、おれの履歴書を読み下す細面の男は、正直のところおれの好みの社長とは対極に位置していた。
「失礼ながら、随分たくさんの職業を遍歴されてますね」
 多々良は、表情を動かさずにおれを見た。
「はい、わたしも履歴書を書きながらそう思いました」
 開き直りと思われればそれまでのこと、おれは悪びれずに多々良の顔を見た。
「珍しい人だ。普通は適当に間引いて書くものですが・・」
「そんなものですか」
 おれは、早くもその場を切り上げたくなっていた。採用の見込みもないのに履歴書談義など続けているのが、ばかばかしくなったのだ。
「ところで、本は好きですか。趣味の欄に読書と書いてありますが」
「たぶん、好きな方だと思います」
「わたしのところは、写植の仕事が七割、自費出版の編集制作が三割で、これから何でも覚えてもらうことになりますが、大丈夫ですか」
「あ、はい」
 予想外の展開になりそうだった。
 多々良は、何ひとつ知識のないおれに、<写植>のいろはから説明してくれた。実際に稼働中の写植機のそばにおれを連れて行き、小柄な男のオペレーターが操作する一部始終を見せてくれた。
「こちらの機械はモリサワ製で、いま打っている紺野くんの持ち込みです」
 説明しながら、ちょび髭の似合うオペレーターを紹介してくれた。
「・・奥の一台は写研製で、わが社の所有です。ふだんは若いオペレーターが使っていますが、学校の関係で休んだり、早引けしたり、稼働率が非常に悪いので、ダブルキャストで動かしたいと思っています」
 多々良は、正直に事情を話してくれた。
 印刷業界は、そのころ急速に変わりつつあった。活版印刷からオフセット印刷主流の時代に移り、植字や和文タイプの退潮を尻目に、写植組版の需要が盛んになろうとしていた。
 優れたオペレーターは、独立するか、他社に引き抜かれていく。売り手市場とあっては、おれのような素人を養成する意義も満更ないわけではないことが、しだいに分かってきた。
 おれは、机上での級数計算と写植機操作を一体のものとして覚えていった。
 機械がふさがっているときは、多々良の指導で書籍編集の技術を教え込まれた。
「きょうは、芳文社まで原稿をもらいにいってみようか」
 おれの運転で、水道橋にある漫画雑誌の出版社まで、軽自動車を走らせたりもした。暇があれば、こうして御用聞きにも似た営業が欠かせない。
 多々良の公家顔も、うまくいって笑みが漏れるようになると、好感が持てた。夏のさなか、冷房の効かない車内で汗を流し合った連帯感が、多々良に対する印象を変えていったのかもしれなかった。

   (続く)

 
 


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