その日、穂積隆三は夫人とともに家を出た。
ホテルへ直行するのも芸がないので、銀ブラでもしようと相談がまとまり、肩を並べての散歩を楽しんだ。
四丁目のやや奥まった場所にある郷土料理店で、北海道の味をたっぷりと楽しみ、再び大通りに出たときは宵闇が迫っていた。
あるいは宵闇というには、少し暮れ残っているという時間帯だったかもしれない。空がどんよりと重く、それが街全体を暗くしていたのだろう。秋の終わりというのに、うすら寒かった。人通りもいつになく少なめで、そばを通り過ぎる若者の足どりも早い。国電へ、地下鉄へと吸い込まれ、あとは正体のわからないものの影が歩道に貼りついていた。
見覚えのあるネオン塔が、巨大な生き物のように息をひそめている。昨夜まで膨大な電力を消費し、かがやく原色の装いを施していた物体が、いまはその骨組みもあらわに彼の頭上にある。終戦後ずっとやり通してきた彼の仕事も、言ってみればネオン塔を下から見上げているようなもので、醜悪な業界という枠組みがいまさらながら疎ましく、胸の底まで鉄錆の苦みで満たされるのだった。
「おい、ちょっと待ってくれ」
一緒に歩くといっても、一、二歩ずつ遅れがちになる彼は、話をするためにときどき妻を呼び止めなければならなかった。
近頃は息子の運転する車に頼ることが多くなったせいか、とみに脚力が衰えてきているのに気づいている。それに妻とちがって彼はもう若くないのだ。頭の働きだけでは補いきれない仕事上の弱点を、ひそかに気に病んでいたのである。
「どうだろうね。機会を見てあいつに後を譲ろうといういつかの話だが・・・・」隆三は長い間の迷いの決着をつける気になっていた。「もちろん当分はわしが見てやるが、そろそろ苦労のさせどきじゃないだろうか」
「だいじょうぶでしょうか」女にしては気丈な彼女も、この仕事のつらさは共に味わってきただけに、一人息子の将来に不安の声を漏らした。
隆三もまた思いは同じで、親の目から見ても人付き合いが得意とは思えない息子を、この世界に引き込むことに痛みを感じる。しかし一方では、無防備な性格が百戦錬磨のおとなに受け入れられるのではないかと、一筋の期待も抱いている。そうした心の振幅は、なかなか収まる気配がなかった。
「この日のために連れて歩いたんだし・・・・」彼はつぶやきに近い声でひとりごちた。「わしは今がチャンスだと思うんだが」
「そうですね。あの子に話してみて、ウンと言ったら任せましょうか」
しばらくは名称ばかりの社長であっても仕方がない。とにかく周囲にも認めさせ、本人にも自覚させることが何よりだと隆三は考えた。「あすにでも話してみよう。しかし、お前の苦労も尽きそうにないな」
笑いかけたが、当の時枝は歩きながらショーウィンドーのコート類に気をとられている。いつまでも物事に頓着する性質でない彼女は、早くも自分の趣味に熱中しはじめたらしく、隆三の存在を意識の外へ置き去りにしようとしていた。
「おいおい、むこうにお堀が見えるだろう。あそこを左へ行ったところだよ」説明をよそおいながら、隆三はふたたび妻を呼び止める。思えば二度目の結婚である彼によくぞ嫁いでくれたもので、ときには彼以上に気力をむき出しにして困難を乗り切ってくれた。ぎごちなく揺れる背中はたとえ女らしさに欠けていても、彼にとってはかけがいのない妻であり、頼りになる相棒であった。
外堀通りに突き当たる。正面に宮城の輪郭をたどりながら、隆三は終戦直後の息づまる日々を思い出していた。
ーーアメリカ帰りを見込まれてN新聞社の外信部に働くうち、ある大物右翼からの働きかけに応じて情報を提供していた彼は、終戦と同時に戦犯追及の網にひっかかり、GHQの厳しい査問にさらされることになった。
隆三はあらかじめ指示を受けた通り、容疑事実のいっさいを否認し続けた。日ごろから金銭の授受にもメモ一つ用いないほど厳重だっただけに、物的な証拠が残っているはずがないとの確信だけが支えであった。もちろんGHQの調査は精緻にわたっていて、状況からはとうてい逃れられない立場に置かれていたのだが、頑強な否定に手を焼いた係官は、彼を下級連絡員と判断して無罪放免にしてくれた。
それは幸運としか言いようがないと、彼は思い返すたびに身を引き締める。A級戦犯としてやがて処刑されたボスをはじめ、顔見知りの何人かは長い勾留生活を余儀なくされたのである。「・・・・何もかもがここから始まり、ここで終わった」
宮城に目をやったまま、隆三は胸の中でつぶやいた。時間への感慨だけでなく、この界隈は彼にとって古傷そのものなのである。ジープに乗せられ、囚人のように首うなだれて連れ込まれたビルが、いまは様相を変えて目と鼻の先にある。査問に当たったGHQ係官の大きな尻が、恐怖よりも親愛感をともなって思い出されるのも、いまこうして無事でいられるという、その幸運のせいかもしれなかった。
「あなたほら、日比谷公園よ」呼びかけられて、隆三は我に返った。
たらふく食ったアメリカの獅子たちに解放されて、早くも三十年近い歳月が流れている。その間の時間が、彼にとってどんな意味を持つのか、意識することなく考えていることがある。妻を失い、二度目の妻をもらい、掃き溜めに似た世界で糧を得ながら子供を育てた。それが人生といえばそれまでだが、何とも虚しい時の流れであった。
「あなた、どうかなさいましたか」
「いや」
「わたし一度でいいから、この公園を散歩してみたいのよ」
「おや、東京育ちのくせに中を知らないのかい。それじゃあとで行ってみようかね」隆三は時枝の生き生きした表情をうれしそうに振り仰いだ。その鼻先をかすめて、スポーツタイプの自動車が奇妙なクラクションを鳴らして通り過ぎる。併走車も競り合うように駆け抜けて、ストップランプが同時に赤々とかがやいた。
ボーイに案内されて新館の一室に収まると、隆三は疲れを覚えた。仕事の緊張から解き放されて、精神が弛緩したのかもしれなかった。それにしても、きょうは一年に一度あるかなしかの家族サービスである。息子は休みを待ちかねて、土曜の夜からドライブ旅行に出かけていた。残った妻と二人あれこれプランを考えてきたが、体力が思い通りにならないのが情けなかった。
「お疲れのご様子ね。ちょっと横になったらいかがですか」
「すまないが、一息入れさせてもらうよ」つくづくと歳月の重さが身にしみる。
三十数年前、あるキリスト系大学から選ばれて数人の同期生とともにアメリカ留学がかない、希望と不安に身を震わせながら横浜埠頭を出港した。それは文字通り未知の世界へ乗り出す緊張の船出であった。・・・・いま、こうしてホテルのソファに腰を掛け目を閉じていると、三等船室で燃焼機関の鈍い音を聴きながら、さまざまな思いに胸を熱くしたことが昨日のことのようによみがえってくる。
ーーサンフランシスコから東海岸へ、横断鉄道の暑苦しい車窓も、二十歳をいくつか超えたばかりの若者にはなんでもなかった。むしろ、好奇に満ちた新大陸へのすばらしい招待の窓といえた。一昼夜走り目覚めると、いつの間にか座席の顔が変わっていたりする。においのきつい労働者風の黒人や、懐中時計の金鎖をひっきりなしに弄んでいる太ったセールスマンなどが、彼ら東洋人の少年たち(おそらくそう見えたであろう)に疲れた視線をとめたりした。
隆三は気後れよりもはるばる来た喜びを強く胸に刻んだ。どこまでも続く平原の緑と黄土色の風景が、刻々と柔軟な脳裏に植え付けられていくさまは、二度と遭遇することのない圧倒的な体験であった。
「あの頃はよかった。目の前に世界があった・・・・」隆三は肩の位置をずらしながら、網膜に収めた地方都市の光景を引き出した。
当時、日本からの旅行者はほとんどが仕事の目的を持っていて、彼はそれら旅行者に通訳を依頼されてシカゴ、デトロイト、ミルウォーキーと、湖岸地帯を中心に小旅行を繰り返した。あるときは綿花の買い付けに来た紡績会社の社長とともに、南部の綿花工場の主を相手に買値の駆け引きまでやったことがあるが、とにかく自由に動きまわれた三年数か月の間に十数回の旅をし、それによって思いがけない額の小金を貯めたのである。
しかし、うまい話はそう長続きしなかった。昭和十六年に入ると日米関係はこじれ始め、ほどなく彼自身の身の安全を図らなければならないほど悪くなっていった。その年の九月、彼は無念の唇をかみしめながら最後の帰還船で米国を離れた。学業半ばであった。
「さてさて、それからが大変だった・・・・」彼は眠りに落ちるまえの幼児のように、薄目をあけて室内の様子をうかがった。
妻は窓際に立って夜の街を見下ろしている。ジャコビニ流星雨に備えて北側の部屋をとったので、うまくいけば前宣伝通りのものが見られる可能性はあった。しかし、散策の時点の空は曇っていたし、前夜の予報でもあまり期待できそうにない空模様だった。それでも窓際から離れない妻の後ろ姿を、隆三は少し憐れみを帯びた気持ちで、レンガ色のスーツに身を包んだ妻の無骨な体型を見守った。
「何を見てる?」果たして、うつつに訊いたのであったか。
「いえ、この高さなら、建物の中にいることさえ忘れてしまえば空にいるようですわ」
「雲は厚いようだね」
「ええ、難しそうですわ。星一つ見えませんもの」
そうか、やっぱり無理なのかと落胆しながら、黒い気流の渦巻く空間に落ち込んでいった。
どれほど漂ったときか、星が氷結したかと思わせるほど張りつめた夜空が目の前に出現した。・・・・それは、彼がアメリカからの帰途、洋上で見た星空に違いなかった。夜更けて甲板に上がると、無数の星が磨きだされて落ちてきそうな緊迫した天蓋があった。
この天空がある限り、再び外界への航路をたどることもあろうと、無念の挫折に崩れかけた心を構えなおしたのであったが、夢は二度とかなえられぬまま埋没しようとしていた。
隆三は浅い眠りに入っていた。妻がそっと出て行った気配を感じたが、さらに深く引き寄せる睡魔の手に自分をゆだねていた。
隆三が目覚めたとき、時枝はいなかった。淡い灯りが部屋を支配し、静けさが彼を覆っていた。
妻は何処へ行ったのだろうと、ぼんやり考えながら、彼は夢から抜け出し、むっくりと立ち上がった。窓際に寄り、ガラスに額を押しつける。下界はいつもの倍は暗かった。
照明が極端に自粛され、建物の表情が濁った夜に溶け込んでいる。街の息遣いが、窓を通して部屋の中まで通ってくるようだ。戦時下の灯火管制というほどではないが、あたりの暗さがはるかな空襲の夜を思いださせる。死んだ先妻との生活の断片が、淡い感情を伴ってよみがえる。体をずらすと、窓に部屋の調度品が映っていた。
背後を振り向いたが、もちろん誰も居はしない。時枝は退屈してロビーで雑誌でも広げているのか。気になりつつも、また回想に引き込まれるのだった。
「あら、お目覚めでしたの?」
彼は妻の嬉々とした声に現実の世界へ引き戻された。ドアの内側で、時枝がはにかむように身をそらしていた。
「おお、すまん。いつの間にか眠り込んだらしい・・・・」隆三も窓際で振り向きながら、いたずらを見つけられた子供のしぐさで首をすくめた。
「お前はロビーにでもおったのかね」
「いえ、はじめはそのつもりだったんですけど、思い直してバーを覗いてみましたの」
「ほう」
「時間が時間でしたから、意外と空いていましてね。バーテンさんに面白い話を聴かせてもらいました」
それはよかったとうなずきながら、やはり彼には後ろめたさが残った。ホテルのバーに妻一人をやってしまった悔いが、押し隠した表情に深い陰影をつくった。
「どうだ、おまえも少し休んだら・・・・」隆三は時枝に歩み寄ってソファをすすめた。
「はい、すっかり良い気分になってしまって」素直に腰を下ろし、ほんのりと色づいた頬を両手で押さえている。
「わたしにはわからんが、何かおいしいお酒でも飲んだのかな」
「ええ、ワインをいただきましたの。バーテンさんが年配の方で、大変な心遣いをしてくれまして。ですから、つい・・・・」
「そうか、それは楽しかっただろう。よかった、よかった」
隆三は絨毯を踏みつけて歩きまわり、「ところで、酔いがさめたら、あとで公園に行ってみないかね。わたしも夜の散歩なんて何十年来のことだし、久しぶりに心が弾むんだよ」
はっはっはっと、彼は珍しく大声で笑った。散歩を逆に促したことで、照れくささが先に立っていた。
だが、時枝の興味はバーでの出来事に集中していて、話はしばらくやみそうになかった。こっそりと時計を見ると九時をまわっていた。よほど機嫌がいいにであろう、めずらしく酔いが妻の瞼を染めている。どうしたものかと思案していると、目ざとく見破った彼女が、「さあ、行きましょうよ」とシャンと立ち上がった。
(つづく)
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